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バーテンダーという仕事を一言でこうと語るのは難しいが、少なくともミコトはただお酒を提供することだけが自分の仕事ではないと思っている。
バーには本当に様々なお客様が訪れる。そのお一人お一人が求めている味を、空気を、場を提供できているか、ミコトはずっと己に問い続けてきた。こうしてイレギュラーな状況に放り込まれても、『お客様』を前にすると自然とそのことを思い起こせる。
バーテンダーは単なる職業じゃない、私の生き方そのもの。
そう思っているから、ローワンがカクテルを是非にと言ってくれたのを嬉しく思う。ローワンがミコトの世界に理解を示そうとしているのだということが伝わってきたからでもあった。
「と言っても、今日はそんなに凝ったものは作れないんですけどね。あちらのカクテルをひとつは再現できそうです」
辛口の白ワインにあのシロップとくればこれしかないと、ミコトは先ほど自分の舌で味わった二つの風味の配合を想定しながらてきぱきと動く。
カウンターでは、お客様は常に前─バーテンダーの方を向いている。見られることを意識した無駄のない美しい動作も、優れたバーテンダーの条件の一つだ。
ガルド神がびっくり箱にしてくれたトートの中のアタッシュケースには、気の利いたことにグラスもいくつか収納されていた。取り出したのは、背の高い、細身のシャンパングラス。
と、そこで気付く。
───あ、しまった…。
苦味の少ない白ワイン、できることならば低めの温度でサーヴしたい。加えて今日は乾期のカラッと晴れた日ときている。まだ氷の用意のないカウンターで、常温のそれをどうしようかと悩んでいると、意外にも解決してくれたのはローワンだった。
「これを冷やせばいいのか?」
すっと伸ばされた右手が壺に触れると、キン、と不可思議な音が響いて、頭上の照明が一瞬明滅する。当人はなんでもない顔だが、ミコトは呆気にとられた。
「軽く冷やしてみたが…少し石に干渉してしまったようだな」
「ろ、ローワンさんって魔法とか使えちゃうんですか…!」
「あ、あぁ、そういえばミーコ殿の世界では使われていないのだったか。そこの石に込められている力と同じようなものだ。そんなに複雑なことはできないが、使えるものは少なくない」
そういえばと、樹海で化け物に相対したときも掌から閃光を放っていたのを思い出す。やはりファンタジーだなと感心しつつ、ともあれこれで白ワインはよく冷えた。
「ありがとうございます、助かりました!それじゃあ、今日は『キール』をお出ししたいと思います」
ワインカクテル、キールは非常にシンプルなレシピである。厳密にはフランス・ブルゴーニュ産のアリゴテ種で作られた白ワインにカシスリキュールを使用するのが正統とされるが、アレンジレシピも多く存在する。
まずはメジャーカップでシロップを15ml量り取り、シャンパングラスに注ぐ。あとはそこへ白ワインを加え、静かに撹拌すれば完成である。冷たすぎないよう、温度を上げるため撹拌に時間をかける。
本来は食前酒に用いられる程度の中甘辛口に抑えるのだが、今日は少し甘めに仕上げてみた。リキュールではなくノンアルコールのシロップを使ったので、アルコール度数も抑えられているはずだ。
透明感のあるローズレッドが気品を漂わせる一方で非常に飲みやすいという一面を持つ、メジャーなワインカクテルの完成である。
「──どうぞ、召し上がってみてください」
差し出されたそれを恐る恐る手に取り、ローワンは矯めつ眇めつ眺めた。暇を見て磨いておいたガラスは一点の曇りもなく、石の灯りを素直に反射する。
「美しいな…」
思わずと言った様子で呟いて、まずはグラスの透明度とその薄さに感動しているようだった。そしてグラスを傾け、まずは一口。
ミコトも少し緊張の面持ちでそれを見守る。
「──うまい…!これは本当にデュラルムか…?」
流れ込んできた甘美な液体を舌の上で転がして、たまらずローワンは感嘆した。あれだけ忌避した酸味や苦味が、シロップの甘味に包まれてその刺々しさを潜ませている。ただ甘いだけでなく、デュラルム本来の味をも内包しているから不思議である。
「お気に召したなら良かったです。びっくりするくらい飲みやすくなるでしょう?」
ほっと胸を撫で下ろしたミコトに、ローワンはひとつ頷いて驚嘆したまま問い掛ける。
「不躾だが、私にはデュラルムとシロップを混ぜ合わせたようにしか…。ミーコ殿も何か不思議な業を使われたのか?」
「ふふ、ローワンさんのおかげですよ。お酒は温度で味の感じ方が全然違うんです。あとは配合の比率とか、グラスの種類によっても変わってきます。その工夫が業と言えば業でしょうか」
「奥が深いのだな、酒というものは…。ミーコ殿のそれは、私にとっては十分不思議な業だ」
感心しつつ、一口、また一口とキールを飲み干していく。恐らくこれは、冷たい内に飲んでしまうのが正道なのだろうと何となく悟っていた。
「なんだか物足りなくなるな」
あっという間に飲み干して苦笑するローワンに、ミコトはからからと笑った。
「それなら大成功です!これは食前酒として考えられたカクテルなので、その後の食事に向けて食欲を高めるのが目的なんですよ。今度は是非、食事と一緒に召し上がっていただきたいです。今日のところは、キールをもう一杯どうぞ」
「いただこう。…養父はよく酒を嗜む。きっとカクテルも気に入るだろうな」
ミコトがもう一杯差し出してきたキールを傾けながら、ローワンはポツリと呟いた。栄養剤としての意味合いが強いこちらの酒だが、アイデンは嗜好品としてよく口にしているのだった。
そういえばローワン自身の話はほとんど聞いたことがなかったと、ミコトはグラスを拭きつつ尋ねる。
「お養父さま、ですか」
「あぁ…以前、私が孤児であったことはお話したと思うが──」
──首都モンタナールの生命線、シシロ河。清水を湛えるこの河も、かつてローワンが幼少期を過ごしたスラムを流れる頃には薄汚れてしまっていた。城からは最も遠く離れた都の外れにあるその集落は、正に掃き溜めであった。
廃墟とも言える住まいに血縁でもない住人達が肩を寄せあって暮らし、大人たちの目に生気はなく、子供たちは痩せ細って逆に目ばかりが爛々としている。ローワンが物心ついた頃には、それが日常だった。
そんな状況に光明をもたらしたのが先帝、アルザス・フェルナンド・マリオン──アルザス1世である。身分の低い側妃を母に持つ先帝は、即位以来、これまでの身分制を重んじた政治の改変に腐心してきた。その一つとして、スラム街への救済措置を講じたのである。そうして孤児たちは神殿へ、大人たちへは仕事の斡旋と住居の補助が行われ、事実上スラム街は消滅することとなった。
「それが五つ頃のことだったと思う。それから数年神殿に預けられ、八つの時に養父─アイデン・シュナイツ軍団長の世話で兵士見習いになった」
「そのとき養子に入られたんですか…」
「いや、まだその頃は単に有望そうな子供を軍に斡旋してやろう、というだけの話だったな。それこそ、魔術の素養が多少なりとあったことが大きかったろう」
ほとんど正規兵士の小間使いだったが、それでも寝床と食事、少ないながらも給金が貰えた。そこからローワンはめきめきと頭角をあらわしていったのである。
そうしてかねてより目をかけられていたアイデンに、シュナイツ家の跡取りとして養子に迎えられたのが十八の時のこと。
それから周囲の様々な目を振り切るように武功を積み上げ、騎士の称号を拝命したのが二十三の時であった。
「──申し訳ない、自分の話ばかりしてしまった」
いつになく喋る自分に今気付いたように、ローワンは我に返って頭を下げた。やはり酒には不思議な力があるのかと内心訝しむ。
「いいえ、なんだか少しローワンさんに近づけたような気がしちゃいます。お酒って、色んな意味で人を饒舌にしてくれるんだと私は思ってるんです。だから、この『バーテンダー』っていう肩書きも気に入ってるんですよ」
「バーテンダー…」
「はい。バーはいわゆる酒場、テンダーには世話役、相談役という意味もあるんです。人柄が優しいっていう意味でも使われるんですけど、そちらは目下勉強中ですね」
茶目っ気たっぷりに言うと、ローワンも珍しく声を出して笑った。慣れない酒気に、少し酔っているのかもしれない。
「…バーとは、不思議な場所だな。今日はこうして私が語っただけなのに、この『キール』を飲んだだけでミーコ殿のことを少し知れたような心持ちがする」
穏やかな表情で杯を干したローワンに、ミコトは擽ったそうに笑って言った。
「そうですね…なんだか私も、ようやく本来の自分の姿を見ていただけたような気がします」
この日、二つの世界の二人の住人は初めて本当の意味で向き合い、互いの心に触れた。これまで手を引きつ引かれつ闇雲に走ってきた足を止め、顔を見合わせて笑ったような、そんな心地のよいくすぐったさを共有する和やかな時間。
──それは、収穫が始まろうとしていた白葡萄壊滅の報が届く、わずか二日前のことであった。




