13
皇帝の執務室は、祖父敬一郎の書斎に似ている。ミコトは不遜と思いつつもそう感じていた。
特に部屋の中央に鎮座する重厚な応接セットは使い込まれていて、先帝も祖父と同じく多くの客人を歓待したのだろう。本来ならば今も…。
そんな感傷をおくびにも出さない若き現皇帝は、華奢ながらも長い足を組んで座り、時折トントンと肘掛けを指で叩きながらローワンの奏上に聞き入っている。それが父君と同じ仕草であることなどミコトには知るよしもなかったが、背後でラグナートはそっと微笑んでいた。
「──なるほど。少しは形が見えてきたな。まずは一歩…されど何より大きな一歩だ」
「大きすぎると言ってもよいでしょう。まさか自分の生きているうちに新たな神話が紡がれるとは…」
うっとりとしてみせたラグナートだったが、アルザスの冷たい視線に慌てて気をとりなおした。
「こほん、…ところでミーコ様、察するに『緑の人』の業には随分と驚かれたのでは?」
「それはもう!色々と不思議な力を使う世界だとは思ってましたけど…。私の故郷でも、確かに“電気”という不思議な力を利用していたりはしたんですが」
「私にも石などに頼らず生活される術というものを、是非お教えいただきたいものです」
よほど知的好奇心が擽られるのだろう、切望の眼差しを向けつつも、ラグナートは涙ぐましく己の役割を果たす。
「ミーコ様がご覧になった通り、リーシュ殿は作物や土に活力を与える能力を授かっておられます。生命の水や神の涙と縁深い我が国に於いて、『緑の人』とはすなわち神の作物の守りびと。神殿になくてはならぬ御仁です」
ラグナートは卓いっぱいの大きさの地図を広げ、いくつかの国々の名を挙げながら指し示していく。
言葉が分かるとは言え、ミコトにこの世界の文字は読めないが、特徴的な世界地図はすぐに覚えてしまえそうだった。ガルディアでは、大陸の中心に広がる『叡智の大地』を取り囲むようにして数多の国々が発展している。中でもここ、カザン帝国は、フロイツ教皇国を内包する最も国土面積の広い大国であるらしい。
ガルディアの主要国は五つ。叡智の大地を中心として六時の位置にカザン帝国を置くとすれば、
外海の侵食によって分かたれた島々からなるコリウス連合国
一転、国土のほとんどを砂漠が占めるゲルニア帝国
石のほとんどを産出する魔術大国トロヴァ王国
世界の経済拠点である商業国家エルケナル王国
と小国を挟みつつ右回りに配されている。ミコトには不思議に思えるが、事実として神に作られたこの世界では、そもそもこれらの国自体が神に与えられたものであるらしい。
国境を侵すことは大罪と考えられ、万一兵を挙げれば、教皇を旗印とした多国籍軍により鎮圧される条約が結ばれているという。
「ガルディアの主要国のほとんどは首都に神殿を置きますが、必ずその神殿にふさわしい『守りびと』が任ぜられているのですよ。有名なところで言えば、エルケナル王国は火山一帯を神域『紅の山』と定め、『炎の番人』と呼ばれる守りびとがその地の長を務めていると聞きます。その方はいわゆる鍛冶の技能を与えられ、不思議な力を持った剣を鍛えるそうです」
「そして『青の泉』はここ──ゲルニア帝国の神域の名だ。まさしく天啓の地と呼ぶべきか」
アルザスは地図を示し、少し皮肉げに笑った。
「ゲルニア帝国とはほとんど国交がない。コリウス連合国を通ってまとまった交易をするにはどうしても船がいるが、手配が煩雑になるうえ危険も多い…海賊が出るからな。おまけにうちは商業国家エルケナルの隣国だ」
どうしても取引はこちらに集中する、と。
「いずれにせよ謎めいた国だというのはどこも同じ認識らしいがな。ローワンの言う通り内政干渉にあたることもある──まずは秘密裏に探るほかあるまい」
「は、すぐにマクシミリアン閣下へご報告し、暗部衆の手配を願い出て参ります」
「うむ。無論調査を重ねた上でのことにはなるが、神域へ赴かねばならぬ以上、最終的にはミーコ殿自らご足労願うことになる。…頼めるだろうか」
「わかりました」
コクリと頷いて、自分のやるべきことを整理する。まずは二週間ほどかかるという葡萄の生育を待って、ワインの仕込みを試みよう。そもそも自分が生命の水を作り出せるのかも疑問だが、この世界の人々にも醸造が可能かも検討しなくてはならない。
「世界の存続には、生命の水と賢者の血筋の復活、そのどちらをも試みる必要がありそうだ。ミーコ殿にはまず、前者に注力していただきたい。ラグナートは─こう見えても─最年少で宰相職に就いた切れ者だ。少しはお役に立つだろう」
「えーっと…よろしくお願いいたします」
褒めているはずが、言葉の端々に散りばめられたトゲがラグナートをぐさぐさと傷付けているのが分かった。
心なしか体を傾がせたラグナートへ控えめに頭を下げる。全く不思議な主従関係だが、だからこそ絆の深さを感じてミコトは微笑ましくなった。
(あ、そうだ)
「もしよろしければ、こちらの『酒』について研究してみたいのですが…」
どちらにせよ、葡萄が生るまでは手持ち無沙汰だ。少しは我儘を通してもいいかと、ミコトは密かに抱いていた願望を口にのぼらせた。
こちらへ来てから、せっかく独自の酒文化を持つというのに一口も口にできていないのだ。このままでは酒好きの名が廃る。研究とは言い繕ったものの、親しい友人が事情を聞けば『飲みたいだけだろっ』と一発貰いかねない本音が見え隠れしていた。
そんなミコトの胸中を知ってか知らずか、これは意外なほどあっさりと承認され、必要なものがあれば何でも揃えると最高権力者たちは事も無げに言う。
おまけに城の酒蔵を好きにしてよいとお墨付きを貰え、ミコトは年甲斐もなく喜んだ。
「え、いいんですかそんな!片っ端から味見しちゃいますよ?挙げ句にレシピ考案して誰彼構わず新作振る舞っちゃいますよ?!」
「そんなに喜びを顕にしてくださるミーコ殿を初めて見たな…」
苦笑しつつ、アルザスは頷く。
「それくらいのことは何でもない。聞けばミーコ殿は『酒』をこちらとは異なる形で扱われる生業に就いておられたとか。是非その知見を我々にも教えていただきたい。ラグナート、」
「は、よろしければ早速酒蔵をご覧にいれましょう。まだ城内もゆっくりとはご案内できておりませんし、僭越ながら私がご一緒させていただきます」
「よろしくお願いします!」
瞳を輝かせ、ラグナートの先導で部屋を辞そうと立ち上がる。当然のごとく続こうとしたローワンを、お前は少し残れとアルザスが引き留めた。
一瞬空気が張りつめた気がして振り返ったミコトだったが、当のローワンには心当たりがあるらしく穏やかな表情で目礼される。
(そういえば…ずっとついててもらったけど、騎士って確かかなり偉い人だったよね?)
ミコトにばかりかまけていられないのだろう。現代人らしい鈍感さで、その代役に宰相が遣わされる異常性にも気付かなかったミコトは、そのままラグナートに促されて退室した。
至って平静にミコトたちを見送り、アルザスは『まぁ掛けろ』と正面のソファを指した。己は執務机から立ち上がり、ローワンから背を向けて、薄紗のかかった大窓から青空を見つめている。
「このところ朝はやけに肌寒いが、やはり昼間は乾期の日差しだな。──どうした」
軍人であるローワンは当然のこと、恐らく同年代の中でも華奢な方であろうアルザスの背中は、やけに大きく見える。その背に向けてローワンは跪き、深く頭を垂れていた。…咎めがあるだろうと、思っていた。
「城内はおろか、あまつさえ御前にて抜刀いたしましたこと、弁明の余地なき大罪と心得ております」
あのとき確かにミコトも驚愕していたが、恐らくそれの意味するところまでは思い至っていなかったろう。かの世界はこちらとあまりに隔たった文化が発展している。
「なんだ、やはりお前はクソ真面目だな」
「…陛下」
可憐とも言える唇から飛び出したスラングに脱力してしまう。使徒殿の前では君主然と振る舞っているが、この方は時々こうして砕けすぎる。
「この場での帯剣を許されている者は、すなわちこの場での抜刀を許される者だ。咎め立てするものか。…ま、面白いものが見られたとは思うが」
ふん、と笑って再び『掛けろ』と命じたアルザスは、不作法にも執務机の上に胡座をかく。拍子に机上の書類が不穏な音を立てたが、一向に頓着しなかった。
こうしているところを見れば、騎士たちも随分と手を焼かされたやんちゃ坊主は健在だなと思ってしまう。
「お前には珍しく、勝手に体が動いたという感じだったな。そこまで『使徒殿大事』になるとは思いもしなかったぞ…あながちマックスの言うことも的外れでは無かったか?」
マクシミリアンの『嫁』発言をとっくに知っていたアルザスは、からかいの色を隠しもせずにわざとらしく首を傾げてみせた。
らしくもなく狼狽えて、ローワンは視線をさ迷わせる。我ながら挙動不審とは自覚していたが。
「陛下までそのような…私はただ…」
「あぁいや、別にお前をからかいたかった訳じゃないさ…ただ、」
ふ、と目を細めて。
「あの方は本当に──何者だろうかと、そう思ってな」
執務室に不穏な呟きが落ちたころ、ミコトはラグナートの導きで城内を巡っていた。
時折すれ違う人々は、一様に足を止めて端に寄り、ラグナートへの敬意を表す。無論、後続するミコトのことを興味深げにチラリと見やる者もいた。
アーニャやマルスと同じお仕着せのメイドたちはスカートの裾を摘まみ、軍人や男性の使用人たちは目礼をとって貴人が行き過ぎるのを待つのがマナーであるらしい。
「──こちらを左に参りますと、食堂と厨房がございます。右へ行きますとちょうどその厨房の裏手、酒蔵になっております」
『氷室を挟んで、一応行き来のできる造りになっているのですよ』とラグナートは続けた。
「お待ちかねのご様子ですから、早速酒蔵へ参りましょうか」
やぶへびになりそうで口にはできていない疑問だが、下手をすると年下であろうラグナートに微笑ましげにされるのはどうも恥ずかしい。
(でもだめ…!目の前にあるのに我慢なんかできない!)
だって私ってば酒神の遣いですし…!と当の酒神が聞けば失笑ものの言い訳を、心中で誰にともなく繰り返した。
「薬効を持つ『酒』は、その製造や取扱いに国の免許が必要です。一歩間違えれば毒にもなりうるものですからね」
氷室の手前にあるからだろうか、少し冷気の滲み出る大きな扉。厳重な鍵を解錠した先にあったのは。
「よってこの国で作られた酒の全ては、城へ一定量の供出が義務付けられています」
つまり、と蔵の中へ数歩進んでミコトを振り返ったラグナートは、両手を広げて背後のモノ──大量の酒樽を示し、微笑む。
「どうぞ、ミーコ殿。──これが、我が国の酒文化の全てです」
そこにはまさしく、ミコトにとっての『宝の山』が築かれていた。




