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巨人の壁からせりだすように聳える高き峰。その麓にへばり付くようにして、カザン帝国皇帝の居城は作られている。
黒い岩肌の色をそのままに、あたかも山の一部であるかのように建てられた巨大なそれは、さながら要塞のようにも見えた。
しかし更にトゥーラを駆って下降してゆくと、決して無骨なだけではない、荘厳な城の全容が明らかになる。
自然の河がそのまま使われているのか、ぐるりと半円状に城を囲む濠は人工のものではあり得ないほどに幅が広い。城門まで続く橋は一つきり。恐らくは有事に備えてのことだろう。いわゆる『ヨーロッパのお城』を想像していたミコトだが、尖塔などは無く、直線的な要塞を思わせる形をしていた。
ここへ侵入するには空か背後の岸壁を忍んでゆく他ないが、あえて高低差をもたせず作られた城の上空は見晴らしがよく、草木もない絶壁の崖を伝っていくのはほとんど不可能だろうとローワンは言った。なるほど、この独特な様式は空を翔ける獣がいる世界ならではかとミコトは感心する。
大きく城門の上に翻る旗は国旗だろうか。細かい意匠までは見えないが、光沢のある紫に白い紋章が染め抜かれているのが分かる。
「こんなお城初めて見た…!」
「あれが我らがカザン帝国皇帝、アルザス2世陛下のおわす居城だ。『鋼の城』とも称され、難攻不落を誇る。まぁ、もう数十年近くは侵攻もなく平和なものだが」
「それなら良かった…。戦争中とか、魔王を倒しに行けなんて言われたらどうしようかと思ってました」
魔王…?と首を捻りつつも、ローワンは生真面目に否定した。
「ミーコ殿は神の遣いし賓客だ。例え陛下とて無下にできるものではない」
「うーん、そんな価値が私にあればですけど…。ところで、なんでガルド神に会う?ためにこちらへ来る必要があったんですか?」
中央神殿と言うぐらいだから、イシュト様たちの所が最も神に近いのではないかと思ったけれども。
「中央神殿は、常に中立かつ公平な立場をとるために、ガルド神の祝福を受けた“器”を各国に配分しているんだ。聖遺物と言ってもいいか…かつてガルド神がこの地を創造されたときに縁のあるものだと言う。中でもガルド神との交信に適すると言われているのが、このカザン帝国にある“器”なのだそうだ」
「それって一体…?」
「それは見ての楽しみ、とさせてもらおうか」
ミコトの想像する聖遺物と言えば、聖杯や聖剣であろうか。むーっと唸るミコトを、ローワンは少しおかしげに見下ろした。
気を取り直して視線を巡らせば、城から僅かに離れて大きな街らしきものも広がっていた。赤茶けた屋根の家々が、まるで車輪のように張り巡らされた通りに仕切られて密集しているのが見て取れる。なだらかな起伏の丘にぐるりと囲まれる様は、日本で言うところの盆地そのものといったところか。日当たりの良さそうなその丘には果樹だろうか、広大な畑が広がっているようだった。
(これが首都かぁ…地図にしたらパリに似てるかも)
そうこうしているうちに、城が間近に迫ってくる。ちらほらと見える衛兵らしき人影に到着を知らせるように旋回した後、トゥーラは城門の中にある石畳の広場へと音もなく着地した。
ミコトを抱えたままひらりと飛び降りたローワンは、駆け寄ってきた衛兵の一人にトゥーラの手綱を預け、「陛下はどちらに?」と簡潔に尋ねた。そして一方のミコトは。
(お、下ろしてください…!)
チラチラと刺さる周囲の衛兵達からの視線に、いたたまれずモゾモゾと身動ぎしてみる。頼みの綱のトゥーラは厩があるのだろうか、衛兵に連れられて行ってしまった。
軍人らしい硬質な声音で何やらやりとりをするローワンたちの邪魔になるのは本意でなく、結局ミコトは抗議もできないままローワンに運ばれることになったのである。
「あの、これからどこに?」
「謁見の間にて、陛下にご拝謁いただきたく」
いよいよ皇帝陛下のお出ましである。
周囲の衛兵を憚ってか、ローワンの口調は一層硬いものに変わっていた。
お疲れではないか、と気を使ってもらったけれど、ここで頷こうものなら皇帝陛下を待たせてでも休ませてくれそうな雰囲気だったので、オトナなミコトはもちろん首を左右に振った。善良な一般市民としては、偉い人を待たせておいてくつろげるような精神構造はしていないのである。
(…そして衆人環視の中をお姫様抱っこで運ばれる趣味もありません…!)
しかしそんなミコトの不満も、城の玄関ホールに一歩──ローワンの足で──踏み入ると消えてしまった。
「すごい…」
ぽかんとして思わず呟く。城の内部は、良い意味でミコトの想像を裏切っていたのだ。
武骨な岩肌の外観とは打って代わり、内装は木調で誂えられていた。それも飴色になるまで手がかけられた、上質な木材である。ミコトは不意に、店の使い込まれた木製カウンターを思い出した。
柱は乳白色の石造り。布や壁紙類は落ち着いたモスグリーンを基調とした装飾で統一されている。はっきり言って、城の外観からは想像もつかない温かみに満ちた造りだ。床は寄せ木細工のように色の異なる石が幾何学的に組み合わされた意匠が施され、貴人の順路なのだろう、ワインレッドのいかにもなロングカーペットが敷かれている。
──そうして呆気にとられて、完全に意見する機会を逃したミコトに掛けられたのは、随分と野太い『救いの声』だった。
「戻ったか、ローワン!」
思わず視線をやった先には、優美な曲線を描いたシンメトリーの階段が。玄関ホールに朗々と響いた野太い声の持ち主は、声音を裏切らぬ堂々とした体躯で階上に仁王立ちしていた。
「中央神殿からの報せには肝を冷やしたぞ!あの紅獅子と一騎討ちとは、相変わらず顔に似合わぬ豪胆な男よ!」
ほとんど飛ぶようにして階段を駆け下りてきた壮年の巨漢は、ようやくローワンの腕の中の存在に気づいて首を傾げた。
「マクシミリアン様」
目礼をとるローワンを尻目に、巨漢──マクシミリアンは至って真面目に呟く。
「己はそなたが救世の使徒殿を連れ帰ったと聞いていたのだが…」
ふぅむ、とひとつ頷いて。
「嫁の間違いであったか!」
「「違います!!」」
にぱっ!と朗らかに天然をかますマクシミリアンに、二人の声は見事シンクロしたのであった。
決まり悪げなローワンにようやく降ろしてもらい、ミコトは“マクシミリアン”と名乗る男性に向き合う。
「いやはやどうもご無礼を!お初にお目にかかりまする。己…いや私はマクシミリアン・ダーカー。恐れ多くも騎士団長の任にございます」
「あ、どうもご丁寧に…私はミコト・カンナギと申します」
「使徒殿はこちらの言葉を解されるのか!んん?ミーコゥー…?失礼、ミィーコゥー…」
「どうぞミーコとお呼びください。異国の名ですので…」
「おぉ、それでは遠慮なくミーコ殿と!」
礼の一種なのだろうか、マクシミリアンは右手で拳を作って胸に当てながら腰を曲げた。
やはりこの名前は発音しづらいらしい。苦笑しながらも、ミコトは改めて目の前の体躯に圧倒されてしまう。
背丈が二メートルはあるだろうか、横にも大きいが、恐らくは筋肉の塊なのだろう。鋼色の鎧に赤いマントを翻らせる姿は、まさに『武人』という言葉で形容するに相応しい。
しかし栗毛のくるくるとした癖毛や、少年のように輝く碧眼、そして何よりも朗らかな表情が威圧感を与えない。ミコトも安心して握手を求めることができた。
…サッとひざまずいて恭しく手の甲にキスをされたのには驚いたけれども。




