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遅くなりすぎてすみません…!
「行ってしまわれた…」
遥か遠くに滲んでいく人影を見送りながら、イシュトはポツリと呟く。まだ日が昇って間もないが、二人と一匹の旅人たちは早々に飛び立って行った。
朝日を浴びて神々しいまでの佇まいとは裏腹に、どこか苦い想いを滲ませた声音。ハンニバルは無言で手を振り人払いを促した。岩場に跪いて控えていた従者たちが、音もなく去っていく。
「…何を悔やんでいる?」
未だ遠くを見やるイシュトの半歩後ろから、普段より柔らかい───二人のときだけの親しみを込めた声音で問いかける。
「バァル…」
『教皇』のベールを脱ぎすて、『少女』の顔になったイシュトは振り返りざま、倒れ込むようにしてハンニバルの胸に体を預けた。びくともせずに受け止め、そっと抱き寄せてやると、むずがる子供のように頭を擦り付けてくる。きゅっとハンニバルの軍服を握り込む両手がどこか健気で、愛おしさが募った。
「わたし、怖いのよ…。この世界の危機に、わたしは何もできない。本来何の関わりもないミーコ様に重責を課して…あの方に万が一のことがあれば、…っ」
声を震わせたイシュトが、ようやく顔を上げた。不安に揺れる瞳で、一心にハンニバルを見上げてくる。
「まるで、赤ん坊を抱いて薄氷の上を歩いているみたい…!自分の一歩一歩がこの世界を破滅に導いているんじゃないかって、どこかで道を誤っているんじゃないかって、いつも怯えているのよ…」
言い募るイシュトの目尻に浮かんだ雫を無骨な手で拭ってやりながら、ようやくハンニバルは口を開いた。
「苦悩無き決断は驕りだ。そして行動無き為政者は愚鈍だ。悩み迷いながらも歩みを止めぬお前を、皆は誇りに思っている」
この華奢な体に、どれだけの責任と覚悟を背負っているのか。一度は己の腕から零れたこの存在を追いかけ、血反吐を吐いて聖騎士まで来た。ただ最後まで傍にいる、それだけのために。
「確かに、今お前は薄氷の上に立っている。だが忘れるな。その後ろには、お前に従う万の民がいる。好きなだけ悩み、間違い、足掻け。私は常にその先鋒に立ち、最後までお前と歩き続ける」
後ろに流した白銀の髪は、精悍な男の相貌を際立てる。彫りの深い顔立ちは影を纏い、思慮深さを感じさせる一方で、僅かに吊り上った黄金色の瞳はひたすらに鋭い。その様をして『猛る獅子』と評される男は、ただ一人と定めた女の前で微笑んでいた。
真っ直ぐに自分を見つめてくる男としばし視線を交わし、イシュトは世界で一番安心できるその胸に再び顔を埋めた。
「すきよ、バァル…そばにいてね…」
「…あぁ。─────」
薔薇色に染まった少女の耳を優しくなぞりつつ、最高位の騎士が呟いた言葉は、ただ一人の耳にだけ届いた。
「恋人同士───!?」
雲を割って聳え立つ、岸壁。
叡知の大陸を護る巨人の壁だけが、空中で存在感を主張している。
見晴るかす大地は遥か下に、ただ土色と緑だけが認識できた。
そんな本来風と鳥の声だけが響く空間を、ミコトの素っ頓狂な叫びが切り裂いた。
(確かにお二人ともびっくりするぐらいの美形ではあったけど…!え、年齢差いくつなの?!)
ハンニバル将軍ってもしかして…などという至極失礼なミコトの思考を察したのか、驚愕の事実をサラリとこぼしたローワンは苦笑した。
「あぁそうか、これもミーコ殿の『常識』ではないわけか。すんなりと馴染んでくださるとは思っていたが、思わぬ所に齟齬が出るものだな。…倪下と将軍の齢は同じだと伺っているが」
「え?!それはその…どちらか極端に肉体年齢が偏っているとか…?」
「ある意味でそれは正しい。どちらかといえば倪下がそれに当たるのか。
ガルディアでは、上位の神職に召し上げられると肉体的老化がほとんど停止する。…これはどうやらミーコ殿の世界ではあり得ないことのようだな」
「あり得ないです…!医療は発達してるけど、不老不死なんて…」
「不死というわけではないし、神職を辞せばまた再び歳を重ねていくことになるが。
教皇倪下は14の時に時期教皇として指名され、中央神殿に入られた。将軍閣下とは幼馴染みだったと聞くが、通常なればこれが永久の別れとなるはずだった。しかし、閣下はそれから天賦の才と驚異的なまでの胆力で一気に騎士の座へと上り詰め、そしてとうとう聖騎士を拝命し、同じく肉体の時を止めた…
──というのが、巷で語られる『獅子将軍と聖女さま』の物話だな」
騎士位を拝命するまでの多くの武功も同時に語られるが、それはまた次の機会に。
と少しからかいの色を覗かせるローワンに、ミコトはなんとも言い難い表情を向けた。
「もう色々と衝撃的すぎて…。えっと、ハンニバル将軍はおいくつで…?」
「32で聖騎士に叙任されたそうだ。ほとんど名誉職であることを考えると、前代未聞の若さだな」
幼馴染み…いや、好きな女の子を追いかけて18年とは。鉄仮面と称されていたが、獅子の二つ名に劣らぬ情熱的なご仁であるらしい。
「あれ、ということは少なくとも在位20年は経ってらっしゃる…?」
「倪下は今年で在位50年を迎えられる」
「?!…あ、もうだめだわ…カルチャーショックが…」
かるちゃあ…?と首を傾げるローワンを尻目に、ミコトは「ここは異世界異次元ファンタジー…」と己に言い聞かせた。
そしておもむろにハッと顔を上げる。
「も、もしかしてローワンさんも実は50才とかそんな…?!」
「あぁいや、私は今年で恐らく28ぐらいかと…。大抵は少し上に見られるが」
「恐らく?…あ、」
「孤児であったので、正確な歳のころは分からない。…どうぞそのような顔をなさらず。大して珍しくもないことだ」
「いえ、すみません…。あ、でも本当に私たち同い年くらいなんですね!」
意志の強そうな目許に真っ直ぐ通った鼻梁は、少年のような甘やかさではなく、青年期特有の精悍な雰囲気を漂わせている。この世界の美醜感覚が大きく変わらないのなら、まず間違いなく『イケメン』に分類されるだろう。
人種の違いからか、年齢不詳だとは感じていたものの、どうやら同年代であったらしい。
慌てたミコトが何気なくそう溢すと、ピキリとローワンは固まった。
「………それは、ミーコ殿の世界とは暦が違うということなのだろうか?」
「え、昨日聞いた限りではそう変わらないと思いますけど…」
「成人されているとは思っていたが、しかし……」
初めて見るような歯切れの悪さで、ローワンは気まずげに口ごもる。
「その、ミーコ殿、ご結婚は…?」
「…お陰様で何のご縁もございません…」
(あ、やっぱりこっちでも私って嫁き遅れな感じ…?!これはドン引きされてるとかそういう…?!)
アワアワとし始めたミコトに気づいたのか、些か慌てた様子でローワンは言った。
「いや、かなりお若く見えたので考慮していなかったが、伴侶ある方にこのように触れて良かったのかと──」
そう言われてしまうと、この『おんぶにだっこ』状態が改めて恥ずかしくなってしまう。
「ふふふ…全くなんの心配もいらなかったですねー…」
そしてちら、と視線をやると、その意図に気付いたローワンは苦笑した。
「騎士とは言え、孤児あがりの血生臭い戦士のところになど、ご令嬢方は寄り付きもしないさ」
少しずつ砕けつつあるローワンの口調を好ましく思いつつ、ミコトも笑って見せた。
「それじゃあ、寂しい独身同士、改めてよろしくお願いしますね!それにもっと、気軽に接してもらえたら嬉しいです」
今みたいにね、とおどけると、ローワンも頷いた。
「粗忽者ゆえ、そう言ってもらえると気が楽だ。ありがたい。
──さて、そろそろ見えるぞ」
言いながら手綱を引いて、ローワンは下降の指示をトゥーラに伝えた。
主人たちの腑抜けた会話を聞いていたのか、僅かばかり鼻を鳴らしてその指示に従う。
途端に吹き上げた上昇気流に髪を荒らされながら、どうにか目を開けたミコトの眼下には──
堅牢無比なるガルディアの守護、カザン帝国の首都が広がっていた。




