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(とは言ったものの…)
まず何から始めたものか、検討もつかない。さっそく明日には出立しましょうと、早々に尊は客室を宛がわれた。夢にまで見た柔らかなベッドだったけれども、意外にもストンとは眠りに入れず、かれこれ半刻ほどこうして悶々としている。
ローワンは扉の前で警護すると言って聞かなかったが、なんとか説得して彼にも休んでもらった。イシュトがここには結界があると注進してくれなかったら恐らく納得してくれなかっただろうけども。
考えることは色々ある。そもそもどうやって帰るのか、祖父は今どこにいるのか、私に何ができるのか…。赤ワインを作れとて、葡萄の品種から開発しろなどと言われたらまず不可能だ。
(まぁ、色々欲張っても仕方ないよね。まずはカザン帝国とかいうローワンさんの国へ行って、生命の水についてできることをやってみよう。そういえば、ガルド神とコンタクトを取る方法があるとか言ってたけど───)
そこでようやく眠気が訪れて、尊の身体と意識は真っ白なシーツの海に沈んでいったのだった。
神殿の外に設けられた決して小さくない小屋には、多くの馬や翼を持つ騎獣が繋がれている。ほとんど草食動物で占められたその小屋の一角は今ぽっかりと空けられ、十分な距離を隔てて翼虎…トゥーラが収容されていた。
調教を受けたトゥーラが分別なく騎獣たちを襲うことはないのだが、本能故かひどく怯えられてしまうのである。
カンテラに入れられた光の石で柔らかく照らされた内部、横臥するトゥーラを撫でてやっていたローワンは、特に隠すことなく近づいてくる気配に立ち上がり、振り返った。
「トゥーラ、と言ったか。いつ見ても素晴らしい個体だな」
「ハンニバル殿…恐れ入ります」
当のトゥーラはちらりと目を開けてハンニバルを見やったが、すぐに興味を無くしたか、再び寝入る体勢に入った。
主以外には屈伏しない、自分と同じ性質を理解しているハンニバルは、特に言及することなくローワンと向き合った。
「使徒殿は」
「既にお休みです。倪下も?」
「あぁ、少し高揚したご様子だったが。ずっと思い悩んでおられたからな…微かでも希望が見えて、自制が効かなかったのだろう」
使徒殿には酷であったろうが、と僅かに頭を下げるハンニバルに、ローワンは苦笑した。
「…ああして耳触りの良いことを言ったとて、私も同じようにミーコ殿に期待してしまっていることは否定できない。むしろ私の方が卑怯と言ってもいいでしょう」
どこか自嘲にも似たローワンの表情を、ハンニバルはいつもの鉄仮面でじっと見つめていた。
身寄りのない孤児からのし上がり、ついには騎士の位を手にしたローワン・シュナイツ。市民の出で聖騎士の座にある自分が言えたことではないが、彼の知名度は帝国で抜きん出ている。
それもそのはず、『市民』とは『平民』に非ず。そもそも城下に暮らすことを許され、姓を保有している時点で特権階級なのだ。それ『以下』の出自でありながら叩き上げで台頭し、ついには軍団長の後ろ盾を得て騎士の称号を拝命する────まさに事実は詩曲より奇なり。
貴族たちには煙たがられるという彼だが、市井からの支持は大きい。なるほど、吟遊詩人たちの好みそうな筋書だ。だからこそ。
(あの喰えない老兵に踊らされる若輩者と見ていたのだがな…)
見事に翼虎を手懐けていることと言い、ほぼ単独で紅獅子を退けた手腕と言い、どうやらハンニバルは彼を見くびりすぎていたらしい。
「…では、アレは使徒殿を引き留めるための方便だったと?」
「それは自分でも、何故ああして口にしてしまったのか…。ただ、誓ってあの言葉に偽りはありません。ミーコ殿に初めてお目に掛かった時から…そう、この方のために尽くさねばと、当然の如く思ったのです」
まだ自分でもその感情を咀嚼できないのか、言葉を紡ぎながらもその表情はどこか困惑を隠せないでいる。そうだ、と頭の隅でローワンは思う。
容易には屈服せぬはずの翼虎、しかも既にローワンを主と定めたトゥーラを、ミーコ殿は如何にして従えたのか?最後になるはずだった己からの命令を達した後は、恐らく国に帰属することなく野に帰るだろう…そう考えるのが自然なほど、翼虎とは自尊心の高い生き物なのだ。
それは、使徒たるミーコ殿の性質なのか、それとも。
(トゥーラと私の性…なのか?)
使徒が屈服の力を持つのか、それとも、我々が従属の性質を持つのか。
これではまるで…。
「竜の民、か」
ハンニバルの呟きが思考と重なって、ローワンはハッと顔を上げた。
「賢者を守護せし屈強の民…本能的に使徒殿を保護せんとする貴殿の様子は、正にかの伝説の民のように思えるな」
本気とも冗談ともつかぬ平坦な口調で言い放ったハンニバルの本心は読めない。彫の深い、野性的とも言える精悍な顔が灯りに照らされて、どこか威圧的な空気を纏っていた。
「…お戯れを」
竜の民は、鋼色の髪と赤い眼を持つという。ローワンの髪は確かに鋼色をしていたが、珍しくはあっても巷に存在しない訳ではない。自分の出自は誰とも知れないが、叡智の大陸の中心におわす伝説の民の子供が、まさか帝国の最下層に打ち捨てられたはずもない。
それに、とあえて軽い口調で続けた。…自分の胸中で渦巻く違和感には気付かないふりをして。
「私が竜の民であったなら、ああして紅獅子に後れをとり、ミーコ殿の御手を煩わせることも無かったかと」
守護者の語源ともなった竜の民の力、それは正に賢者を守り抜くための異能である。勝利する者と呼ばれるその能力は、どんな妖魔をも屈服させる力であると言われていた。そんな能力があったなら、自分ごときに生命の水を使う必要などなかったはず。
事実、夢見がちな大衆の中には更なる逸話を求めて、ローワンを『竜の民の血を引く者に違いない』などと評する者もいたが、当人としては苦く思うほか無かった。
否、今はそれよりも。
「むしろ懸念すべきは───」
「──中心部での紅獅子出現。そうだな?」
軽口が過ぎたと一言断って、ハンニバルは核心をついた。わざわざローワンを訪ねた、その本題を。
「はい。我々が紅獅子に遭遇したのは、まだ日も高い時分のこと。しかも、まだ大陸の中心部に近い場所であったはず」
本来竜の民を恐れているはずの妖魔が、よりにもよってその居住地近くに出現した。それの意味するところは。
沈痛な面持ちで、ハンニバルは無意識に拳を握った。
「…もはやあの地に、賢者はおろか──竜の民さえいないということか」
「確信はありませんが、その可能性は高いかと。…僭越ながら、神殿でも?」
「あぁ。言うまでもなく他言は無用だが…この二十年、彼らとの接触は一切ない。やはり、何か異変があったのだな…」
これまでのミーコの様子から、ローワンは薄々察していた。どうやら、かの異世界は随分と神との関係が希薄なのだと。
彼女が恐らく『神話』だと思っている創世記は、間違いなくこの世界の歴史である。実際に賢者も、竜の民も、錬成師も、ガルド神さえもが確かに存在しているのだ。───少なくとも、二十年前までは。
「…私は皇帝陛下にのみ、ご報告を。それからミーコ殿には──」
「分かっている。使徒殿へは、私の口からは何も」
賢者も、正当なる錬成師の後継も見つからぬ今、ミーコが知らず背負う荷はあまりに重い。そればかりか、本当に彼らが絶えていたとすれば、錬成師の彼女がいくら一人足掻こうとも、ほんの僅かこの世界の寿命を延ばすだけに終わるだろう。生命の水の製法が復活したとて、継承者がいなければ早晩世界は滅ぶことになる。
踵を返したハンニバルを見送り、ローワンは一人、夜空を仰いだ。
お守りする、などと偉そうに。
自分には、お側にいることしかできない、の間違いではないか。
(本当に、竜の民の血を引いていたのなら)
馬鹿馬鹿しい『もしも』さえもが頭を過る。
男はしばらくの間、いつの間にか石の力も尽きた暗闇で、一人己の無力を噛み締めていた。




