Prologue
──────────巫 尊。
カウンター越しに名刺を差し出すたび、相手の目は大抵の場合興味深げに見開かれる。
名乗りつつ、なかなか見ない字面でしょうと苦笑して見せれば、会話の糸口はもう尊の手中にあるも同然だった。
都内一等地に佇むバー『REPLICA』は、上品で温かな間接照明に木目を活かした重厚なカウンターが控えめに照らされ、ワイン蔵を思わせる石造りの粗い壁面がミステリアスな大人の空間を演出する、いわゆる高級オーセンティックバーである。
オーナーはもちろん、バーテンダーからアルバイトまでもが糊のきいた白シャツに蝶ネクタイと黒ベスト、パンツにソムリエエプロンを着込んで傅き、あなた様だけをお待ちいたしておりましたとばかりに微笑んでくる。そんな雰囲気に気後れしつつ、恐る恐る重厚な樫の扉を開いてやってくるお客様方の心を解きほぐし、常に最高の酒とサービス、空間と時間を提供するというのが女バーテンダー、巫 尊の仕事であり、最大の楽しみでもあった。
学生の頃などは、別に神職の家系でもあるまいしと自分のご大層な名面に些かうんざりしていたが、こうして毎日のように初対面の人間とコミュニケーションする仕事に就いてみればむしろ格好のネタとなる。18歳からアルバイトとして見よう見まねでシェーカーを振り始め、これを天職と定めて腕を磨きつつ、気づけばもう26。昨年ついにインターナショナル・バーテンダーの認定を受け、次はソムリエ資格かしらと思案する、マスターソムリエのオーナーにさえ太鼓判を押される仕事人間であった。
…あったのだが。
「なんかもうぜーんぶ投げだしたい気分…」
ポツリ、呟いた一言は誰の耳にも入ることなく、白い吐息と共に闇に溶けた。
久々の非番、趣味と実益とを兼ねた恒例のバー巡りに、例によっておひとりさまで繰り出した。ふらりと店に入って一杯、二杯。ほほうこれはと思えば思わず眉をしかめたくなる外れに当たったりもして。三件回ったところで、友人夫婦の経営する行きつけのバーへ落ち着いてからお開きとした。
今の自分の境遇に大きな不満があるわけでもないけれど、幸せそうな友人夫婦にあてられて、少し感傷気味になってしまった。そのせいか、いつもなら閉店まで居座るところを早々に辞して途中そこそこ美味しい安ワインを適当に買い込み、こうして寒空の下、ビニールをガサゴソ言わせながらひとり寂しく帰路に就いているわけである。
自宅にほど近い、人影のない住宅街の通りを、カツカツと低めのヒールを打ち鳴らしながら歩き、思案に暮れる。物憂げな表情を、時折設置されている自販機の灯りが照らした。
こんなに人恋しいのも、季節のせいだろうか。コートにマフラーが外出の必需品となってまだ日は浅いが、朝晩は雪が降ってもおかしくない気温まで冷え込む。意識するとまたぞろ寒気が背中を這い上がり、より深くマフラーへ顔を埋めた。
直近の恋人と別れて、いや、振られてもうどれぐらいになるだろう。これまで歳相応に幾人かの男性とお付き合いしてきたけれど、思い返せばどれもほぼ同じパターンで苦い終焉を迎えている。大抵はお店のお客からのアプローチで始まって、最後は皆同じようなことを言って去っていく。
──────なんだか、思っていたのと違うみたいだ。
彼らは皆、そつなくシェーカーを捌き、ゲストを歓待する、隙のない完璧な尊に惹かれたのだという。だから尊が『恋人』に少しでも甘えようとすると、スッと気持ちが引いてしまうのだろう。自分の甘え下手にも原因はあると自覚しているけれども、やっぱり寂しい気持ちは抑えられなかった。
お酒は好きだし仕事も大好き、気の合う友人もいて、このまま一人で生きることに致命的な問題は無い。それは理解している。けれど、時折自分自身に問いかけてしまうのも事実だった。ねぇ、尊。あなたの人生、それで納得できるの、と。
そこまで思って、ふ、と目の端に捉えた懐かしいもの。
少し気分を変えたいと、この寒い中自分でも酔狂なと笑いながら座った公園のブランコ。
こんなところで自分の運命が流転するなどと、この時の私は夢にも思っていなかった。