169 カイロスの底で
ここはカイロス。
昔、ゲントウという科学者が作った、ベータディメンジョンを安定化させる装置。
人類が生きていけるように。
池という穏やかな顔を見せているが、その底には。
チョットマは手に冷たい水を感じた。
池は深い。
どこまでも清々しい水が湛えられているように見える。
この下に、アンジェリナやセオジュン、そしてニニがいる……。
なのに、自分はここで空しく呼びかけることしかできない……。
ニニをこんな村に置いておけない、連れて帰ろうという思いは、もしかすると、おせっかいで自分勝手なことなのだろうか。
ニニにとっては迷惑なことなのだろうか。
だから返事をしてくれないのだろうか。
あるいは声が届いていないのだろうか。
無性に悲しみが込み上げてきた。
「ニニ。友達だよね」
そんな呟きが漏れた。
と。
チョットマは水につけた手首を掴まれたような気がした。
そして次の瞬間、引っ張られたように前のめりになった。
だが、足を踏ん張ったりはしなかった。
引かれるままに、頭から水に落ちた。
行くべきなのだ……。
顔面を叩いた時には冷たいと感じた水も、次の瞬間には何も感じなくなった。
もちろんチョットマは泳いだことなどない。
溺れるという感触も持ったことはない。
水の中でもがいたりはしなかった。
恐怖はなかった。
沈んでいく……。
頭から池の奥深く、底に向かってゆっくり落ちていく。
そんな意識があった。
ここは?
水の中?
口を開けても、口の中に水が入ってくる感触はない。
体にも水の圧力は感じない。
目を開けると、白い世界。
手を見たが、水の中のようにぼやけて見えるわけでもない。
そろそろ息が苦しくなってきた。
そっと、少しだけ、息をしてみようか。
息ができる!
首をかしげて、上空を見た。
それほど深みに至ったわけではないようだ。
水面がまだすぐ上に見える。
どこまで落ちていくのだろう。
体を動かしてみた。
水の抵抗はない。
軽々と動かすことができる。
ただ、頭を下にしてゆっくり落ちていくだけ。
今度は落ちゆく下を見た。
下に行くほど急速に暗く、何も見えなかった。
私、どうなるのかな。
と、思ったとたん、体が回転し、脚が床についた。
薄暗かったが、目が慣れてくると、色々なものが見えてきた。
得体のしれないマシン。
ゴージャスな料理。
巨大な構築物。
最新鋭の乗り物。
見たこともない道具などなど、脈絡がない。
しかしそれらは、見えたと思った瞬間に消えてゆく。
さらに目が慣れてくると、消えゆく品々の中に、消えないものがあった。
祭壇だろうか。
不思議な模様の彫り物が施してある、黒い台座。
チョットマはそこに近づいていった。
その上に載せられたものを見て、震えが止まらなくなった。
載せられていたのは、人だった。
さらに近づくと、それは紛れもなく、アンジェリナとセオジュン。
ふたり手を繋いで横たわっている。
仰向けに寝かされた二人の顔は、かすかに微笑みを湛えていた。
チョットマは、ひどい、と呟いていた。
ふたりの体に、細い白い糸が無数に絡まっていたのだった。
どんな衣服を身に着けているかもわからないほど、びっしりと。
これでは身動きが取れない。
いわば、台座に縛り付けられているようなもの。
二人の顔を見つめた。
呼吸をしているし、血色もよい。
生きていることは確か。
ただ、目を開けることはない。
そんな気がして、声を掛けることを諦めた。
声を掛けて、もし二人が目を覚ましても、それはきっと彼らが望むことではない。
糸を解くこともしない。
それもきっと、彼らの意に反することになる。




