月の章 終章
あれから、FASTA内部で起こったこの事件は、上層部に報告されることもなく静かに処理された。気を失ったイーシスはFASTA専用エリアのすぐ外で倒れていたところをアレックスに発見されたことにする、とごく内密にすすめられ、アレックスもそれを了承した。冷静に話し合った結論が出た後、マリフは手際よく嘘で塗り固めた報告書を作成していく。この問題は上層部に出すべきではない、と彼女は判断していた。聖の話を聞く限り、もしルナが殺意をもってここへ来ていたなら、FASTAは全滅していたに違いないからだ。それにルナは思わぬ被害を置いていった。
普段厳重な鍵がかかっているロビーからつながっているバルコニーで聖とシンは外を眺めていた。表情は硬い。彼らは操られ、判断能力が一時的に欠けていたといえども、ユキにしてしまったことをおぼろげに覚えていた。ある意味男に潔癖といえるユキに対して、一番やってはいけないことをしてしまった、という罪悪感が拭えない。
あの時、イーシスがFASTA専用エリアの外へ来てただ視線を合わせただけで思ってもいない行動に出てしまったのは、その月の魔力といったもので精神が乗っ取られてしまったからだろう。さらに彼女が置いていったあの煙を吐く缶からは一種の麻薬のような物質が検出されたという。
だが、本当にそれだけか?ユキは笑って「済んだことは仕方ない」と言うが、本当にそうなのか。あの時、ユキをロビーで止めろ、という抗えない命令があったのは間違いないのだが。彼らの頭の中でその問いが堂々巡りをしていた。
「済んだことは仕方ねぇ……ってことねぇよなぁ。」
煙草を燻らせながら、シンは呟く。
「そうやなぁ……。」
聖も苦虫を潰した表情だ。長い付き合いの3人の微妙なパワーバランスがずれてしまったような気がする。聖もシンも、ユキに手を出してはいけない、という潜在意識がどこかで働いていたのがあの時、外れてしまったのだ。それは操られていたから、という理由だけなのか。
長い沈黙の後、聖は唐突に切り出した。
「率直に聞くけど、ユキのことどう思ってるん?」
「どうって言われても。俺は手を出すのはまずい、とずっと思ってるぜ。」
実際には次から次へと女を取り替えるシンが答える。シンはかなりの恋多き男で、一夜限りの遊びも交際してきた女性も群を抜いて多い。少しでもいいと思えばハンターの如く、だ。そんな彼が手を出すことを自ら戒めてきた存在がユキなのだ。現在特定の恋人はいないと思っているが、そう思っているのは彼だけだろう。だが、あの時、彼は自分を抑えることができなかった。
「お前はどうよ?」
「んー、俺は一応他にいいな、と思ってる人はおるけど……でも気にならんというと嘘やな。正直、ユキが笑ってると嬉しいで。」
聖にはひそかに想う相手がいるが、リーダーとしての責任感やそういった部分には奥手な性格から直接本人に伝えたことはない。その当の本人ではないものの、いつも彼女の幸せをどこかで願っている。
「お前は美人でしっかり者タイプが好きだからな。」
口には出さないが、シンには聖の考えていることがわかる。真面目で、可憐で自分が守ってやらないといけないような、しかしあらゆるプレッシャーに打ち勝たないといけない任務についている芯の強い女性、という言葉がぴったりなあの女性を静かに想っていることくらいわかっていた。その女性に今回の事件の処理のため、といえどもユキに何をしたかを正直に話してしまい、苦悩しているということも。
「お前は馬鹿正直すぎんだよ。」
聖はいわば、ユキに手を出したといえども、直接的に出したわけではない。助けなかった、という部分での非が大きい。
「俺なんて一生嫌われてもおかしくねぇぜ。」
大きな溜め息の後にシンは空を仰いだ。
ラピスもまた、ルナが起こした事件の後、苦しい感情を整理できずにいた。自分はあの時から全てを捨てて、たった1つの思いだけを胸に生きてきた。ユーナの形見の剣で仇を討ち、その後はカルアベースに戻って彼女の墓標に寄り添い生きていく、ということを。しかし最期の願いを請うルナに対してあのような行為に出てしまったことにより、ユーナに対する罪悪感が拭えないのだ。感情などなくとも、ユーナ以外を抱きしめてしまったことへの強い後悔が彼を襲う。
豊かな黒髪のあの少女はもうこの世にはいないのに、彼はいつまでも自身で作り上げた彼女の亡霊にとらわれ続けているのだ。
そしてユキも、あれ以来心に整理のつかないものを抱えていた。彼らに悪気はなく、操られたことであり、済んだことは仕方がない、というのは充分わかっていた。自分も若干判断力が鈍っていたに違いない。
ただ、あの時の状況を思い起こすと赤面してしまう。これまで想像すらしたことのなかったシンとのキスが未だに激しく彼女を動揺させていた。聖やシンは男という意識よりも仲間としての意識が強かったため、まさか自分にキスをしてくるとは考えてもいなかった。組み伏せられた時万が一でもそういうことがあれば即座に反撃しようとその時は冷静に考えていたが、実際は震えてしまってそんなことはできなかった。男らしい力強い腕でしっかり抱き締められ、少し煙草の香りがする優しいキスは普通の女性であれば簡単に堕ちるだろう。彼が一般居住区でもてて仕方ない、というのもようやく理解できた気がした。あのキスを多くの恋におちた女性にしているのなら、たとえそれが一瞬だけでも彼女たちは幸せの絶頂にいるのではないか、と経験のほとんどないユキでさえ考えてしまうくらいの甘い甘いキスだった。
「はぁ……。」
別に急にシンを意識し始めた、というわけではなく、あの余韻がどうしても抜けないのだ。
「ユキちゃん、大丈夫?」
この世界で唯一、ユキを「ちゃん」付けで呼ぶマリフがため息ばかりついているユキを心配そうに見ている。
「うん、別にどこかが痛いとかそういうわけじゃないんだけどね。」
「聖さんやシンさんから、話を聞いたわ。ユキちゃん、本当に大丈夫?私だったらショックを受けて寝込んじゃうかも。」
「そうだよねー、あたしも寝込んだほうがいいのかなー。なんか、背筋がぞわぞわしたままなんだよね。ほんと、考えてもなかったから。」
マリフが淹れてくれた温かい飲み物をすすりながらユキは笑う。
「マリフって好きな人、いるんだっけ?」
「えっ?ユキちゃん、何それ?」
突然の思いがけない質問にマリフは驚いた。
「いや、あたし、そういうの今までほとんど考えたことないから、どうなのかな、って。ほら、結局イーシスがルナにつけこまれたのは多分そういう感情からみたいだし。なんかそういうの怖いな、ってちょっと思ってさ。」
怖い、というのは本当だ。自分を見失い、理性を無くす、全てを破壊する恐ろしい感情に間違いない。幸いにもその感情を持ち合わせていないし、パイロノイドと言われ忌み嫌われる存在である自分にはその資格もない。
だが、心の根底で憧れが生まれてしまったのはもう否定できなかった。一般居住区の女性たちの幸せそうな姿を心のどこかで冷めた目でみていたのも、もうできなさそうだ。あのキスだけでユキの心に小さな炎が宿ってしまった。その責任はシンの軽率な行動と比べて重過ぎるものであった。