月の章5 思いがけない終幕
サブタイトルを誤って掲載してしまいましたので修正いたします(内容は変更ございません)。
柔らかな濡れた唇が首筋に触れ、思わず息を漏らしたところで、イーシスは嬉しそうに微笑んだ。彼女を払いのけることなど簡単なはずなのに、身体は弛緩したまま動かない。
「・・・・・・先輩・・・・・・。」
イーシスの顔が近づいてくる。ラピスはその顔を直視することができず、目を瞑った。
「・・・・・・えっ?」
あと数秒でキスする、というところで、思いがけない方向から声がし、イーシスが起き上がる。
ドアの先に立つのは、彼女が最も避けなければいけない敵。
「・・・・・・あんた、誰?」
ユキは火焔剣の柄を構えてイーシスを見据えて言った。イーシスの美しい顔が憎しみで歪んだ。
「邪魔しないで!」
獣が唸るような低い声だ。先刻までの甘い吐息からは想像もつかない。
「・・・・・・別にあたしはそいつがどうなろうと構わないんだけどね。」
ユキは火焔剣の柄でラピスを指差しながら皮肉めいた口調で言う。その目は相当の怒りを湛えている。
「結構、あたし、ひどい目にあったんだから。あんたのせいで。」
よく見るとユキの着衣は所々乱れている。ボタンが取れていたり、髪がくしゃくしゃになっていたり、挙句の果てには首筋に赤い痣がみえる。しかし結局ここまで来れた、ということは1人であの2人をのしてしまった、ということだ。イーシスは小さく舌打ちした。
「邪魔しないでよ!出ていって!」
イーシスの身体がわなわなと震えている。怒鳴り散らしたその声も、それが怒りのためなのか、恐れのためなのか、美しいその女から発せられたものとは思えない。
「何が悪いのよ!ずっとずっと、先輩のこと、好きだったのよ!あなたに何がわかるの!」
強い口調で責めたてるイーシスの声に、得体の知れない声が重なる。
「せめて、報われたいだけなのに!」
もっと幼い声だ。大人の声ではなく、別の少女の声が部屋を木霊する。と、同時にイーシスの身体がひとりでに激しく揺れ始める。大きく目を見開き、息を吐き出しながら何かが姿を現そうと揺り動かす。自分の意思ではなく、何かに突き動かされている。ユキはその姿に目を見張った。
「・・・・・・あなたを抑えられなかったのが、ミスだったわ。」
静かに起き上がったイーシスは姿形こそ彼女だが、中身は違う者にみえる。ベッドの淵に降り立ったのを見て、ユキは柄を持つ手に力を込めた。
動くことすらできなかった身体に少しずつ力が入るようになったのはイーシスが自分の上から降り立った後だった。麻酔か、痺れ薬を飲んだ後のように、俊敏な動きはできそうにない。かすんだ視野から見えるのははだけた衣服から肌が露わになっているのにも構わず立ちはだかるイーシスと、それを見据えるユキの姿だ。
「そんなに怖い目で見ないで。私、怖いわ。」
声色が、口調が、イーシスとは違う。
「大丈夫よ、私にはもう実体がないんだから。」
怪訝な表情を浮かべるユキにイーシスは笑いかける。何か、半分諦めているような哀しい笑顔だ。
「あーあ。イーシスに乗り移って、人間になって、色々やりたかったのにな。もう、力も使い果たしちゃった。」
「・・・・・・あんた、誰なの?」
「あなたたちが何て呼んでいるのかは知らないわ。私だって、なりたくてなったわけじゃないし。ちょっと、変わった力を持っているだけだもの。」
(オメガ・・・・・・?)
まだはっきりしない意識の中でその言葉が浮かんで、ラピスの意識は急速に元に戻ろうとする。動悸が激しい。イーシスはくるり、とラピスに振り返る。
「普通に恋して、普通の女の子になりたかっただけよ・・・・・・。だから全てをかけて、月の力を借りて色々やってみたの。さっきはイーシスの感情をコントロールできなかったけど。」
イーシスのその言葉にユキは全てを理解した。聖やシンのあの尋常でない様子は、彼女が操っていたのだ。煙を吐くあの缶は、彼女が仕掛けた罠の一つだ。人の判断力を衰えさせる何かが作用していたに違いない。ラピスがひ弱そうな彼女に屈していたのも最初はそういう関係なのかと疑ったが、そうではなく、強烈な精神攻撃があったのではないか。
「月の力?」
昔から、月には未知なる力があるといわれている。潮の満ち干きや時には天変地異にも関係があるらしい。人を狂わせることもあると聞いたこともある。
「よく見て。今日はスーパームーンなの。」
窓の外に光り輝く月。通常の満月よりも大きく、明るく、妖しい月だ。その存在だけで人々を魅了し、狂わせる。
「あと、少しだったのに。」
悔しそうにイーシスが呟く。ラピスは完全に自由にはならない身体で起き上がっていた。
「あんたの目的はそれだけ?」
火焔剣を構えたままユキが問いかける。
「そうよ・・・・・・他のみんなにはうんざり。あんまり反抗したから、もう身体はなくなったの。」
ユキは彼女が月のオメガ、通称ルナであることを確信した。しかしそれは過去一度もベースへ攻撃したことがなく、姿を見たこともない。ただ存在だけが噂されていた。
「別に、人間を滅ぼさなくたっていいじゃない。好きな人と普通の生活をして、普通に生きて。黙っていたら人間じゃないなんてばれやしないのに。」
声が震えている。
「そんなこと言っていたら、私、姿を奪われたの。恥知らずってののしられて。」
ラピスはイーシスの先にある、姿見に映っているそのか細い姿がイーシスのものとは全く違う、美しい少女の姿であるのを認めた。銀髪に見える、幻想的とすらいえそうなその少女は泣いている。大きな瞳から涙を溢れさせて。オメガでありながら、異なる思想のため、彼女はきっと封じられたのだ。少なくとも生きている存在ではないのだろう。
「10年、我慢したの。これで誰かと契約できないなら、もう全ての力がなくなる。」
イーシスには意識がない。その唇からこぼれる言葉は、勝手にルナと名づけられた少女の言葉。
「・・・・・・あなた、お名前、ジュリスト?だった?最後のお願い、聞いてほしい。」
唐突にイーシスが振り返る。もう、ラピスに襲い掛かったときのような妖艶さも逆らうことを拒めないほどの不思議な力も感じない。
「私の好きだった人に似てるの。最後に、抱きしめてほしい。そうしたら私、消えるから。」
ユキは剣を構えた。何か企んでいるなら、相討ちか。ユキに勝ち目がないと悟ったルナが狙うなら、おそらく今は機敏に身体を動かすことのできないラピスの方だ。イーシスの後ろでユキがイーシスの身体に火焔剣を向けたのをラピスは見た。あの剣でイーシスごと斬ったなら、きっとイーシスも死ぬ。
「馬鹿じゃない?騙されるとでも思ってんの?」
冷酷な言葉をユキは吐く。感情の訴えは通じない。ユキにはルナが訴えているその感情に心を痛めたことがないからだ。
しかしラピスは違う。かつて恋人を亡くした後の切ない感情が心の奥底で波を打つ。死ぬのがわかっているのなら、もっと他のことができたのに。自分が代わりになることもできたのに。ユーナに思い残したことはたくさんあっただろうに。
「本当よ・・・・・・もう、そろそろ、限界・・・・・・お願い。」
力なく、イーシスが膝をつく。鏡の中の少女の姿はかすれ始めている。こんな情に動かされる自分であってはならない、とラピスは自分を戒めてきた。オメガが1人死ぬなら、それはそれで構わない。だが、最後の願いを訴えるその少女の姿にどうしても生前のユーナの姿が重なってしまう。これが本当に最後なら。
せめてもの、慈悲。ラピスはそっと腕を伸ばした。
倒れるようなイーシスをラピスが抱きとめた瞬間、ユキの目にはイーシスとは別の少女が幸せな微笑みを浮かべているのが映った。声を出すことも憚れるような、美しい光景だった。殺意も邪悪な空気も感じない、ただどこか哀しい光景だ。
「・・・・・・ありがとう。」
少女はラピスを見上げて小さなかすれた声で言った。ラピスの目にも、それはイーシスではなく、鏡の中から現世に姿を現した少女として映っていた。
その姿は徐々に形を無くしていく。身体の末端から、まるで何もなかったかのように元のイーシスの姿へと変貌していく。ふと、彼女はユキを見た。
「ごめんね・・・・・・あり・・・・・・がと・・・・・・。」
自分の目的のために、恐ろしい目に合わせてしまったことを詫びているのか。そして願いを叶える前にとどめをささなかったことを感謝しているのか。
オメガがそのような言葉を言うわけがない。風のオメガのように凶悪で人間の死を願い、最後まで恨みを吐き、死を迎えるべきだ。その黒い感情が自分に降りかかろうと、自分たちは戦い続けなければならない。たとえ、本当の死を迎えつつある目の前のオメガの少女がオメガを憎んでいたとしても。
ラピスがふと気がつくと腕には気を失ったイーシスがおり、そしてユキは火焔剣の柄を構えたまま立ち尽くしていた。月の光は鏡を照らしていたが、もうそこにはあの少女の姿はなく、ただその場にいる者の姿を映し出している。腕に感じていた少女の感触はしっかりとした大人の女の重みへとかわっている。
「医療班、頼めるか?」
ラピスはイーシスをそのままにしておくことはできないという思いから、冷静に言う。
「思ったより、甘いんだね。」
ユキはラピスの問いに答えることなく、その部屋を出て行く。釈然としない、整理のつかないその感情を心の奥底へと閉じ込めながら。