破滅した悪役令嬢と異世界転生者の執事がマイナスからスタートする話
「必ず見つけ出してやりますわ。お父様も、お母様も」
拘束を解かれたばかりのメリアお嬢様は、役所の門の前でそう宣言した。秋の風が、彼女の金髪を乱している。屋敷を出た日から同じ服を着ているせいで、裾には皺が寄り、白い手袋も灰色に汚れていた。
それでも背筋は伸びている。両親が国の金を横領し、数々の犯罪を暴かれ、娘を置いて国外へ逃げ出した直後だというのに、公爵令嬢らしい威厳は健在だった。感心するべきかもしれない。ただ、俺には気になることがあった。
「お嬢様」
「何ですの」
「本日の宿泊費がございません」
「……それが何ですの?」
「今夜、眠る場所がないということでございます」
お嬢様は、きれいに整った顔をしかめた。
「でしたら、宿を取りなさい。あなたが持っているお金で」
「私の所持金は銅貨が四枚です。お二人分の寝床と食事には足りません」
「たった四枚? あなた、今まで何にお給金を使っていましたの」
「屋敷を出る際、持ち出せたのが四枚だけでございます。預けていた給金も、家の財産と一緒に調べられておりますので」
俺たちを含め、屋敷にいた者は全員、両親の犯罪に関わった疑いで拘束された。調べの結果、少なくとも俺とお嬢様を罪に問える証拠はなく、こうして解放された。
とはいえ、解放は財産が返ってくるという意味ではない。屋敷も、土地も、金も、まだ調査の最中だ。俺の給金の扱いが決まるのを待っていたら、冬が来る。
お嬢様は俺の手のひらの銅貨を見下ろし、鼻で笑った。
「情けない執事ですこと」
「申し訳ございません」
お嬢様が出国資金を持っていないことも、同じくらい情けないと思う。だが、今それを申し上げても銅貨は増えない。
「ほかの者はどうしましたの。執事長や、わたくし付きの侍女たちは?」
「先に解放された者は、それぞれ帰ったようです。実家を頼る者も、蓄えで別の仕事を探す者もおります」
「薄情者ばかりですわね」
「生活がございますので」
「あなたは擁護するの?」
「私が彼らでも、そうしたでしょう」
「あなたは残っていますわ」
「はい」
「なぜ?」
お嬢様は不審そうに俺を見た。
「あなたには、わたくしに付き従う理由などないでしょう。お給金も払えませんのよ」
「存じております」
「でしたら、一人で行きなさい」
声は高慢だった。だが、手袋の指先はきつく握り込まれている。俺は四枚の銅貨を握り、ポケットへ戻した。
「お嬢様をお一人にするわけにはまいりません」
「わたくしを誰だと思っていますの」
「今夜の寝床も食事もない方でございます」
「あなた、本当に可愛げがありませんわね」
お嬢様は顔を背けた。それでも、俺が歩き出すと、少し遅れてついてきた。まずは野宿を避けなければならなかった。
***
だが結局、その夜は野宿になった。
まず役所の門を出た俺たちが最初に向かったのは、お嬢様が贔屓にしていた仕立屋だった。代金の支払いを待ってもらえないか、あるいは知人を紹介してもらえないかと考えたのだ。店主はメリアお嬢様の顔を見るなり、扉を半分閉めた。
「申し訳ありませんが、お引き取りください」
「何を言っていますの。わたくしですわよ」
「存じております」
「でしたら、なぜそのような態度を取りますの?」
店主の視線が、俺とお嬢様の間を行き来した。
「あなたのお父上には、まだお支払いいただいていない代金がございます。お屋敷に問い合わせても、もう誰も答えてはくださらない」
お嬢様は口を開きかけ、閉じた。
「それは、お父様が――」
「はい。お嬢様が注文なさった服の代金を、お父上がお支払いにならなかったのです」
店主は言葉を選ぶように、一度息を吸った。
「うちにも職人がおります。あの方にこれ以上関わって、注文を失うわけにはまいりません」
「わたくしが父の悪事に関わっていないことは、役所も認めていますわ」
「それでもです」
扉が閉まった。お嬢様はしばらく動かなかった。やがて振り返り、俺を睨んだ。
「今のを聞きまして? わたくしを泥棒扱いしましたわ」
「店主にも事情がございます」
「わたくしには関係ありません」
「未払いの服は、お嬢様がお召しになったものです」
「支払うのはお父様でしょう」
「そのお父上が逃げたため、店は困っております」
「だからといって、わたくしを追い返していい理由にはなりませんわ!」
通りを歩く人が、こちらを見た。お嬢様の顔を知っている者がいたのだろう。ひそひそと話す声が聞こえた。俺はお嬢様を通りから離し、裏道へ連れていった。
その後も、何軒か訪ねた。屋敷に品物を納めていた商人、両親と付き合いのあった家、学園でお嬢様と親しくしていた令嬢の屋敷。門前払いを受けるか、留守だと告げられるかのどちらかだった。最後の屋敷を出た頃には、空が暗くなっていた。
「もういいですわ」
お嬢様が立ち止まった。
「誰も彼も、わたくしが困っていると知って、喜んでいますのよ」
「喜んでいる者もいるかもしれません」
「否定しないの?」
「事実を知りませんので」
「役に立たない人」
俺は否定しなかった。今日のところは、実際に寝床を見つけられていない。
市場の外れに、荷車を置くための古い小屋があった。管理人に事情を話し、銅貨を一枚払うと、朝まで屋根の下にいることを許してくれた。残りの銅貨で、硬いパンと水を買った。
「このようなところで眠れというの?」
藁の積まれた床を見て、お嬢様が言った。
「雨はしのげます」
「虫がいますわ」
「追い払います」
「匂いもひどい」
「そこは我慢していただくほかございません」
お嬢様は俺からパンを受け取り、一口かじった。途端に顔をしかめる。
「硬い」
「水に浸すと召し上がりやすくなります」
「あなた、何でも知っていますのね」
「存じ上げていないこともございます」
「たとえば?」
「お嬢様に、このパンを美味しく召し上がっていただく方法です」
お嬢様はパンを睨み、しばらくしてから小さくかじった。その夜、彼女は一度も両親への悪口を漏らさなかった。
***
翌朝、俺は市場の帳簿をつける仕事を探した。商人に声をかけて回ると、荷受けをしている男が足を止めてくれた。雇っていた書記が病気で休んでいて、伝票の整理が追いつかないらしい。
「字は書けるのか」
「はい。計算もできます」
「口で言うだけなら誰でもできる」
渡された伝票を、その場で日付と取引先ごとに分けた。数量と代金の合わないものを脇へ置き、荷受け帳との食い違いを示す。男の眉が上がった。
「それ、うちの者が昨日から探してたやつだ」
「こちらの二件も、同じ品が重複して記されています。現物をご確認ください」
仕事を任されることになった。半日分の手間賃をもらい、安い宿の一室と食事を確保する。その夜、お嬢様は木椅子に座ったまま、薄いスープを口にした。
「あなた、一人でしたら困らないのではなくて?」
「少なくとも、昨日ほどには」
「嫌味な言い方」
「失礼いたしました」
「そう思うなら、一人で行けばよいでしょう」
「お嬢様を置いてですか」
「わたくしが足手まといだと、言いたいのでしょう?」
言った覚えはない。思わなかったとは言わないが。
「お嬢様は、これからどうなさるおつもりですか」
「……お父様たちを探し出しますわ」
「どのように?」
「それを考えるのが、あなたの仕事でしょう」
「今の私の仕事は、明日の食事を確保することです」
「わたくしに意見するつもり?」
「はい」
お嬢様の匙が止まった。
「何ですって?」
「国外へ逃げたお二人を探すには、お金も人手も必要です。今のお嬢様には、どちらもございません。まずは暮らしを立て直しましょう」
「あなたは黙って、わたくしに従えばよろしいの」
「従った結果、お嬢様を飢えさせるわけにはまいりません」
「生意気ですわね。たかが一つ年上なだけのくせに」
年齢については返す言葉がなかった。少なくとも、この世界では。
俺には前世の記憶がある。別の世界で、別の人生を送っていたこと。働き、金を稼ぎ、帳簿や書類に追われ、面倒な人間とも付き合ってきたこと。
その知識が、この世界で受けた教育と合わさり、役に立つ場面は多い。だが、商人がどんな品を扱い、誰を信用するかは、この国で学ばなければ分からなかった。知らないことは調べ、人に聞き、間違えれば直す。それだけだ。
お嬢様は俺の沈黙を勝利と受け取ったらしい。
「分かったら、明日はもっとましな食事を用意なさい」
「努力いたします」
明日の食事に文句を言う元気があるなら、まだ大丈夫だろう。そう思うことにした。
***
数日は、どうにか過ぎた。
俺は市場の仕事を続け、空いた時間には手紙の代筆や勘定の確認を引き受けた。依頼ごとに少しずつ金をもらい、宿代と食費を払い、残りを布袋に入れる。お嬢様には目立たない服を買った。髪も布で隠してもらったが、本人は大いに不満らしかった。
「どうしてわたくしが、この美しい顔を隠さなければなりませんの」
「お嬢様の顔を知っている方が多いからです」
「悪いのはお父様たちですわ」
「はい。ですが、今はお嬢様に近づきたくないと考える人もおります」
「臆病者ですこと」
「そうかもしれません」
「あなた、さっきからそればかりですわね」
ほかに答えようがなかった。
俺は旅費を計算した。国境を越えるには、馬車代も道中の宿代も、到着してからの生活費も要る。今の稼ぎで貯めるには、かなりの日数が必要だった。
「まずは、この国の南へ向かいましょう」
宿の小さな机に紙を広げ、お嬢様に話した。
「国境の向こうは、今すぐには難しいですが、南の港町なら仕事も多く、この町ほどお嬢様を知る人もおりません」
「逃げるのですか」
「生活を立て直すためです」
「わたくしが、悪いことをしたわけでもないのに」
その言葉に、俺はペンを置いた。
お嬢様は両親の犯罪に加担していない。だが、何もしていないわけではない。学園で婚約者と親しく話した少女に、取り巻きを使って嫌がらせをしたこと。少女の持ち物を隠し、根も葉もない噂を流したこと。屋敷で聞こえてきた話の一部だけでも、十分だった。
「お嬢様」
「何ですの」
「学園で、あの伯爵家のご令嬢に何をなさいましたか」
お嬢様の顔から、ふっと表情が消えた。
「なぜ、その話をしますの」
「お嬢様が、ご自分は悪いことをしていないとおっしゃったからです」
「あの方が、わたくしの婚約者に馴れ馴れしくしたのですわ」
「それで持ち物を隠してもよいと?」
「少し困らせただけです」
「噂を流したことも?」
「あの方が傷ついたとでも言いたいの?」
「はい」
お嬢様は椅子を蹴るように立ち上がった。
「あなたに何が分かりますの。わたくしの婚約者ですのよ。あの方が隣に立つべきではありませんわ!」
「誰の隣に立つかを、ご本人が選ぶことも許されませんか」
「あなたは、わたくしの執事でしょう!」
「お嬢様が悪くないと申し上げるのが、執事の仕事でしたら、私にはできません」
「今まで何も言わなかったくせに!」
その通りだった。
俺は学園での出来事を多少は知っていた。それでも口を挟まなかった。主人の娘を教育する権限などなく、意見して主人の機嫌を損ねれば、身寄りのない俺には逃げ場がない。
――お嬢様の両親が、天涯孤独の俺を育てたのは、慈善ではなかった。
捨て子である俺には、連絡を取る家族がいない。どこかの家の息がかかった者でもなく、いざというときには罪をかぶせて切り捨てられる。屋敷で守るべきは主人の名誉であり、お前の人生ではないと、遠回しに聞かされて育った。
そのために惜しみなく教育を施された。帳簿を読み、複数の言葉を学び、礼儀を身につけた。役に立つほど待遇は良くなったが、それは俺を惜しんでいるからではなく、使い道が増えるからだと分かっていた。波風を立てずに働いたのは、俺自身を守るためだ。
「申し訳ございません」
「謝れば済むと思っていますの?」
「いいえ。ですが、今も黙っているわけにはまいりません」
お嬢様は俺を睨み、部屋を出ていった。
扉が閉まる音は、しばらく耳に残った。お嬢様は夕食の時間になっても戻らなかった。探しに出ようとしたところで、宿の入口に立っているのを見つけた。布で顔を隠し、壁にもたれている。
「心配いたしました」
「勝手に心配なさい」
「夕食が冷めます」
「お腹は空いていませんわ」
その瞬間、腹の虫が鳴った。お嬢様は俺を睨んだ。
「聞こえませんでした」
「何も言っていませんわ!」
部屋に戻ると、彼女は黙ってスープを飲んだ。俺も何も言わなかった。
***
翌朝、市場へ行くと、荷受けの男が困った顔で近づいてきた。
「悪いが、今日から来なくていい」
「何か不手際がございましたか」
「仕事は申し分ない。だが、お前が連れている娘のことを聞いた」
男は周囲を見回し、声を落とした。
「お前の元の主人に金を取られたやつもいる。あの娘を雇っているように見えたら、こっちが困る」
「私はその家の犯罪に関わっておりません」
「分かってる。だから、町を出るなら紹介状くらい書いてやる。だが、ここで仕事を続けさせるのは無理だ」
俺は礼を言い、残りの手間賃と紹介状を受け取った。宿に戻ると、お嬢様が窓辺に立っていた。
「お仕事は?」
「終わりました」
「まだ昼にもなっていませんわ」
隠す必要もない。俺が事情を説明すると、お嬢様は唇を引き結んだ。
「わたくしのせいですのね」
「お嬢様のご両親の悪事が原因です」
「同じことですわ」
「同じではございません」
彼女はそれ以上、何も言わなかった。
その日から、俺は市場の外れや町はずれで仕事を探した。薪を運び、倉庫の品数を数え、代筆の看板を出した。読み書きが必要な仕事は単価がよかったが、毎日あるわけではない。荷運びは腕が痛くなるわりに稼ぎが少ない。それでも宿代を払わなければならない。帰ると、お嬢様は以前より静かになっていた。
「本日の夕食です」
「……あなたは?」
「先にいただきました」
「嘘ですわね」
「なぜそう思われますか」
「あなた、嘘をつくときは、わたくしから目をそらすもの」
初耳だった。今後は気をつけよう。お嬢様はパンを半分に割り、俺に押しつけた。
「わたくしは、それほどお腹が空いていませんの」
「お嬢様こそ、嘘をつくときは私の目を見ません」
「黙って食べなさい」
俺は黙って食べた。
***
子供の頃、お嬢様はよく俺に菓子を分けてくれた。
屋敷に引き取られた捨て子の俺は、ほかの子供たちと違い、帰る家はどこにもなかった。大人たちは親切だったが、俺が何を覚え、何を間違えたかを細かく記録していた。
お嬢様だけは、そんなことを気にしなかった。
「セオには、お母様はいませんの?」
屋敷で勉強をしていた俺に、彼女は尋ねた。
「はい」
「お父様は?」
「おりません」
お嬢様はしばらく考えて、持っていた菓子の皿を俺の前に置いた。
「では、今日はわたくしと食べなさい」
「なぜですか」
「一人では、寂しいでしょう」
本人が食べたかっただけかもしれない。だが、俺が一つ取るまで、お嬢様は自分の分に手をつけなかった。
別の日には、使用人の子供たちが家族と出かけたと聞き、俺を庭に呼び出してボードゲームなどで一緒に遊んだ。負けると怒り、勝つと自慢するので、相手をするのは面倒だった。
それでも、あの子供が俺を利用するために声をかけていたとは思わない。主人の愛情には、いつも計算が見えた。教育を受け、できることが増えるたびに、いつか自分が何かの身代わりにされる日が来るのだろうと感じた。メリアお嬢様の優しさには、そういうものがなかった。
だから俺は、彼女を置いていけない。
学園で何をしたのかを知っても、その事実は変わらない。逆に、俺に優しかったからといって、彼女がほかの誰かを傷つけた事実も消えない。両方を抱えたまま、俺は明日の仕事を探すつもりだった。
***
「わたくしも働きますわ」
数日後、お嬢様が言った。
「何をなさいますか」
「読み書きも計算もできます。あなたにできることなら、わたくしにもできるでしょう」
ずいぶんな自信だった。だが、知識と能力があるのは確かだ。
俺は代筆を頼まれた際、書き損じのない清書なら手伝ってもらえるかもしれないと、依頼人に相談した。古い取引先への案内状を何通も出したいという、小さな雑貨屋の主人だった。
「字がきれいなら助かるよ」
机を借り、お嬢様が一枚目を書く。流れるような文字は、俺のものより美しい。
「これはいい」
主人が感心すると、お嬢様は満足そうに顎を上げた。
「当然ですわ。わたくしを誰だと――」
「メリアと申します」
俺が横から言うと、お嬢様はむっとした。二枚目を書く前に、主人が原稿の一部を指した。
「ここの言い回しを、もう少し柔らかくしてくれるかい。相手は年配の人でね」
「このままで十分ですわ」
「でも、こっちのほうが伝わりやすいと思うんだ」
「あなたが書けないから、わたくしが書いて差し上げているのでしょう?」
主人の顔から笑みが消えた。俺は筆を置いた。
「お嬢様。依頼された方のお話をお聞きください」
「間違ったことは言っていませんわ」
「間違っております」
「何ですって?」
「私たちは頼まれた仕事をして、その対価をいただきます。書いて差し上げているのではありません」
主人が気まずそうに手を振った。
「いや、もういいよ。今日はここまでにしておくれ」
受け取ったのは、一枚分にも満たない額だった。帰り道、お嬢様は口を尖らせた。
「あの男の頼み方が悪いのですわ」
「丁寧に頼まれていました」
「あなたはあの男の味方なの?」
「仕事を失った理由を申し上げております」
「わたくしを馬鹿にして楽しい?」
「いいえ」
「嘘おっしゃい。あなたはずっと、わたくしを見下しているのでしょう。天涯孤独の捨て子のくせに、今はわたくしより稼げるから!」
足が止まった。
お嬢様も、自分が何を言ったか分かったのだろう。だが、目をそらすだけで、言葉を引っ込めようとはしなかった。俺は息を吸った。
「お嬢様」
「何ですの」
「私を傷つけたいのでしたら、今のお言葉は正解です」
お嬢様の肩が揺れた。
「ですが、私が捨て子であることと、お嬢様が依頼人を侮辱したことは関係ありません」
「わたくしは――」
「お聞きください」
声が思ったより強くなった。
「相手が何を望んでいるかも聞かず、自分のほうが上だと示して、仕事になると思わないでください。今日のあの方に、私たちを雇う義務はありません」
お嬢様の瞳に涙が浮かんだ。
「あなたまで、わたくしを責めるの」
「はい。お嬢様が間違っているときは」
「優しくしてくださった人だと思っていたのに!」
「私は、お嬢様から嫌われないよう嘘をつくつもりはございません」
お嬢様は俺を突き飛ばし、先に歩いていった。
ずいぶん勝手な人だと思った。こちらの痛いところを正確に踏んでおいて、泣きたいのは自分だけらしい。
それでも、俺は後を追った。彼女の両親が逃げ、誰もいなくなった日に、置いていかないと決めたのは俺自身だ。腹が立った程度で、決めたことを変えるつもりはなかった。
***
宿の近くに、パンを売る老女がいた。
俺たちが遅く帰った日、売れ残りのパンを少し安くしてくれたことがある。ある朝、その老女の荷車の車輪が溝にはまった。
俺が駆け寄るより先に、通りすがりの男が荷台を持ち上げた。近くの店から若い女が出てきて、車輪の下に板を差し込む。荷車が動くと、老女は何度も礼を言った。
「この前、母さんにパンを分けてくれただろ」
男が笑う。
「うちも去年、店が水浸しになったときに助けてもらいましたから」
若い女もそう言って、店へ戻っていった。お嬢様はその様子を黙って見ていた。
「特別なお知り合いですの?」
「この辺りの方々でしょう」
「お金をもらわなくても、助けますのね」
「困ったときはお互い様、と考える人もおります」
お嬢様は、荷車を押していく老女の背中を見送った。
その日の夕方、彼女は突然、以前屋敷に出入りしていた花屋へ行きたいと言い出した。
「店主は、わたくしが贔屓にしていた者ですわ。事情を話せば、何か仕事を紹介してくれるかもしれません」
俺は止めなかった。頼ること自体は悪くない。
花屋の店主は、俺たちを見ると表情を硬くした。
「ああ、お嬢様」
「久しぶりですわね。少し相談が――」
「申し訳ありませんが、お聞きできません」
「どうして?」
「以前、納品した花が一日早く傷んだと、お嬢様がお怒りになったことを覚えておいでですか」
お嬢様は眉を寄せた。
「そんなこともありましたわね」
「私は代わりの花をお持ちしました。けれど、お嬢様はそれを受け取らず、お父上に私の店を出入り禁止にするよう頼まれた」
「当然でしょう。お客様に傷んだ花を届けたのですから」
「ええ。私が悪うございました」
店主はそう言ったが、頭は下げなかった。
「ただ、あのとき屋敷の注文を失って、店を閉めかけました。家族と職人に助けられて、ようやく続けております。もう、あなたのご家族と関わる余裕はありません」
お嬢様は何か言おうとして、やめた。店を出た後も、しばらく黙って歩いた。
「花が傷んでいたのは、本当ですわ」
「はい」
「わたくしが怒ったのも、間違っていません」
「怒る理由はあったのでしょう」
「でも……」
お嬢様の足が遅くなった。
「店を閉めることになるかもしれないなんて、考えませんでしたわ」
俺は返事を待った。
「考えもしなかったの。わたくしが嫌な思いをしたから、それで十分だと」
通りの向こうで、荷車の老女が客と話している。お嬢様はそれを見て、指先を握りしめた。
「わたくしが、もっと誰かに親切にしていたら」
声は小さかった。
「こういうとき、助けてくれる方がいたのかしら」
「いたかもしれません。いなかったかもしれません」
「冷たい答えですわね」
「親切にしたからといって、相手が必ず助けてくださるとは限りませんので」
お嬢様はうつむいた。
「分かっていますわ。助けてもらいたくて親切にするのは、違うのでしょう」
俺は少し驚いた。
「ですが、今までのわたくしは、相手が困ることさえ考えなかった。花屋も、仕立屋も……学園のあの方も」
お嬢様は歩みを止めた。
「間違っていましたわ」
誰かに聞かせるためではない、小さな声だった。
「わたくしが、間違っていました」
俺はすぐに慰めなかった。あの花屋も、学園の少女も、その言葉をまだ聞いていない。聞いたとして、許してくれるとは限らない。
「これから、どうなさいますか」
お嬢様は目をこすった。
「分かりません。なので、考えましょう」
「あなたは答えを教えてくれませんのね」
「お嬢様がお考えになることですので」
「本当に、可愛げがありませんわ」
声はかすれていたが、少しだけいつもの調子に戻っていた。
***
翌日、お嬢様は雑貨屋にもう一度行きたいと言った。
「お仕事を頼みに?」
「先に謝りますわ」
主人は初め、警戒した顔をしていた。
「この前は、あなたの話を聞かずに失礼なことを言いました。申し訳ありませんでした」
お嬢様は頭を下げた。動きは硬く、耳まで赤い。主人はしばらく黙り、やがて頷いた。
「分かったよ。手紙はもう別の人に頼んだ」
「そうですか」
「でも、帳面の数字を確かめる仕事なら残ってる。やってみるかい」
お嬢様は俺を見た。俺は頷かなかった。彼女が決めることだ。
「はい。やらせてください」
仕事は単純ではなかった。売った品の数と残った品の数を照らし合わせ、書き間違いがないか確かめる。古い字は読みにくく、数字の記し方も人によって違った。お嬢様は二度、計算をやり直した。三度目には、主人が間違えた数字を見つけた。
「こちらは、七ではなく一ではありませんか」
「ああ、本当だ。助かったよ」
お嬢様は、得意げな顔をしかけて、少しだけ口元を引き締めた。
「ほかにも間違いがないか、見ておきますわ」
帰り道、彼女は受け取った銅貨を何度も確かめた。
「落としますよ」
「分かっていますわ」
「でしたら袋にお入れください」
「……もう少し見ていたいの」
俺は何も言わなかった。
それから、お嬢様は俺と一緒に仕事を探した。すべてがうまくいったわけではない。言い方がきつくなって相手を怒らせることも、慣れない作業に腹を立てることもあった。そのたびに俺が指摘すると、彼女は反発した。
「あなたも一度くらい失敗なさいよ!」
「昨日、荷物の数を一つ数え間違えました」
「どうして先に言わないの!」
「お聞きにならなかったので」
「可愛げがない!」
だが、怒鳴った後で、自分から相手に謝りに行くようになった。俺が付き添おうとすると、「一人で行けますわ」と断ることもあった。
夜、二人で旅費を数える。銅貨の山は、少しずつ大きくなった。
***
出発まであと少しという頃、俺は熱を出した。荷運びの途中で雨に降られ、濡れた服のまま仕事を続けたのが悪かったらしい。朝、起き上がろうとすると、天井が揺れた。
「セオ?」
お嬢様の声が遠い。
「申し訳ございません。少し、遅れます」
「遅れるどころではありませんわ」
額に手が触れた。次に目を開けたとき、お嬢様は水と布を持って戻ってきたところだった。宿の主人に頼んで、薬を扱う店も教えてもらったらしい。
「お金は?」
「わたくしの働いた分ですわ」
「旅費に取っておいたものでは」
「あなたが倒れたままでは、旅にも出られませんでしょう」
その理屈なら仕方がない。俺は布を額に乗せられ、もう一度眠った。
翌朝には熱が下がった。起き上がると、お嬢様が窓辺で俺の上着を繕っていた。縫い目は曲がり、布が少し引きつっている。
「お嬢様」
「起きましたの。動かないでくださいな」
「それは、ご自分で?」
「ほかに誰がいますの」
「ありがとうございます」
お嬢様は針を止めた。
「……わたくし、昨日、怖かったの」
「熱はもう下がりました」
「そういうことではありませんわ」
上着を膝に置き、彼女は俺を見た。
「あなたがいなくなったら、わたくし、どうすればよいのかと思いました」
かつてのお嬢様なら、俺の体調管理が悪いと怒っただろう。今も、そう言ってもおかしくない。
「わたくしのせいで仕事を断られて、余計に働いて。あなた一人でしたら、もっとよい暮らしができたでしょうに」
「私が決めたことです」
「なぜ、そこまでしますの」
俺は少し考えた。
「昔、お嬢様に菓子をいただいたことがございます」
「菓子?」
「私に家族がいないと知って、一人では寂しいだろうと」
お嬢様は首をかしげた。覚えていないらしい。
「あれは、お嬢様が召し上がろうと用意されたものでした。それなのに、私が取るまで手をつけませんでしたね」
「……そんなことで?」
「私には、そんなことではありませんでした」
主人から受けた苛烈な教育は、俺が生きていくための力になった。だが、俺自身を気遣ってくれたのは、あの屋敷ではお嬢様だけだった。
「お嬢様が私に優しくしてくださったことを、私は覚えております。ですから、そばにいたいと思いました」
「でも、わたくしはあなたに酷いことを言いましたわ」
「はい」
「少しは否定なさいよ」
「できません。あのお言葉は、たいへん傷つきましたので」
お嬢様は上着を握りしめた。
「ごめんなさい」
顔をそらさずに言った。
「あなたに言い返せなくて、傷つけるために言いました。身寄りがないことを、わたくしは気にかけていたはずなのに」
「はい」
「二度と言いません。腹が立っても、そういうことを言う前に……少し黙りますわ」
お嬢様にとって、それは相当な努力を要する約束だろう。
「承知いたしました」
「許してくださるの?」
俺は少し考えた。
「はい。今回は」
「今回は?」
「次も簡単に許すとは限りません」
お嬢様は唇を尖らせた。それから、少し笑った。
「厳しい執事ですこと」
「お嬢様が、私のそばにいらっしゃる間は」
「わたくしがあなたのそばにいるみたいに言わないでくださる?」
「違いましたか」
「……今は、そうかもしれませんわね」
お嬢様は縫いかけの上着に目を落とした。その頬が赤かったのは、部屋が暖かかったせいだけではないかもしれない。
***
旅費が貯まったのは、それから三週間後だった。
宿代と食費を払い、港町までの乗合馬車に乗り、到着してから数日を過ごせるだけの金。余裕はないが、ここで冬を迎えるよりはよい。
雑貨屋の主人に挨拶すると、小さな包みを渡された。
「道中でお食べ」
中には乾いた果物と、硬い菓子が入っていた。
「ありがとうございます」
お嬢様は包みを両手で受け取った。
「最初に失礼なことを申し上げたのに」
「その後、きちんと働いてくれただろう」
主人は笑った。
「向こうでも、相手の話を聞くんだよ」
「……努力いたしますわ」
「努力だけかい?」
「聞きます!」
俺は荷物を持ち直し、笑いをこらえた。
馬車に揺られながら、お嬢様は窓の外を見ていた。屋敷の馬車と違って座席は硬く、乗り合わせた客も多い。以前なら文句を並べたはずだが、彼女は一度「お尻が痛い」と言っただけだった。
途中の宿で、彼女は俺に尋ねた。
「わたくしが虐めた方は、今どうしていらっしゃるかしら」
「存じません」
「あの方がわたくしを許すことは、ないかもしれませんわね」
「そうかもしれません」
「わたくし、謝りたいと思っています。でも、今さら手紙を送ったところで、困らせるだけかしら」
俺には、相手の気持ちは分からない。
「お嬢様が何をなさり、相手にどんな思いをさせたか。まずはそれを、忘れずにお考えください」
「それだけ?」
「謝るとしても、お嬢様が楽になるためだけの謝罪にはなさらないでください」
お嬢様は頷いた。
「はい。……すぐに答えを出さなくても、考え続けますわ」
窓の外には、知らない土地が広がっていた。婚約者の話も、彼女はときどきした。親同士が決めた相手で、学園でも顔を合わせる機会は多くなかったという。
「好きではありましたわ。立派な方でしたし、あの方の隣に立つ自分を誇らしく思っていました」
「はい」
「でも、何を考えていらっしゃるか、わたくしはあまり知りませんでしたのね」
彼女は自分の膝を見下ろした。
「あの方が誰と話したいかより、わたくしの婚約者がほかの方と話していることのほうが、ずっと気になっていました」
その言葉に、俺は返事を急がなかった。失った婚約が彼女にとって大きなものだったことも、本人なりの好意があったことも、否定する必要はない。
お嬢様は窓の外へ目を戻した。
「今度、誰かを大切に思うときは、その方のお話をちゃんと聞きたいですわ」
「それはよろしいことです」
「あなた、もう少し気の利いたお返事はできませんの?」
「努力いたします」
「そればかり」
お嬢様は笑った。
***
港町は、俺たちのいた町より賑やかだった。行き交う商人の服も言葉もさまざまで、よそ者が二人増えたところで、誰も振り返らない。とはいえ、よそ者を簡単に雇ってくれるほど甘い町でもなかった。
俺たちは紹介状を持って商会を訪ね、帳簿仕事を探した。三軒目の小さな商会で、主人が書類の束を机に置いた。
「紹介状には腕が立つとあるが、うちが欲しいのは一人だ」
「私どもは二人で仕事を探しております」
「二人分の給金は出せない」
「では、まず仕事をご覧いただけませんか。対価は、必要な分をお決めいただければ結構です」
主人は腕を組んだ。
「半日だけだ。それで役に立たなければ帰ってもらう」
帳簿は何か月分もの伝票が混ざり、入荷数と売上が追いにくくなっていた。俺は記録を日付と品目ごとに並べ直し、確認の必要な箇所を別にした。
お嬢様は、読みづらい書類を清書しながら金額を照合する。以前のように、勝手に言い回しを直したりはしない。分からないところは主人に尋ねた。
昼を過ぎた頃、彼女が一枚の伝票を持ち上げた。
「こちらの代金は、帳簿に二度記されていませんか」
主人が確認し、目を見開いた。
「本当だ。これを取引先に請求していたら、大恥をかくところだった」
「ほかにも、確認したほうがよい箇所があります。こちらにまとめましたわ」
お嬢様は紙を差し出した。主人は俺たちを交互に見た。
「一人分の給金しか出せないと言ったが、二人ともいてくれたほうが助かるな」
「でしたら」
俺が口を開くと、お嬢様が先に言った。
「見習いとして、お雇いいただけませんか。足りないところは覚えます。二人分のお給金をいただけるよう、働きますわ」
主人は少し考え、条件を示した。最初のひと月は少ない給金で試し、その後は仕事ぶりを見て決める。住み込みはできないが、近くに安い部屋を貸す家主を知っているという。贅沢はできない。それでも、二人で食べていく計算は立った。
「お願いいたします」
俺とお嬢様は、揃って頭を下げた。
***
借りた部屋には、小さな机と椅子が二脚あった。窓は一つ。寝台は狭く、床も少し傾いている。屋敷のお嬢様の部屋なら、この部屋がいくつ入るか分からない。それでも、扉を閉めると、外の喧騒が遠くなった。
ひと月働いた俺たちは、初めての給金を机の上に並べた。家賃を払って、食費を分け、残りを小さな袋へ入れる。お嬢様は、自分の受け取った硬貨を指でつついた。
「これだけですのね」
「ご不満ですか」
「いいえ」
彼女は首を振った。
「以前のわたくしなら、一度のお茶会で使ってしまったでしょうね。でも、今は……」
硬貨を一枚、持ち上げる。
「これをいただくまで、毎日働いたのだと思うと、簡単には使えませんわ」
「立派なことです」
「もっと褒めてもよろしいのよ」
「十分に褒めました」
「けち」
お嬢様は硬貨を置き、俺を見た。
「セオ。あなたに買いたいものがありますの」
「私に?」
「この前、上着のボタンが取れそうだったでしょう。新しいものを買って、つけて差し上げますわ」
「以前、繕っていただいた箇所が、少々引きつっておりますが」
「それは練習不足でしたの。今度は宿の奥様に教わりました」
「では、楽しみにしております」
お嬢様は満足そうに頷いた。けれど、すぐには席を立たず、手元の硬貨を見つめたまま言った。
「あなたはずっと、わたくしの執事でいてくれましたわね」
「はい」
「もう、わたくしには家も爵位もありません。お給金を払っているのも商会ですわ」
「存じております」
「でしたら……もう少し、普通に話してくださってもよいのではなくて?」
俺は彼女を見た。お嬢様は気丈な顔をしていたが、膝の上の手を落ち着きなく動かしていた。
「普通、と申しますと」
「その、かしこまった話し方をやめるのですわ。わたくしたちは一歳しか違いませんし」
「お嬢様は、私が生意気だとおっしゃっていたのでは」
「あれは、あなたが生意気だったからです!」
「今もそうですが」
「今は……」
お嬢様は言葉を詰まらせた。
「今は、あなたに執事としてだけ、そばにいてほしいわけではありませんの」
部屋が静かになった。
「あなたは、わたくしが何も持っていなくても残ってくれた。酷いことを言っても、間違ったことをしても、叱って、見捨てずにいてくれた」
「お嬢様が正しくないときは、これからも申し上げます」
「分かっていますわ」
彼女は小さく息を吸った。
「わたくしも、あなたのそばにいたいのです。あなたが困ったときに、支えられる人でいたい。だから……もう少し近くで話してくださったら、嬉しいのに」
いつもの命令ではなかった。断られることを恐れながら、それでも口にしたお願いだった。俺は長年の癖を、たった今変えられるだろうかと考えた。
「努力いたします」
お嬢様の眉が上がる。
「またそれですの?」
「すぐには難しいので」
「では、一度だけ。今、言ってみてくださいな」
「何をですか」
「何でも構いませんわ」
俺は机の上の硬貨を見た。家賃も食費も分けた後に、ほんの少しだけ残った金がある。
「……明日、菓子を買いましょうか」
「崩れていませんわ」
「これでも精一杯です」
「もう一度」
「お嬢様」
「メリアです」
彼女はじっと俺を見ている。ここで逃げれば、今夜は眠らせてもらえそうにない。俺は小さく息を吐いた。
「……明日、菓子を買おうか、メリア」
彼女は目を見開いた。それから、今まで見たことがないほど嬉しそうに笑った。
「ええ。二つ買いましょう」
「贅沢ですね」
「あなたの分ですわ。わたくしが買います」
「では、お言葉に甘えます」
「もう戻ってしまいましたの?」
「……長年の癖ですので」
「ふふ、少しずつで構いませんわ」
メリアお嬢様は、硬貨を大切そうに袋へ戻した。
両親も、屋敷も、婚約も失った。彼女が傷つけた人たちのことも、なかったことにはならない。これから先も、困ることはいくらでもあるだろう。
それでも、明日の仕事がある。帰ってくる部屋があり、二人で食べる菓子を買う金がある。何もないところから、ようやく一つ。
机の向こうで、お嬢様がまだ笑っている。俺は明日、どんな菓子を選ぼうかと考えた。




