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破滅した悪役令嬢と異世界転生者の執事がマイナスからスタートする話

作者: 鮫ちゃん
掲載日:2026/11/04

「必ず見つけ出してやりますわ。お父様も、お母様も」


 拘束を解かれたばかりのメリアお嬢様は、役所の門の前でそう宣言した。秋の風が、彼女の金髪を乱している。屋敷を出た日から同じ服を着ているせいで、裾には皺が寄り、白い手袋も灰色に汚れていた。


 それでも背筋は伸びている。両親が国の金を横領し、数々の犯罪を暴かれ、娘を置いて国外へ逃げ出した直後だというのに、公爵令嬢らしい威厳は健在だった。感心するべきかもしれない。ただ、俺には気になることがあった。


「お嬢様」


「何ですの」


「本日の宿泊費がございません」


「……それが何ですの?」


「今夜、眠る場所がないということでございます」

 お嬢様は、きれいに整った顔をしかめた。


「でしたら、宿を取りなさい。あなたが持っているお金で」


「私の所持金は銅貨が四枚です。お二人分の寝床と食事には足りません」


「たった四枚? あなた、今まで何にお給金を使っていましたの」


「屋敷を出る際、持ち出せたのが四枚だけでございます。預けていた給金も、家の財産と一緒に調べられておりますので」


 俺たちを含め、屋敷にいた者は全員、両親の犯罪に関わった疑いで拘束された。調べの結果、少なくとも俺とお嬢様を罪に問える証拠はなく、こうして解放された。


 とはいえ、解放は財産が返ってくるという意味ではない。屋敷も、土地も、金も、まだ調査の最中だ。俺の給金の扱いが決まるのを待っていたら、冬が来る。


 お嬢様は俺の手のひらの銅貨を見下ろし、鼻で笑った。

「情けない執事ですこと」


「申し訳ございません」

 お嬢様が出国資金を持っていないことも、同じくらい情けないと思う。だが、今それを申し上げても銅貨は増えない。


「ほかの者はどうしましたの。執事長や、わたくし付きの侍女たちは?」


「先に解放された者は、それぞれ帰ったようです。実家を頼る者も、蓄えで別の仕事を探す者もおります」


「薄情者ばかりですわね」


「生活がございますので」


「あなたは擁護するの?」


「私が彼らでも、そうしたでしょう」


「あなたは残っていますわ」


「はい」


「なぜ?」

 お嬢様は不審そうに俺を見た。


「あなたには、わたくしに付き従う理由などないでしょう。お給金も払えませんのよ」


「存じております」


「でしたら、一人で行きなさい」

 声は高慢だった。だが、手袋の指先はきつく握り込まれている。俺は四枚の銅貨を握り、ポケットへ戻した。


「お嬢様をお一人にするわけにはまいりません」


「わたくしを誰だと思っていますの」


「今夜の寝床も食事もない方でございます」


「あなた、本当に可愛げがありませんわね」

 お嬢様は顔を背けた。それでも、俺が歩き出すと、少し遅れてついてきた。まずは野宿を避けなければならなかった。


***


 だが結局、その夜は野宿になった。


 まず役所の門を出た俺たちが最初に向かったのは、お嬢様が贔屓にしていた仕立屋だった。代金の支払いを待ってもらえないか、あるいは知人を紹介してもらえないかと考えたのだ。店主はメリアお嬢様の顔を見るなり、扉を半分閉めた。


「申し訳ありませんが、お引き取りください」


「何を言っていますの。わたくしですわよ」


「存じております」


「でしたら、なぜそのような態度を取りますの?」

 店主の視線が、俺とお嬢様の間を行き来した。


「あなたのお父上には、まだお支払いいただいていない代金がございます。お屋敷に問い合わせても、もう誰も答えてはくださらない」

 お嬢様は口を開きかけ、閉じた。


「それは、お父様が――」


「はい。お嬢様が注文なさった服の代金を、お父上がお支払いにならなかったのです」

 店主は言葉を選ぶように、一度息を吸った。


「うちにも職人がおります。あの方にこれ以上関わって、注文を失うわけにはまいりません」


「わたくしが父の悪事に関わっていないことは、役所も認めていますわ」


「それでもです」

 扉が閉まった。お嬢様はしばらく動かなかった。やがて振り返り、俺を睨んだ。


「今のを聞きまして? わたくしを泥棒扱いしましたわ」


「店主にも事情がございます」


「わたくしには関係ありません」


「未払いの服は、お嬢様がお召しになったものです」


「支払うのはお父様でしょう」


「そのお父上が逃げたため、店は困っております」


「だからといって、わたくしを追い返していい理由にはなりませんわ!」


 通りを歩く人が、こちらを見た。お嬢様の顔を知っている者がいたのだろう。ひそひそと話す声が聞こえた。俺はお嬢様を通りから離し、裏道へ連れていった。


 その後も、何軒か訪ねた。屋敷に品物を納めていた商人、両親と付き合いのあった家、学園でお嬢様と親しくしていた令嬢の屋敷。門前払いを受けるか、留守だと告げられるかのどちらかだった。最後の屋敷を出た頃には、空が暗くなっていた。


「もういいですわ」

 お嬢様が立ち止まった。


「誰も彼も、わたくしが困っていると知って、喜んでいますのよ」


「喜んでいる者もいるかもしれません」


「否定しないの?」


「事実を知りませんので」


「役に立たない人」

 俺は否定しなかった。今日のところは、実際に寝床を見つけられていない。


 市場の外れに、荷車を置くための古い小屋があった。管理人に事情を話し、銅貨を一枚払うと、朝まで屋根の下にいることを許してくれた。残りの銅貨で、硬いパンと水を買った。


「このようなところで眠れというの?」

 藁の積まれた床を見て、お嬢様が言った。


「雨はしのげます」


「虫がいますわ」


「追い払います」


「匂いもひどい」


「そこは我慢していただくほかございません」

 お嬢様は俺からパンを受け取り、一口かじった。途端に顔をしかめる。


「硬い」


「水に浸すと召し上がりやすくなります」


「あなた、何でも知っていますのね」


「存じ上げていないこともございます」


「たとえば?」


「お嬢様に、このパンを美味しく召し上がっていただく方法です」

 お嬢様はパンを睨み、しばらくしてから小さくかじった。その夜、彼女は一度も両親への悪口を漏らさなかった。


***


 翌朝、俺は市場の帳簿をつける仕事を探した。商人に声をかけて回ると、荷受けをしている男が足を止めてくれた。雇っていた書記が病気で休んでいて、伝票の整理が追いつかないらしい。


「字は書けるのか」


「はい。計算もできます」


「口で言うだけなら誰でもできる」

 渡された伝票を、その場で日付と取引先ごとに分けた。数量と代金の合わないものを脇へ置き、荷受け帳との食い違いを示す。男の眉が上がった。


「それ、うちの者が昨日から探してたやつだ」


「こちらの二件も、同じ品が重複して記されています。現物をご確認ください」

 仕事を任されることになった。半日分の手間賃をもらい、安い宿の一室と食事を確保する。その夜、お嬢様は木椅子に座ったまま、薄いスープを口にした。


「あなた、一人でしたら困らないのではなくて?」


「少なくとも、昨日ほどには」


「嫌味な言い方」


「失礼いたしました」


「そう思うなら、一人で行けばよいでしょう」


「お嬢様を置いてですか」


「わたくしが足手まといだと、言いたいのでしょう?」

 言った覚えはない。思わなかったとは言わないが。


「お嬢様は、これからどうなさるおつもりですか」


「……お父様たちを探し出しますわ」


「どのように?」


「それを考えるのが、あなたの仕事でしょう」


「今の私の仕事は、明日の食事を確保することです」


「わたくしに意見するつもり?」


「はい」

 お嬢様の匙が止まった。


「何ですって?」


「国外へ逃げたお二人を探すには、お金も人手も必要です。今のお嬢様には、どちらもございません。まずは暮らしを立て直しましょう」


「あなたは黙って、わたくしに従えばよろしいの」


「従った結果、お嬢様を飢えさせるわけにはまいりません」


「生意気ですわね。たかが一つ年上なだけのくせに」

 年齢については返す言葉がなかった。少なくとも、この世界では。


 俺には前世の記憶がある。別の世界で、別の人生を送っていたこと。働き、金を稼ぎ、帳簿や書類に追われ、面倒な人間とも付き合ってきたこと。


 その知識が、この世界で受けた教育と合わさり、役に立つ場面は多い。だが、商人がどんな品を扱い、誰を信用するかは、この国で学ばなければ分からなかった。知らないことは調べ、人に聞き、間違えれば直す。それだけだ。


 お嬢様は俺の沈黙を勝利と受け取ったらしい。

「分かったら、明日はもっとましな食事を用意なさい」


「努力いたします」

 明日の食事に文句を言う元気があるなら、まだ大丈夫だろう。そう思うことにした。


***


 数日は、どうにか過ぎた。


 俺は市場の仕事を続け、空いた時間には手紙の代筆や勘定の確認を引き受けた。依頼ごとに少しずつ金をもらい、宿代と食費を払い、残りを布袋に入れる。お嬢様には目立たない服を買った。髪も布で隠してもらったが、本人は大いに不満らしかった。


「どうしてわたくしが、この美しい顔を隠さなければなりませんの」


「お嬢様の顔を知っている方が多いからです」


「悪いのはお父様たちですわ」


「はい。ですが、今はお嬢様に近づきたくないと考える人もおります」


「臆病者ですこと」


「そうかもしれません」


「あなた、さっきからそればかりですわね」

 ほかに答えようがなかった。


 俺は旅費を計算した。国境を越えるには、馬車代も道中の宿代も、到着してからの生活費も要る。今の稼ぎで貯めるには、かなりの日数が必要だった。


「まずは、この国の南へ向かいましょう」

 宿の小さな机に紙を広げ、お嬢様に話した。


「国境の向こうは、今すぐには難しいですが、南の港町なら仕事も多く、この町ほどお嬢様を知る人もおりません」


「逃げるのですか」


「生活を立て直すためです」


「わたくしが、悪いことをしたわけでもないのに」

 その言葉に、俺はペンを置いた。


 お嬢様は両親の犯罪に加担していない。だが、何もしていないわけではない。学園で婚約者と親しく話した少女に、取り巻きを使って嫌がらせをしたこと。少女の持ち物を隠し、根も葉もない噂を流したこと。屋敷で聞こえてきた話の一部だけでも、十分だった。


「お嬢様」


「何ですの」


「学園で、あの伯爵家のご令嬢に何をなさいましたか」

 お嬢様の顔から、ふっと表情が消えた。


「なぜ、その話をしますの」


「お嬢様が、ご自分は悪いことをしていないとおっしゃったからです」


「あの方が、わたくしの婚約者に馴れ馴れしくしたのですわ」


「それで持ち物を隠してもよいと?」


「少し困らせただけです」


「噂を流したことも?」


「あの方が傷ついたとでも言いたいの?」


「はい」

 お嬢様は椅子を蹴るように立ち上がった。


「あなたに何が分かりますの。わたくしの婚約者ですのよ。あの方が隣に立つべきではありませんわ!」


「誰の隣に立つかを、ご本人が選ぶことも許されませんか」


「あなたは、わたくしの執事でしょう!」


「お嬢様が悪くないと申し上げるのが、執事の仕事でしたら、私にはできません」


「今まで何も言わなかったくせに!」

 その通りだった。


 俺は学園での出来事を多少は知っていた。それでも口を挟まなかった。主人の娘を教育する権限などなく、意見して主人の機嫌を損ねれば、身寄りのない俺には逃げ場がない。


 ――お嬢様の両親が、天涯孤独の俺を育てたのは、慈善ではなかった。


 捨て子である俺には、連絡を取る家族がいない。どこかの家の息がかかった者でもなく、いざというときには罪をかぶせて切り捨てられる。屋敷で守るべきは主人の名誉であり、お前の人生ではないと、遠回しに聞かされて育った。


 そのために惜しみなく教育を施された。帳簿を読み、複数の言葉を学び、礼儀を身につけた。役に立つほど待遇は良くなったが、それは俺を惜しんでいるからではなく、使い道が増えるからだと分かっていた。波風を立てずに働いたのは、俺自身を守るためだ。


「申し訳ございません」


「謝れば済むと思っていますの?」


「いいえ。ですが、今も黙っているわけにはまいりません」

 お嬢様は俺を睨み、部屋を出ていった。


 扉が閉まる音は、しばらく耳に残った。お嬢様は夕食の時間になっても戻らなかった。探しに出ようとしたところで、宿の入口に立っているのを見つけた。布で顔を隠し、壁にもたれている。


「心配いたしました」


「勝手に心配なさい」


「夕食が冷めます」


「お腹は空いていませんわ」

 その瞬間、腹の虫が鳴った。お嬢様は俺を睨んだ。


「聞こえませんでした」


「何も言っていませんわ!」

 部屋に戻ると、彼女は黙ってスープを飲んだ。俺も何も言わなかった。


***


 翌朝、市場へ行くと、荷受けの男が困った顔で近づいてきた。


「悪いが、今日から来なくていい」


「何か不手際がございましたか」


「仕事は申し分ない。だが、お前が連れている娘のことを聞いた」

 男は周囲を見回し、声を落とした。


「お前の元の主人に金を取られたやつもいる。あの娘を雇っているように見えたら、こっちが困る」


「私はその家の犯罪に関わっておりません」


「分かってる。だから、町を出るなら紹介状くらい書いてやる。だが、ここで仕事を続けさせるのは無理だ」

 俺は礼を言い、残りの手間賃と紹介状を受け取った。宿に戻ると、お嬢様が窓辺に立っていた。


「お仕事は?」


「終わりました」


「まだ昼にもなっていませんわ」

 隠す必要もない。俺が事情を説明すると、お嬢様は唇を引き結んだ。


「わたくしのせいですのね」


「お嬢様のご両親の悪事が原因です」


「同じことですわ」


「同じではございません」

 彼女はそれ以上、何も言わなかった。


 その日から、俺は市場の外れや町はずれで仕事を探した。薪を運び、倉庫の品数を数え、代筆の看板を出した。読み書きが必要な仕事は単価がよかったが、毎日あるわけではない。荷運びは腕が痛くなるわりに稼ぎが少ない。それでも宿代を払わなければならない。帰ると、お嬢様は以前より静かになっていた。


「本日の夕食です」


「……あなたは?」


「先にいただきました」


「嘘ですわね」


「なぜそう思われますか」


「あなた、嘘をつくときは、わたくしから目をそらすもの」

 初耳だった。今後は気をつけよう。お嬢様はパンを半分に割り、俺に押しつけた。


「わたくしは、それほどお腹が空いていませんの」


「お嬢様こそ、嘘をつくときは私の目を見ません」


「黙って食べなさい」

 俺は黙って食べた。


***


 子供の頃、お嬢様はよく俺に菓子を分けてくれた。


 屋敷に引き取られた捨て子の俺は、ほかの子供たちと違い、帰る家はどこにもなかった。大人たちは親切だったが、俺が何を覚え、何を間違えたかを細かく記録していた。


 お嬢様だけは、そんなことを気にしなかった。

「セオには、お母様はいませんの?」

 屋敷で勉強をしていた俺に、彼女は尋ねた。


「はい」


「お父様は?」


「おりません」

 お嬢様はしばらく考えて、持っていた菓子の皿を俺の前に置いた。


「では、今日はわたくしと食べなさい」


「なぜですか」


「一人では、寂しいでしょう」

 本人が食べたかっただけかもしれない。だが、俺が一つ取るまで、お嬢様は自分の分に手をつけなかった。


 別の日には、使用人の子供たちが家族と出かけたと聞き、俺を庭に呼び出してボードゲームなどで一緒に遊んだ。負けると怒り、勝つと自慢するので、相手をするのは面倒だった。


 それでも、あの子供が俺を利用するために声をかけていたとは思わない。主人の愛情には、いつも計算が見えた。教育を受け、できることが増えるたびに、いつか自分が何かの身代わりにされる日が来るのだろうと感じた。メリアお嬢様の優しさには、そういうものがなかった。


 だから俺は、彼女を置いていけない。


 学園で何をしたのかを知っても、その事実は変わらない。逆に、俺に優しかったからといって、彼女がほかの誰かを傷つけた事実も消えない。両方を抱えたまま、俺は明日の仕事を探すつもりだった。


***


「わたくしも働きますわ」

 数日後、お嬢様が言った。


「何をなさいますか」


「読み書きも計算もできます。あなたにできることなら、わたくしにもできるでしょう」

 ずいぶんな自信だった。だが、知識と能力があるのは確かだ。


 俺は代筆を頼まれた際、書き損じのない清書なら手伝ってもらえるかもしれないと、依頼人に相談した。古い取引先への案内状を何通も出したいという、小さな雑貨屋の主人だった。


「字がきれいなら助かるよ」

 机を借り、お嬢様が一枚目を書く。流れるような文字は、俺のものより美しい。


「これはいい」

 主人が感心すると、お嬢様は満足そうに顎を上げた。


「当然ですわ。わたくしを誰だと――」


「メリアと申します」

 俺が横から言うと、お嬢様はむっとした。二枚目を書く前に、主人が原稿の一部を指した。


「ここの言い回しを、もう少し柔らかくしてくれるかい。相手は年配の人でね」


「このままで十分ですわ」


「でも、こっちのほうが伝わりやすいと思うんだ」


「あなたが書けないから、わたくしが書いて差し上げているのでしょう?」

 主人の顔から笑みが消えた。俺は筆を置いた。


「お嬢様。依頼された方のお話をお聞きください」


「間違ったことは言っていませんわ」


「間違っております」


「何ですって?」


「私たちは頼まれた仕事をして、その対価をいただきます。書いて差し上げているのではありません」

 主人が気まずそうに手を振った。


「いや、もういいよ。今日はここまでにしておくれ」

 受け取ったのは、一枚分にも満たない額だった。帰り道、お嬢様は口を尖らせた。


「あの男の頼み方が悪いのですわ」


「丁寧に頼まれていました」


「あなたはあの男の味方なの?」


「仕事を失った理由を申し上げております」


「わたくしを馬鹿にして楽しい?」


「いいえ」


「嘘おっしゃい。あなたはずっと、わたくしを見下しているのでしょう。天涯孤独の捨て子のくせに、今はわたくしより稼げるから!」

 足が止まった。


 お嬢様も、自分が何を言ったか分かったのだろう。だが、目をそらすだけで、言葉を引っ込めようとはしなかった。俺は息を吸った。


「お嬢様」


「何ですの」


「私を傷つけたいのでしたら、今のお言葉は正解です」

 お嬢様の肩が揺れた。


「ですが、私が捨て子であることと、お嬢様が依頼人を侮辱したことは関係ありません」


「わたくしは――」


「お聞きください」

 声が思ったより強くなった。


「相手が何を望んでいるかも聞かず、自分のほうが上だと示して、仕事になると思わないでください。今日のあの方に、私たちを雇う義務はありません」

 お嬢様の瞳に涙が浮かんだ。


「あなたまで、わたくしを責めるの」


「はい。お嬢様が間違っているときは」


「優しくしてくださった人だと思っていたのに!」


「私は、お嬢様から嫌われないよう嘘をつくつもりはございません」

 お嬢様は俺を突き飛ばし、先に歩いていった。


 ずいぶん勝手な人だと思った。こちらの痛いところを正確に踏んでおいて、泣きたいのは自分だけらしい。


 それでも、俺は後を追った。彼女の両親が逃げ、誰もいなくなった日に、置いていかないと決めたのは俺自身だ。腹が立った程度で、決めたことを変えるつもりはなかった。


***


 宿の近くに、パンを売る老女がいた。


 俺たちが遅く帰った日、売れ残りのパンを少し安くしてくれたことがある。ある朝、その老女の荷車の車輪が溝にはまった。


 俺が駆け寄るより先に、通りすがりの男が荷台を持ち上げた。近くの店から若い女が出てきて、車輪の下に板を差し込む。荷車が動くと、老女は何度も礼を言った。


「この前、母さんにパンを分けてくれただろ」

 男が笑う。


「うちも去年、店が水浸しになったときに助けてもらいましたから」

 若い女もそう言って、店へ戻っていった。お嬢様はその様子を黙って見ていた。


「特別なお知り合いですの?」


「この辺りの方々でしょう」


「お金をもらわなくても、助けますのね」


「困ったときはお互い様、と考える人もおります」

 お嬢様は、荷車を押していく老女の背中を見送った。


 その日の夕方、彼女は突然、以前屋敷に出入りしていた花屋へ行きたいと言い出した。

「店主は、わたくしが贔屓にしていた者ですわ。事情を話せば、何か仕事を紹介してくれるかもしれません」

 俺は止めなかった。頼ること自体は悪くない。


 花屋の店主は、俺たちを見ると表情を硬くした。

「ああ、お嬢様」


「久しぶりですわね。少し相談が――」


「申し訳ありませんが、お聞きできません」


「どうして?」


「以前、納品した花が一日早く傷んだと、お嬢様がお怒りになったことを覚えておいでですか」

 お嬢様は眉を寄せた。


「そんなこともありましたわね」


「私は代わりの花をお持ちしました。けれど、お嬢様はそれを受け取らず、お父上に私の店を出入り禁止にするよう頼まれた」


「当然でしょう。お客様に傷んだ花を届けたのですから」


「ええ。私が悪うございました」

 店主はそう言ったが、頭は下げなかった。


「ただ、あのとき屋敷の注文を失って、店を閉めかけました。家族と職人に助けられて、ようやく続けております。もう、あなたのご家族と関わる余裕はありません」

 お嬢様は何か言おうとして、やめた。店を出た後も、しばらく黙って歩いた。


「花が傷んでいたのは、本当ですわ」


「はい」


「わたくしが怒ったのも、間違っていません」


「怒る理由はあったのでしょう」


「でも……」

 お嬢様の足が遅くなった。


「店を閉めることになるかもしれないなんて、考えませんでしたわ」

 俺は返事を待った。


「考えもしなかったの。わたくしが嫌な思いをしたから、それで十分だと」

 通りの向こうで、荷車の老女が客と話している。お嬢様はそれを見て、指先を握りしめた。


「わたくしが、もっと誰かに親切にしていたら」

 声は小さかった。


「こういうとき、助けてくれる方がいたのかしら」


「いたかもしれません。いなかったかもしれません」


「冷たい答えですわね」


「親切にしたからといって、相手が必ず助けてくださるとは限りませんので」

 お嬢様はうつむいた。


「分かっていますわ。助けてもらいたくて親切にするのは、違うのでしょう」

 俺は少し驚いた。


「ですが、今までのわたくしは、相手が困ることさえ考えなかった。花屋も、仕立屋も……学園のあの方も」

 お嬢様は歩みを止めた。


「間違っていましたわ」

 誰かに聞かせるためではない、小さな声だった。


「わたくしが、間違っていました」

 俺はすぐに慰めなかった。あの花屋も、学園の少女も、その言葉をまだ聞いていない。聞いたとして、許してくれるとは限らない。


「これから、どうなさいますか」

 お嬢様は目をこすった。


「分かりません。なので、考えましょう」


「あなたは答えを教えてくれませんのね」


「お嬢様がお考えになることですので」


「本当に、可愛げがありませんわ」

 声はかすれていたが、少しだけいつもの調子に戻っていた。


***


 翌日、お嬢様は雑貨屋にもう一度行きたいと言った。

「お仕事を頼みに?」


「先に謝りますわ」

 主人は初め、警戒した顔をしていた。


「この前は、あなたの話を聞かずに失礼なことを言いました。申し訳ありませんでした」

 お嬢様は頭を下げた。動きは硬く、耳まで赤い。主人はしばらく黙り、やがて頷いた。


「分かったよ。手紙はもう別の人に頼んだ」


「そうですか」


「でも、帳面の数字を確かめる仕事なら残ってる。やってみるかい」

 お嬢様は俺を見た。俺は頷かなかった。彼女が決めることだ。


「はい。やらせてください」


 仕事は単純ではなかった。売った品の数と残った品の数を照らし合わせ、書き間違いがないか確かめる。古い字は読みにくく、数字の記し方も人によって違った。お嬢様は二度、計算をやり直した。三度目には、主人が間違えた数字を見つけた。


「こちらは、七ではなく一ではありませんか」


「ああ、本当だ。助かったよ」

 お嬢様は、得意げな顔をしかけて、少しだけ口元を引き締めた。


「ほかにも間違いがないか、見ておきますわ」

 帰り道、彼女は受け取った銅貨を何度も確かめた。


「落としますよ」


「分かっていますわ」


「でしたら袋にお入れください」


「……もう少し見ていたいの」

 俺は何も言わなかった。


 それから、お嬢様は俺と一緒に仕事を探した。すべてがうまくいったわけではない。言い方がきつくなって相手を怒らせることも、慣れない作業に腹を立てることもあった。そのたびに俺が指摘すると、彼女は反発した。


「あなたも一度くらい失敗なさいよ!」


「昨日、荷物の数を一つ数え間違えました」


「どうして先に言わないの!」


「お聞きにならなかったので」


「可愛げがない!」


 だが、怒鳴った後で、自分から相手に謝りに行くようになった。俺が付き添おうとすると、「一人で行けますわ」と断ることもあった。


 夜、二人で旅費を数える。銅貨の山は、少しずつ大きくなった。


***


 出発まであと少しという頃、俺は熱を出した。荷運びの途中で雨に降られ、濡れた服のまま仕事を続けたのが悪かったらしい。朝、起き上がろうとすると、天井が揺れた。


「セオ?」

 お嬢様の声が遠い。


「申し訳ございません。少し、遅れます」


「遅れるどころではありませんわ」

 額に手が触れた。次に目を開けたとき、お嬢様は水と布を持って戻ってきたところだった。宿の主人に頼んで、薬を扱う店も教えてもらったらしい。


「お金は?」


「わたくしの働いた分ですわ」


「旅費に取っておいたものでは」


「あなたが倒れたままでは、旅にも出られませんでしょう」

 その理屈なら仕方がない。俺は布を額に乗せられ、もう一度眠った。


 翌朝には熱が下がった。起き上がると、お嬢様が窓辺で俺の上着を繕っていた。縫い目は曲がり、布が少し引きつっている。


「お嬢様」


「起きましたの。動かないでくださいな」


「それは、ご自分で?」


「ほかに誰がいますの」


「ありがとうございます」

 お嬢様は針を止めた。


「……わたくし、昨日、怖かったの」


「熱はもう下がりました」


「そういうことではありませんわ」

 上着を膝に置き、彼女は俺を見た。


「あなたがいなくなったら、わたくし、どうすればよいのかと思いました」

 かつてのお嬢様なら、俺の体調管理が悪いと怒っただろう。今も、そう言ってもおかしくない。


「わたくしのせいで仕事を断られて、余計に働いて。あなた一人でしたら、もっとよい暮らしができたでしょうに」


「私が決めたことです」


「なぜ、そこまでしますの」

 俺は少し考えた。


「昔、お嬢様に菓子をいただいたことがございます」


「菓子?」


「私に家族がいないと知って、一人では寂しいだろうと」

 お嬢様は首をかしげた。覚えていないらしい。


「あれは、お嬢様が召し上がろうと用意されたものでした。それなのに、私が取るまで手をつけませんでしたね」


「……そんなことで?」


「私には、そんなことではありませんでした」

 主人から受けた苛烈な教育は、俺が生きていくための力になった。だが、俺自身を気遣ってくれたのは、あの屋敷ではお嬢様だけだった。


「お嬢様が私に優しくしてくださったことを、私は覚えております。ですから、そばにいたいと思いました」


「でも、わたくしはあなたに酷いことを言いましたわ」


「はい」


「少しは否定なさいよ」


「できません。あのお言葉は、たいへん傷つきましたので」

 お嬢様は上着を握りしめた。


「ごめんなさい」

 顔をそらさずに言った。


「あなたに言い返せなくて、傷つけるために言いました。身寄りがないことを、わたくしは気にかけていたはずなのに」


「はい」


「二度と言いません。腹が立っても、そういうことを言う前に……少し黙りますわ」

 お嬢様にとって、それは相当な努力を要する約束だろう。


「承知いたしました」


「許してくださるの?」

 俺は少し考えた。


「はい。今回は」


「今回は?」


「次も簡単に許すとは限りません」

 お嬢様は唇を尖らせた。それから、少し笑った。


「厳しい執事ですこと」


「お嬢様が、私のそばにいらっしゃる間は」


「わたくしがあなたのそばにいるみたいに言わないでくださる?」


「違いましたか」


「……今は、そうかもしれませんわね」

 お嬢様は縫いかけの上着に目を落とした。その頬が赤かったのは、部屋が暖かかったせいだけではないかもしれない。


***


 旅費が貯まったのは、それから三週間後だった。


 宿代と食費を払い、港町までの乗合馬車に乗り、到着してから数日を過ごせるだけの金。余裕はないが、ここで冬を迎えるよりはよい。


 雑貨屋の主人に挨拶すると、小さな包みを渡された。

「道中でお食べ」

 中には乾いた果物と、硬い菓子が入っていた。


「ありがとうございます」

 お嬢様は包みを両手で受け取った。


「最初に失礼なことを申し上げたのに」


「その後、きちんと働いてくれただろう」

 主人は笑った。


「向こうでも、相手の話を聞くんだよ」


「……努力いたしますわ」


「努力だけかい?」


「聞きます!」

 俺は荷物を持ち直し、笑いをこらえた。


 馬車に揺られながら、お嬢様は窓の外を見ていた。屋敷の馬車と違って座席は硬く、乗り合わせた客も多い。以前なら文句を並べたはずだが、彼女は一度「お尻が痛い」と言っただけだった。


 途中の宿で、彼女は俺に尋ねた。

「わたくしが虐めた方は、今どうしていらっしゃるかしら」


「存じません」


「あの方がわたくしを許すことは、ないかもしれませんわね」


「そうかもしれません」


「わたくし、謝りたいと思っています。でも、今さら手紙を送ったところで、困らせるだけかしら」

 俺には、相手の気持ちは分からない。


「お嬢様が何をなさり、相手にどんな思いをさせたか。まずはそれを、忘れずにお考えください」


「それだけ?」


「謝るとしても、お嬢様が楽になるためだけの謝罪にはなさらないでください」

 お嬢様は頷いた。


「はい。……すぐに答えを出さなくても、考え続けますわ」


 窓の外には、知らない土地が広がっていた。婚約者の話も、彼女はときどきした。親同士が決めた相手で、学園でも顔を合わせる機会は多くなかったという。


「好きではありましたわ。立派な方でしたし、あの方の隣に立つ自分を誇らしく思っていました」


「はい」


「でも、何を考えていらっしゃるか、わたくしはあまり知りませんでしたのね」

 彼女は自分の膝を見下ろした。


「あの方が誰と話したいかより、わたくしの婚約者がほかの方と話していることのほうが、ずっと気になっていました」

 その言葉に、俺は返事を急がなかった。失った婚約が彼女にとって大きなものだったことも、本人なりの好意があったことも、否定する必要はない。


 お嬢様は窓の外へ目を戻した。

「今度、誰かを大切に思うときは、その方のお話をちゃんと聞きたいですわ」


「それはよろしいことです」


「あなた、もう少し気の利いたお返事はできませんの?」


「努力いたします」


「そればかり」

 お嬢様は笑った。


***


 港町は、俺たちのいた町より賑やかだった。行き交う商人の服も言葉もさまざまで、よそ者が二人増えたところで、誰も振り返らない。とはいえ、よそ者を簡単に雇ってくれるほど甘い町でもなかった。


 俺たちは紹介状を持って商会を訪ね、帳簿仕事を探した。三軒目の小さな商会で、主人が書類の束を机に置いた。


「紹介状には腕が立つとあるが、うちが欲しいのは一人だ」


「私どもは二人で仕事を探しております」


「二人分の給金は出せない」


「では、まず仕事をご覧いただけませんか。対価は、必要な分をお決めいただければ結構です」

 主人は腕を組んだ。


「半日だけだ。それで役に立たなければ帰ってもらう」


 帳簿は何か月分もの伝票が混ざり、入荷数と売上が追いにくくなっていた。俺は記録を日付と品目ごとに並べ直し、確認の必要な箇所を別にした。


 お嬢様は、読みづらい書類を清書しながら金額を照合する。以前のように、勝手に言い回しを直したりはしない。分からないところは主人に尋ねた。


 昼を過ぎた頃、彼女が一枚の伝票を持ち上げた。

「こちらの代金は、帳簿に二度記されていませんか」

 主人が確認し、目を見開いた。


「本当だ。これを取引先に請求していたら、大恥をかくところだった」


「ほかにも、確認したほうがよい箇所があります。こちらにまとめましたわ」

 お嬢様は紙を差し出した。主人は俺たちを交互に見た。


「一人分の給金しか出せないと言ったが、二人ともいてくれたほうが助かるな」


「でしたら」

 俺が口を開くと、お嬢様が先に言った。


「見習いとして、お雇いいただけませんか。足りないところは覚えます。二人分のお給金をいただけるよう、働きますわ」


 主人は少し考え、条件を示した。最初のひと月は少ない給金で試し、その後は仕事ぶりを見て決める。住み込みはできないが、近くに安い部屋を貸す家主を知っているという。贅沢はできない。それでも、二人で食べていく計算は立った。


「お願いいたします」

 俺とお嬢様は、揃って頭を下げた。


***


 借りた部屋には、小さな机と椅子が二脚あった。窓は一つ。寝台は狭く、床も少し傾いている。屋敷のお嬢様の部屋なら、この部屋がいくつ入るか分からない。それでも、扉を閉めると、外の喧騒が遠くなった。


 ひと月働いた俺たちは、初めての給金を机の上に並べた。家賃を払って、食費を分け、残りを小さな袋へ入れる。お嬢様は、自分の受け取った硬貨を指でつついた。


「これだけですのね」


「ご不満ですか」


「いいえ」

 彼女は首を振った。


「以前のわたくしなら、一度のお茶会で使ってしまったでしょうね。でも、今は……」

 硬貨を一枚、持ち上げる。


「これをいただくまで、毎日働いたのだと思うと、簡単には使えませんわ」


「立派なことです」


「もっと褒めてもよろしいのよ」


「十分に褒めました」


「けち」

 お嬢様は硬貨を置き、俺を見た。


「セオ。あなたに買いたいものがありますの」


「私に?」


「この前、上着のボタンが取れそうだったでしょう。新しいものを買って、つけて差し上げますわ」


「以前、繕っていただいた箇所が、少々引きつっておりますが」


「それは練習不足でしたの。今度は宿の奥様に教わりました」


「では、楽しみにしております」

 お嬢様は満足そうに頷いた。けれど、すぐには席を立たず、手元の硬貨を見つめたまま言った。


「あなたはずっと、わたくしの執事でいてくれましたわね」


「はい」


「もう、わたくしには家も爵位もありません。お給金を払っているのも商会ですわ」


「存じております」


「でしたら……もう少し、普通に話してくださってもよいのではなくて?」

 俺は彼女を見た。お嬢様は気丈な顔をしていたが、膝の上の手を落ち着きなく動かしていた。


「普通、と申しますと」


「その、かしこまった話し方をやめるのですわ。わたくしたちは一歳しか違いませんし」


「お嬢様は、私が生意気だとおっしゃっていたのでは」


「あれは、あなたが生意気だったからです!」


「今もそうですが」


「今は……」

 お嬢様は言葉を詰まらせた。


「今は、あなたに執事としてだけ、そばにいてほしいわけではありませんの」

 部屋が静かになった。


「あなたは、わたくしが何も持っていなくても残ってくれた。酷いことを言っても、間違ったことをしても、叱って、見捨てずにいてくれた」


「お嬢様が正しくないときは、これからも申し上げます」


「分かっていますわ」

 彼女は小さく息を吸った。


「わたくしも、あなたのそばにいたいのです。あなたが困ったときに、支えられる人でいたい。だから……もう少し近くで話してくださったら、嬉しいのに」

 いつもの命令ではなかった。断られることを恐れながら、それでも口にしたお願いだった。俺は長年の癖を、たった今変えられるだろうかと考えた。


「努力いたします」

 お嬢様の眉が上がる。


「またそれですの?」


「すぐには難しいので」


「では、一度だけ。今、言ってみてくださいな」


「何をですか」


「何でも構いませんわ」

 俺は机の上の硬貨を見た。家賃も食費も分けた後に、ほんの少しだけ残った金がある。


「……明日、菓子を買いましょうか」


「崩れていませんわ」


「これでも精一杯です」


「もう一度」


「お嬢様」


「メリアです」

 彼女はじっと俺を見ている。ここで逃げれば、今夜は眠らせてもらえそうにない。俺は小さく息を吐いた。


「……明日、菓子を買おうか、メリア」

 彼女は目を見開いた。それから、今まで見たことがないほど嬉しそうに笑った。


「ええ。二つ買いましょう」


「贅沢ですね」


「あなたの分ですわ。わたくしが買います」


「では、お言葉に甘えます」


「もう戻ってしまいましたの?」


「……長年の癖ですので」


「ふふ、少しずつで構いませんわ」

 メリアお嬢様は、硬貨を大切そうに袋へ戻した。


 両親も、屋敷も、婚約も失った。彼女が傷つけた人たちのことも、なかったことにはならない。これから先も、困ることはいくらでもあるだろう。


 それでも、明日の仕事がある。帰ってくる部屋があり、二人で食べる菓子を買う金がある。何もないところから、ようやく一つ。


 机の向こうで、お嬢様がまだ笑っている。俺は明日、どんな菓子を選ぼうかと考えた。

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