番を見つけた兎獣人の私ですが、人間の文官様が鈍すぎて求愛が一切伝わりません
その日、私は生まれて初めて、人生で一番大事な匂いを嗅いだ。
古い紙と、インクと、少し冷めた紅茶の匂い。その奥に、雨上がりの草原のような匂いがひとすじ混じっていた。吸い込んだ瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
頭の上で、耳がぴんと立った。私の意思とは関係なく。
(……え?)
アルセリオ王国、王宮外務局の第三執務室。獣人自治区から派遣された連絡官として、今日から私が働く場所だ。
「今日から来てもらう、獣人自治区の連絡官のミルテ・ハーゼル殿だ。ハーゼル殿、あれがローウェル。君の指導役になる」
局長のグスタフ・ベルネ様が、部屋の奥を指さした。
そこには書類の山があった。山の向こうから、眼鏡をかけた男の人が顔を上げる。
暗い栗色の髪に、少し寝癖がついている。目元は穏やかだけれど、口元はきゅっと結ばれていた。いかにも真面目そうで、いかにも人間らしい人だった。
「……セドリック・ローウェルです。よろしくお願いします、ハーゼル殿」
その人が立ち上がった拍子に、匂いがもう一度ふわりと届いた。
膝から力が抜けそうになった。
(この人だ)
(この人が、私の番だ)
兎族の母が昔、話してくれたことがある。番に出会えば、匂いだけで分かるのだと。理屈ではなく、体のいちばん奥が勝手に分かってしまうのだと。
まさか、人間だなんて。
「ハーゼル殿? 具合でも悪いのですか」
「い、いえっ! ミルテ・ハーゼルです! よろしくお願いします!」
声が裏返った。おまけに足が勝手に、ぴょん、と小さく跳ねた。
ローウェル様は私の足元を見て、それから天井を見上げた。
「……床が古いので、跳ねるときは気をつけてください。三年前に一人、床板を踏み抜いています」
それだけ言って、また書類の山の向こうへ戻っていった。
私の耳は、ぴんと立ったままだった。
その夜、宿舎で姉のリュシーに手紙を書いた。
番を見つけたこと。相手が人間の文官であること。眼鏡をかけていて、寝癖があって、床の心配をしてくれたこと。
五日後に返事が届いた。
『ミルテへ
おめでとう! まさかあなたが一番に番を見つけるなんてね。お母さんもおばあさまも大喜びよ。
相手が人間だと聞いて、少し驚いたけれど、心配はしていないわ。だって、あなたは小さい頃から誰よりも熱心に、兎族の作法を教わってきたもの。
朝露のクローバーを毎朝届けること。
身なりを整えてあげること。
嬉しいときは隠さずに跳ねること。
鼻先を寄せて匂いを覚えること。
あなたなら、きっと一つずつ丁寧にできる。
人間には番の匂いがわからないそうだけれど、気持ちを込めた作法はちゃんと伝わるものよ。焦らず、あなたらしく、心を込めて続けなさい。
そして、最後の贈り物は、ここぞというときまで大事にとっておくのよ。
ひとつだけ。三月の掟は、ちゃんと覚えておいてね。番を見つけた日から九十日。追い詰めないことも、兎族の大切な作法だから。
でも、あなたならきっと大丈夫。良い知らせを待っています。
リュシー』
私は手紙を三回読み返して、枕に顔をうずめた。
きっと大丈夫。姉さんの字が、何度も胸の中で跳ねた。
九十日。
十分だと思った。そのときは、まだ。
翌朝、私は誰よりも早く執務室に入った。
宿舎の裏の草地で摘んだクローバーを一本、ローウェル様の机の真ん中に置く。葉の先に朝露が光っていた。三つ葉の、いちばん形のいいものを選んだ。
扉の陰で待っていると、やがて足音が近づいてきた。
ローウェル様は机の前で立ち止まった。クローバーを見下ろし、しばらく動かなかった。
(気づいた? 気づいた?)
耳がぴくぴく動く。
やがてローウェル様は、隅にあったガラスのペン立てからペンを全部抜いて、水差しの水を注いだ。そしてそこへ、クローバーをそっと挿した。
それから振り返り、扉の陰の私を見つけた。
「おはようございます、ハーゼル殿。これはあなたが?」
「はいっ!」
「ありがとうございます。ご親切に」
ローウェル様は小さく頭を下げて、椅子に座った。
……ご親切に。
私は自分の席に着いて、両手で耳を押さえた。垂れそうになるのを、どうにかこらえる。
(まだ一日目だもの)
朝露のクローバーの意味を、人間が知っているはずがない。それは分かっていた。分かっていたけれど。
二日目も、三日目も、クローバーを置いた。
ローウェル様は毎朝、それをガラスのペン立てに挿した。前の日のクローバーはいつの間にか消えていた。捨てているのだろう。仕方ない。草なのだから。
「ありがとうございます、ハーゼル殿。ご親切に」
返事は毎朝、一字一句同じだった。
七日目、私は作法の二番目に進んだ。
ローウェル様の寝癖は、毎日違う場所に跳ねている。今日は左の耳の上だった。
「ローウェル様、少し失礼します」
「はい?」
手を伸ばして、跳ねた髪を指先で撫でつけた。ついでに、曲がっていたシャツの襟も整える。
兎族にとって、相手の毛並みを整えるのは特別なことだ。あなたを大切にしたい、あなたのそばにいたい。その気持ちを、言葉より先に指で伝える。
ローウェル様は少しのあいだ固まっていた。
「……すみません。だらしなくて。助かります」
そう言って、自分でも襟を引っ張って確かめていた。
助かります。
私の耳が、ほんの少し垂れた。
向かいの席では、先輩文官のマルクさんが書類で顔を隠して肩を震わせていた。奥の局長室からは、グスタフ局長の大きな咳払いが聞こえた。
十五日目、ローウェル様が隣国との通商条約の素案を通した。半年かけた案件だったらしい。
局長に褒められて戻ってきたローウェル様を見て、私は嬉しくてたまらなくなった。気づいたときには、隣で三回跳ねていた。
作法の三番目だ。嬉しいときは隠さず、隣で跳ねて見せること。
ローウェル様は私を見て、それから床を見た。
「……ハーゼル殿。お気持ちは嬉しいのですが、そこは三年前に踏み抜いた場所の隣です」
「ひゃっ!?」
慌てて飛びのいた私の腕を、ローウェル様が軽く引いて支えてくれた。
「床板の張り替え申請を、もう一度出しておきます」
そう言って、本当にその日のうちに申請書を書いていた。
優しい人なのだと思う。
重い書類箱を運ぼうとすれば、何も言わずに半分持ってくれる。私が大きな音が苦手だと知ってからは、扉を閉めるときに音を立てなくなった。雷の日には、さりげなく窓のカーテンを引いてくれた。
でも、それはきっと、誰にでもそうなのだ。
この人は、真面目で親切な人だから。
三十日目、作法の四番目を試した。
資料を確認するふりをして、ローウェル様の肩口にそっと鼻先を寄せる。番の匂いを覚えるための仕草で、兎族の恋人同士なら毎日するものだ。
雨上がりの草原の匂いがした。
ローウェル様の背中が、ぴしっと伸びた。
「……インクの匂いが気になりますか。すみません、今朝こぼしてしまって」
そう言って立ち上がり、窓を大きく開けた。
秋の風が吹き込んで、机の上の書類が何枚か舞い上がった。ローウェル様はそれを慌てて拾い集めていた。
私はその背中を見ながら、ゆっくり自分の席に戻った。
耳は、もう押さえても戻らなかった。
その日の帰り際、局長室の前でグスタフ局長に呼び止められた。
「ハーゼル殿。仕事には慣れたかね」
「はい。ローウェル様が、とても親切にしてくださいます」
「親切、ねえ」
局長はなぜか遠い目をして、顎ひげを撫でた。
「あれは昔から、大事なことほど遠回りする男でね。まあ……もう少し待ってやってくれ」
「……はい?」
どういう意味ですか、と聞く前に、局長は部屋へ引っ込んでしまった。
執務室に戻ると、ローウェル様の机の上には分厚い紙の束が積まれていた。表紙には『起案書』と書いてある。私が近づくと、ローウェル様はそっとそれを裏返した。
「まだお仕事ですか?」
「ええ、少し。個人的に進めている案件がありまして」
横には封をした手紙が一通あった。宛先の印章は、私の故郷である獣人自治区のものだった。
(自治区との仕事も、ローウェル様が担当しているんだ)
そう思っただけだった。
六十日目。
その人は、香水の匂いと一緒に執務室へやってきた。
「セドリック様、お久しぶりですわ」
ヘンリエッタ・ブラム様。外務局に出入りしている子爵家のご令嬢だ。蜂蜜色の巻き髪に、高そうな扇子を持っている。
ローウェル様の家と縁談の話が出ているらしい、と先輩たちが噂していた。
「ブラム嬢。今日はどういったご用件でしょう」
「父の使いですわ。……あら」
ヘンリエッタ様の目が、ペン立てのクローバーに止まった。それから、隣の席の私の耳に。
「まあ、本当でしたのね。獣人の連絡官が、毎朝セドリック様の机に雑草を置いているというお話」
くすくすと、扇子の陰で笑う声がした。
「兎の求愛だそうね。草を運んで、毛づくろいをして、ぴょんぴょん跳ねて。可愛らしいこと。……でも、獣の真似ごとが人間に通じると思って?」
顔がかっと熱くなった。
耳が、ぺたりと頭に張りついた。
言い返す言葉が見つからなかった。だって、その通りだったから。六十日のあいだ、何ひとつ通じていないのだから。
「ブラム嬢」
ローウェル様の声は、いつもと変わらず穏やかだった。
「ご用件が父君のお使いでしたら、局長室へどうぞ。それから、縁談の件は先月お断りしたはずです。父君にもそうお伝えください」
ヘンリエッタ様の扇子が止まった。
「……ずいぶんと冷たいのですね」
「仕事中ですので」
ローウェル様はそれだけ言って、書類に目を落とした。ヘンリエッタ様は唇を噛み、香水の匂いを残して出ていった。
私はうつむいたまま、膝の上で両手を握っていた。
かばってくれた、のだと思う。けれど、ローウェル様は一度も「獣の真似ごとではない」とは言わなかった。
当たり前だ。ローウェル様にとって、あれはただの草なのだから。
八十日目に、リュシー姉さんから手紙が届いた。
『ミルテへ
あと十日ね。
まだ届いていないのなら、最後の贈り物を考えなさい。あれは返事を求めるものじゃないの。届かなくても、自分の気持ちをちゃんと形にして渡したという証になる。
里で待っています。どちらの結果でも。
追伸 最近、里に珍しいお客様から手紙が届いたの。詳しくは、また今度ね。 リュシー』
珍しいお客様が誰なのか、そのときの私に気にする余裕はなかった。
その夜から、私は眠る時間を削って糸を紡いだ。
兎族は季節の変わり目に毛が抜け替わる。抜けた毛を集めて、一本ずつ指で撚って糸にする。淡い灰色の、柔らかくて温かい糸だ。
それを編み棒で、少しずつ編んでいく。
自分の毛で編んだものは、兎族にとって巣の一部だ。あなたと巣を共にしたい。あなたを一生温めたい。そういう意味の贈り物で、生涯で一人にしか贈ってはいけない。
編みながら、何度も手が止まった。
(受け取ってもらえなくても、いい)
(ううん、本当はよくない。でも)
(せめて、この冬だけでも、ローウェル様が寒くないように)
八十九日目の夕方、執務室にはもう二人しか残っていなかった。
「ローウェル様」
声が震えないように、お腹に力を入れた。
「これ、受け取ってください」
紙で包んだ襟巻きを差し出す。ローウェル様は書類から顔を上げ、それを見て、少しのあいだ黙っていた。
包みを開くと、淡い灰色の襟巻きが夕日を受けて、銀色に光った。
「……あなたが編んだのですか」
「はい。兎族は、自分の毛から糸を紡げるので」
言ってから、しまったと思った。自分の毛で編んだなんて、人間からすれば気味が悪いかもしれない。
けれどローウェル様は、襟巻きをそっと持ち上げて、指先で一度だけ撫でた。
ずいぶん長い時間、そうしていた気がした。
「……とても、温かいですね」
眼鏡の奥の目が、少しだけ細くなった。
「ありがとうございます、ハーゼル殿。大切にします」
ご親切に、とは言われなかった。
けれどそれ以上の言葉も、なかった。
「はい。……お先に失礼します」
私は笑って頭を下げた。ちゃんと笑えていたと思う。
宿舎に帰るまで、一度も振り返らなかった。部屋の扉を閉めてから、ようやく泣いた。
耳を両手で抱えて、声を殺して泣いた。
それから涙を拭いて、机に向かった。
局長宛ての帰郷届。ペンを持つ手が、何度も止まった。
連絡官の任期は、まだ二年以上残っている。自治区との連絡役が急にいなくなれば、外務局の仕事は滞る。後任が来るまで、きっとグスタフ局長にも、先輩たちにも迷惑がかかる。
配属の日、局長は「長く頼むよ」と笑ってくれた。マルクさんは、分からないことは何でも聞けと言ってくれた。
その人たちに、こんな形で背を向けるのだ。
(ごめんなさい)
(自分勝手なのは、分かってる)
でも、もう無理だった。
明日の朝も、執務室に行けば、ローウェル様がいる。寝癖をつけて、眼鏡を押し上げて、穏やかな声で「おはようございます」と言ってくれる。
その隣で、番だと知っているのに、ただの同僚の顔をして座り続けるなんて。
毎朝あの匂いを嗅いで、手を伸ばしたくなるのをこらえて、それでも何も届かないまま、何年も。
いつかヘンリエッタ様のような人間のご令嬢が、ローウェル様の隣に立つのを見ることになるのかもしれない。それを、笑って祝福しなければならないのかもしれない。
想像しただけで、胸が裂けそうだった。
それに、九十日を過ぎても求愛をやめられなければ、きっと私は、ローウェル様を困らせてしまう。優しい人だから、断ることもできずに、困った顔で「ご親切に」と言い続けるのだろう。
そんな顔は、させたくなかった。
ペンを握り直して、最後まで書いた。
『一身上の都合により、獣人自治区へ帰郷いたします。急なお願いとなり、多大なご迷惑をおかけしますこと、心よりお詫び申し上げます。』
一身上の都合。
この四文字の中に、九十日分の気持ちを全部押しこんだ。
明日で九十日。
掟は、守らなければならない。番を追い詰めないために。
大好きな人を、困らせないために。
九十日目の朝、私は初めてクローバーを摘まなかった。
まとめた荷物を持って、王宮の東門へ向かう。帰郷届は、昨夜のうちに局長室の扉の下へ差し込んでおいた。お世話になった方々に挨拶をすべきだったけれど、執務室には行けなかった。ローウェル様の顔を見たら、また泣いてしまう。
朝の東門は、出入りの商人や馬車でにぎわっていた。
「あら」
聞き覚えのある声に、足が止まった。
門の脇に停まった馬車から、ヘンリエッタ様が降りてくるところだった。私の荷物を見て、扇子の陰で目を細める。
「お帰りになるの? 賢明ですわね。人間と獣人では、もともと住む世界が――」
「ハーゼル殿!」
ヘンリエッタ様の声を遮って、私の名前が響いた。
振り返ると、門へ続く石畳を、誰かが走ってくる。
ローウェル様だった。
髪は寝癖だらけで、眼鏡は少しずれていて、上着のボタンは一つ掛け違っている。走り慣れていないのが一目で分かる、不格好な走り方だった。
そして首には、淡い灰色の襟巻きが巻かれていた。
「……ローウェル様?」
ローウェル様は私の前で立ち止まり、膝に手をついて、しばらく肩で息をしていた。
「間に合った……。九十日目の、日没までには、と思っていたのですが……局長室に、届が……」
「え?」
「すみません。息を、整えます」
ローウェル様は大きく一度息を吸って、ずれた眼鏡を押し上げた。それから、上着の内側から一冊の手帳を取り出した。
表紙を開く。
中には、押し花が並んでいた。
三つ葉のクローバー。一ページに三本ずつ、丁寧に貼りつけられている。その横に、小さな字で日付が書いてあった。
一日目。二日目。三日目……。
「……八十九本、あります」
ローウェル様が静かに言った。
「捨てたことは、一度もありません」
声が出なかった。
ペン立てから消えていたクローバー。毎日、捨てられているのだと思っていた。
「どう、して……」
「ハーゼル殿。外務局が獣人自治区との交渉で使っている、『獣人慣習の手引き』をご存じですか」
「は、はい。配属のときに読みました」
「兎族の章を書いたのは、私です」
頭の中が、真っ白になった。
「朝露のクローバーの意味も。身なりを整える意味も。隣で跳ねる意味も、鼻先を寄せる意味も。……自分の毛で編んだ贈り物が、生涯に一度きりのものだということも」
ローウェル様は、首元の襟巻きにそっと触れた。
「全部、知っていました。一日目の朝から」
「じゃ、じゃあ、どうして……! ずっと、ご親切にって……!」
声が裏返った。視界がにじむ。
ローウェル様は、少しだけ困ったように眉を下げた。
「兎族の作法には、受け入れる側の返し方もありますね。同じようにクローバーを一本返せば、それで番の契りは結ばれる。……私が書いた手引きにも、そう書きました」
「……はい」
「でも、私は人間です」
ローウェル様は、まっすぐに私を見た。
「人間には、番の匂いがわかりません。あなたが私に感じてくれたものを、私は感じることができない。その私が、あなたの作法をなぞってクローバーを返したら……私の気持ちまで、借り物になってしまう気がしたんです」
そう言って、手帳を閉じた。
「だから、人間のやり方で返そうと決めました。人間の求婚は、相手の家に許しを請うところから始まります」
上着の内側から、今度は一通の手紙が出てきた。獣人自治区の印章。そして、見覚えのある祖母の署名。
「兎族の長に、正式にご挨拶の手紙を送りました。お返事をいただいたのは、四十日目です」
「おばあさまに……!?」
リュシー姉さんの手紙にあった「珍しいお客様」が、頭をよぎった。
(姉さん、知ってたの……!?)
「それから、これを」
最後に出てきたのは、王宮の紋章が押された書類だった。
「人間と獣人の婚姻には、これまで王宮の許可が必要でした。審査に一年以上かかります。その間、獣人の側は自治区へ戻らなければならない決まりでした」
知らなかった。
ということは、もし九十日目より前に想いが通じていたとしても、私は一度里へ帰らなければならなかったのだ。
「その手続きを、届出だけで済むように改める起案を出していました。……承認されたのは、昨夜です。あなたから襟巻きをいただいた日の、夜でした」
ローウェル様は、照れたように視線をそらした。
「あの場で、お返事をしたかった。けれど、承認が下りるかどうか、まだ分からなかったんです。中途半端な約束をして、あなたを一年も待たせるわけにはいかなかった」
毎晩遅くまで机に向かっていた背中。裏返された『起案書』。自治区宛ての手紙。
全部、全部。
「……ずるいです」
涙がぼろぼろこぼれた。
「私、九十日、ずっと、届いてないって……」
「はい。すみません」
「ご親切にって言われるたびに、耳が……」
「はい。毎朝、あなたの耳が垂れるのを見ているのが、一番つらかった」
ローウェル様は、石畳に片膝をついた。
周りの人たちが足を止める気配がした。ヘンリエッタ様が、扇子を取り落とす音がした。
ローウェル様は小さな箱を開いた。中には細い銀の指輪が収まっていた。小さな緑の石が、三つ葉の形に並んでいる。
「ミルテ・ハーゼル殿」
初めて、名前を呼ばれた。
「人間には、番がわかりません。ですから私は、あなたを自分で選びました。……匂いでも、本能でもなく。毎朝、朝露に濡れた指でクローバーを置いてくれるあなたを。私の寝癖を直すとき、少しだけ背伸びをするあなたを。嬉しいと、隠しきれずに跳ねてしまうあなたを」
眼鏡の奥の目が、少しだけ揺れていた。
「私と、結婚していただけますか」
返事をする前に、足が勝手に跳ねていた。
生まれてから一番高く跳んだと思う。そのまま、ローウェル様の胸に飛び込んだ。
ローウェル様はよろけながらも、しっかりと私を受け止めてくれた。
「は、はいっ……! はい、はい……!」
「……はい、は一回で十分です」
耳元で、笑う声がした。初めて聞く声だった。
雨上がりの草原の匂いが、胸いっぱいに広がった。
しばらくそうしていると、ローウェル様が私の左手を取り、薬指に指輪をはめてくれた。それから上着のポケットを探って、何かを取り出した。
一本の、三つ葉のクローバーだった。
葉の先に、朝露が光っている。
「それから、これは兎族のやり方で」
私の手のひらに、そっと載せられる。
「今朝、宿舎の裏の草地で摘みました。あなたがいつも摘んでいる場所だと、局長に教わったので」
「…………っ」
人間のやり方と、兎族のやり方。
この人は、両方で返事をしてくれたのだ。
視界の端で、ヘンリエッタ様が何か言おうとして口を開いた。ローウェル様は私を抱えたまま、静かにそちらを向いた。
「ブラム嬢。先日、獣の真似ごととおっしゃいましたね」
「わ、わたくしは別に……」
「私には、九十日間、毎朝この国で一番誠実な言葉をいただいていたとしか思えません。……失礼します。婚姻の届出に行きますので」
ヘンリエッタ様は真っ赤になって扇子を拾い、逃げるように馬車へ戻っていった。
ローウェル様は、私の荷物を軽々と持ち上げた。
「帰郷届は、局長が処分しておくと言っていました。……戻りましょう、ミルテ」
名前を呼ばれるたびに、耳がぴんと立った。
もう、押さえる必要はなかった。
【セドリック視点】
一日目の朝のことは、今でもよく覚えている。
執務室に入ると、机の真ん中に、朝露のついたクローバーが一本置かれていた。
私は息を止めた。
自分で書いた手引きの一文が、頭の中に浮かんだ。兎族における求愛の第一段階、朝露を帯びた三つ葉を、相手の目に入る場所へ置く。
まさか、と思った。
前の日、彼女が執務室に入ってきた瞬間、長い耳がぴんと立ったのは見ていた。手引きの別の章には、兎族が番と出会ったときの反応も書いてある。耳が意思と関係なく立つ、と。
そのときは、気のせいだと思うことにした。私のような面白みのない文官に、そんなことが起きるはずがない、と。
けれど、クローバーは確かにそこにあった。
扉の陰から、灰色の耳の先がのぞいていた。ぴくぴくと、落ち着きなく動いていた。
ペン立てのペンを全部抜いて、水を注いだのは、ほとんど反射だった。
「ありがとうございます。ご親切に」
そう言うのが、精一杯だった。
それ以上何か言えば、声が震えると分かっていたから。
その夜、局長に呼び出された。
「ローウェル。お前、気づいてるだろう」
「……何のことでしょう」
「兎族の章を書いたのはお前だ。とぼけるな」
観念して、すべて話した。
人間には番が分からないこと。それでも、私は彼女に惹かれていること。正確に言えば、その朝クローバーを見下ろしていた数十秒のあいだに、すっかり惹かれてしまったこと。
そして、人間と獣人の婚姻には一年以上の審査が必要なこと。その間、彼女を自治区へ帰さなければならないこと。
「なら、変えればいい」
局長は事もなげに言った。
「お前は文官だろう。気に入らない決まりがあるなら、起案しろ。……兎族の掟は九十日だったか。間に合わせろよ」
それからの九十日は、人生で一番長かった。
毎朝クローバーを受け取るたびに、同じものを返したくなった。それで済むのだと、自分が一番よく知っていた。
寝癖を直してもらうたびに、その手を握りたくなった。
隣で彼女が跳ねるたびに、床の心配をするふりをして、どうにか顔を作った。
鼻先を寄せられた日は、さすがに耐えきれず窓を開けた。書類が飛んだのは、我ながら情けなかったと思う。
そして、毎朝、彼女の耳が少しずつ垂れていくのを見ていた。
何度も、全部打ち明けてしまおうかと思った。けれど、承認が下りなければ、私の言葉はただの約束にしかならない。一年待ってほしいと言うことになる。
彼女を、待たせたくなかった。
八十九日目の夕方、襟巻きを手に取ったとき、本当に手が震えた。
淡い灰色の糸は、彼女の耳と同じ色をしていた。この一本一本を、彼女は夜ごと指で撚ったのだ。私のために。
生涯に一度の贈り物。それを、私に。
「……とても、温かいですね」
それしか言えなかった自分を、その夜、何度も呪った。
承認の知らせが届いたのは、深夜だった。局長が自ら宿舎まで持ってきてくれた。
「行ってこい。……ああ、それから、帰郷届が扉の下に入っていた。日没どころか、朝一番に出ていくつもりらしいぞ」
あんなに走ったのは、子どもの頃以来だった。
今、私の机の上には、ガラスのペン立てが二つ並んでいる。
一つにはペン。もう一つには、今朝のクローバーが挿してある。
ミルテは結婚してからも、毎朝クローバーを摘んでくる。兎族の夫婦は一生そうするのだと、照れくさそうに教えてくれた。手引きには書いていなかったことだ。改訂のときに書き足そうと思う。
「おはようございます、セドリック様。今日のは、四つ葉です!」
灰色の耳が、ぴんと立っている。
私はクローバーを受け取り、ついでに、彼女が背伸びをして直してくれた襟を確かめる。
「ありがとうございます、ミルテ」
それから、九十日間ずっと言えなかった言葉を、今日も付け加える。
「愛しています」
彼女は真っ赤になって、隣で三回跳ねた。
(完)
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