第3話 告白は灰色の屋上で
放課後のグラウンドには、乾いた土の匂いと、部員たちの荒い呼気が充満していた。
私は金網越しに、サッカー部の練習を眺めていた。
いつもなら黄色い歓声を上げる女子生徒たちも、今日はどこか不穏な沈黙に包まれている。
視線の先には、一ノ瀬楓くんがいた。
エースナンバーを背負った彼が、パスを受けようと走る。完璧なタイミングだったはずだ。けれど、彼は足元のボールを空振りし、不格好にバランスを崩した。
「おい一ノ瀬! どこ見てんだよ!」
キャプテンの怒鳴り声が飛ぶ。
一ノ瀬くんは「すみません!」と頭を下げたが、その表情は蒼白だった。
その後もミスは続いた。
パスコースが見えていないような動き。味方と接触しそうになる危なっかしい挙動。かつてフィールドの王様のように輝いていた彼の姿は、そこにはなかった。
(やっぱり、見えてないんだ……)
私は金網を握りしめた。
冷たい金属の感触が、手のひらに食い込む。昨日の信号無視も、美術の授業での混乱も、すべて繋がっていく。
***
翌日の昼休み。
私は落ち込んでいた一ノ瀬くんを誘って、屋上へと続く階段を上った。
普段は立ち入り禁止だけれど、部活で使うと言って鍵を借りてきた。
重い鉄の扉を開けると、そこには突き抜けるような青空が広がっていた。
視界いっぱいの青。白い雲が、悠々と流れていく。
風が強く、私の短い髪と、一ノ瀬くんのワイシャツをバタバタと揺らした。
「うわあ……すごいな。屋上って初めて来た」
一ノ瀬くんがフェンスに寄りかかり、空を見上げた。
その横顔があまりにも綺麗で、そして悲しそうで、私は胸が締め付けられた。
今しかない。
私は意を決して、ずっと聞きたかったことを口にした。
「ねえ、一ノ瀬くん」
「ん?」
「どうして……私と仲良くしてくれるの?」
風の音にかき消されそうな声だったけれど、彼には届いたようだった。
一ノ瀬くんはゆっくりと私の方を向き、寂しげに微笑んだ。
「変だよね。今までほとんど話したこともなかったのに」
「うん。……私なんかより、もっと可愛い子も、明るい子もたくさんいるのに」
「そんなことないよ」
彼は静かに首を振った。
そして、再び空へと視線を戻す。
「信じてもらえないかもしれないけど……ある朝起きたら、世界から色が消えていたんだ」
予想していた言葉だったけれど、彼自身の口から聞くと、心臓を直接掴まれたような衝撃があった。
「最初は夢だと思った。でも、学校に来ても、グラウンドに立っても、全部が昔の映画みたいに白黒なんだ。空の青さも、芝生の緑も、チームのユニフォームの色も、全部灰色になってしまった」
彼は自分の手をかざし、その指の隙間から太陽を見つめた。
「背景に溶け込んでしまって、距離感も掴めない。……サッカー、もう無理かもしれないな」
諦めを含んだ言葉が、乾いた風に乗って消えていく。
サッカー部のエースだった彼の未来が、音を立てて崩れ落ちていく音が聞こえるようだった。
私は言葉を失った。
かける言葉が見つからなかった。
その時、彼が私の目を見つめた。
モノクロの世界に閉じ込められた彼が、唯一、光を見つけたように。
「でもね、不思議なんだ。佐山さんのことだけは、ちゃんと色付きで見えるんだ」
彼はそっと手を伸ばし、私の頬に触れようとして、ためらいがちに止めた。
「君の黒い髪も、肌の色も、その制服のリボンも。佐山さんだけが、僕の世界で唯一、鮮やかなままなんだ。だからかな。君のそばにいると、気持ちが落ち着くんだ」
それは、この世で一番ロマンチックで、残酷な告白だった。
彼にとって、私は唯一の光。
私が特別だから?
違う。
その瞬間、私の脳裏に、あの薄暗い部室での光景がフラッシュバックした。
『一ノ瀬君と仲良くなれますように』
私が悪魔プチクロームに願った言葉。
あの時、魔術書にはなんと書いてあった?
恵麻が読み上げようとした注意書き。
『願いを叶えるには代償が必要であり――』
もし、その続きがこうだったら?
『望む形を実現するために、対象から他のすべてを奪う』
私が「彼と親密になりたい」と願ったから。
悪魔は、彼が私以外を見られないようにしたのだ。彼から世界中の色を奪い、私だけしか認識できないように世界を改変した。
強制的な依存。
逃げ場のない檻。
(私のせいだ……)
喜びなんてものは、一瞬で消え失せた。
代わりに、氷のような恐怖が全身を駆け巡る。
私が、彼からサッカーを奪った。
私が、彼から空の青さを奪った。
私が――
「佐山さん? 顔色が悪いよ」
一ノ瀬くんが心配そうに覗き込んでくる。
その瞳には、私だけが映っている。
彼の優しさが、今は何よりも痛い。
それは愛情なんかじゃない。
私の呪いが生み出した、歪な執着だ。
私は震える唇を噛み締めた。
この「恋」は、始めてはいけないものだったのだ。




