動物園の出来事
平日でも、家族連れで賑わう様な動物園である。
今日は昼近くだというのに、子供も、大人の姿もない。ただ、遠くから動物の鳴き声、鳥の囀りが園内に響いていた。
外木場陽一の担当は豹である。豹の名前は、アオと言う。
外木場は、アオを獣舎から外に出して獸舎の中を掃除していた。
アオは、時たま欠伸をしては、そぞろに歩いていた。
外木場は掃除を終えると、飼料の用意をするため調理場に入ってきた。
「よお、陽ちゃん。掃除終ったか」
先に中に入っていた内田が声を掛けてきた。
「ああ」とだけ言って外木場は、冷蔵庫を開けた。中から一抱えある袋を取り出すと、調理台の下に置いた。
外木場は、袋から肉の固まりを取り出すと、包丁で切り出した。
「凄いな陽ちゃん。馬の肉か」
内田が肉を見て言った。
「ああ、阪神の知り合いの伝で、厩舎に頼み込んで分けてもらった」
外木場は、肉をトレイに入れながら応えた。
アオは、生まれた時は体が弱く、直ぐに人工保育に切り替えて、外木場が育てた。
赤ちゃんの頃は、外木場の膝の上で
哺乳瓶でミルクをあげた。小さいアオは、猫の様で鳴き声は猫よりも太い声でないていた。
甘えてきては、座っている外木場の頭を噛った。
アオの食事を用意しながら、外木場は、アオの小さい頃のことを思い出していた。
肉をトレイに入れ終わると、外木場は、鍵の懸かった戸棚の方に行った。
鍵を開けて、中から黒いガラスの瓶を取り出すと、それをじっと見た。
調理台の上にそれを置くとしばらく動かなかった。
顔が強張っていた。
瓶のふたをあけると中の粉を肉に振り掛けて、手をつっこんで混ぜ込んだ。
粉は、硝酸ストリキニーネ、猛毒である。食べると、体が硬直し手足が伸びきって爪がとび出る。そして、苦しんで死ぬ。
内田は、背後から見てて、外木場が感情を押し殺し、作業をこなしているのがわかった。
「じゃあ、行ってくる」
そう言葉を残すと外木場は、トレイを持って調理場を出ていった。
アオは、獸舎の外で寝そべっていた。ふと、頭をもたげて獸舎との出入り口の方に顔を向けた。
獸舎の中では、外木場が先ほど洗浄した床にアオの食事のトレイを置いていた。
外木場は、獸舎から出ると、外との出入口を上げるハンドルに手を掛けた。そして、両手でハンドルを握り締めると力を入れて回した。
アオはそれに気付くと戸の前に駆け寄った。
外木場は、アオが戸の前に立っている事は分かっていた。
出入口が少しずつ上がっていくと、やがてアオの足が見えてきた。
外木場は、何も考えない様にして淡々とハンドルを回していたが、アオの足が見えると、一気に現実に引き戻された。堪えきれずに涙が溢れた。
これから、アオに起こることは容易に想像できた。手を止めたいが止める事が出来ない。
先日、東京に空襲があった。もう、待った無しの状況なのだ。
外木場は、何とか手を動かし続けた。その背中は、震えていた。
戸が全部上がりきる前に、アオは身を屈めて中に入って来た。
外木場を見て、小さく吠えると食事の入ったトレイに近づいて、中を覗き込んだ。
外木場は、心の中で叫んでいた。
「食べるな」
「アオ、食べるな」
1944年第二次世界大戦の末期、空襲で猛獣が動物園から逃げ出した場合を考えて、各地の動物園、遊園地に猛獣を殺す様に要請が出された。
それを受けて各地の自治体は、動物を処分する事を決定し、余多の動物が日本全国で殺された。
話しは、フィクションですが、モデルにした豹は、実在して、その豹は匂いを嗅いで、毒入りの餌を食べませんでした。
しかし、ロープで首を締め殺す事になったのですが、飼育員の方は出来ずに他の人が締め殺しました。
その豹の剥製は、今も残っています。