【福祉エッセイ】 虹の七色をご存じですか?
☆ プロローグ
「虹の7色って、なに色って、全部知ってる?」
娘が、学校で聞いてきたらしいです。
赤、青、黄色、と、その間の、橙、緑、紫。
私は、その6色 しか答えられませんでした。
☆ グレーのグラデーション
よく聴くラジオ番組にレギュラー出演されている漫才師、 漫才の時は流暢なのに、フリートークや初見の原稿を読む時に必ずと言っていいほど 『噛む』方がいます。
番組では『噛む』のが当たり前になっていて、他の出演者の愛のある?突っ込みで、楽しい笑いに仕上がっています。
リスナーも、その方が『噛む』のを期待して、『カミ様』のしゃべりを楽しみにしています。
ちょっと違えたら、イジメの原因になりかねない『滑舌の悪さ』を、ちゃんと楽しい『笑い』に持っていく関西風の合理的配慮には、回りの人たちの理解、『愛』が必要かもしれません。
関西出身のフリーアナウンサーで、『スキップがぎこちない』、でも、クレバーなしゃべりと『スキップ』のどんくささとの ギャップが親しみを呼び『スキップ』がプラスの作用です。
友達ができない、学校へ行けない、滑舌が悪い、忘れ物が多い、落ち着きがない、片付けができない、蝶結びができない …
昨今、『発達障害』 や 『グレーゾーン』 をよく耳にします。
曖昧だから と枠組みやゾーン分けはとても日本的で、『準』のラベルを貼っても、分けられる方たちにとって、プラスはありません。
『障害者枠』と健常者の境界線が、検査等によって色濃く引かれている現実で、少しでも境界線をグレーに滲ませて、なにかの支援を得るため 仕方ないかもしれませんが
白 ⇒ グレー ➡ 黒
の グラデーションも、そのうち 『階層』 ができるでしょう。
現実の大きな問題として『障害者枠』に入っていないと『グレー』だけでは、まともな合理的配慮や支援が 受けられない状況です。
教育現場では、療育手帳等の手形が有ると無いとでは大違い。
まだ障がいが有るかわからない段階や、そんな手形が受けられなかった場合の、支援や合理的配慮を受けるに至るまでの道のりは暗澹としています。
教員経験の長い方でさえ 『合理的配慮』とは、検査、診断を受けて『障害者』と認められた子に対してだけ行うものと認識している方も多いようです。
☆ ☆ ☆
なんかうちの子、違う、手がかかる… どしたらエエねん?
問題児? 誰に相談したら? 一番不安な頃なのに
オレの子が障害者なんてありえん! お前の血筋ちゃう?
とか言う夫がいたり、
親の教育が悪いんちゃう? と言う姑がいたり、
発達障害?根性が曲がっとんのとちゃう? と言う舅や、
放っといたら、なんとかなるんちゃう? なんて言う近所のおばさんもいたりして、
でも、そんな中でも
やっぱり診断受けさせてあげんと、アカンのとちゃうやろか?
やっとの思いで検査申し込んでも 何ヵ月も待たなアカン、って言われて、やきもき。
そうこうしてるうちに、担任の先生から毎日のように苦情の電話かかってくるし、
本人は、学校行きたいけど、行ことすると、しんどなんねん…
なんて訳のわからんこと言い出すし、家では荒れるし…
で、ようやっとスクールカウンセラーと名乗る人がやって来て…
もう、本人だけでなくて、お母さんのメンタルまでボロボロ…
(注・フィクションです)
悲惨な現実が、ゴロゴロしてそうです。
☆ 保護者・支援者の落とし穴
そんなこと、連絡帳に書いておいてくれたらいいのに!
些細でも、ほぼ毎日、時間もお構い無しで、親に苦情の電話をかけてくる、仕事熱心とはちょっと違う、そういう先生がいます。
これが、障がいのある我が子の担任がそういう先生になったら、お母さんは地獄のような日々が続きます。
ちょいちょい、耳にする話です。
毎日謝ってばかりだと、そのうち、お母さんの心は壊れてしまいます。
お母さんの気持ち、お子さんは敏感に感じとり、ますます学校が嫌いになります。
お母さんは、お子さんが、だんだんキライに、疎ましくなってきます。
負のスパイラルです。
この、負のスパイラルを絶つには、どうすれば良い?
「とりあえず、先生に、あやまらない」 からおススメします。
決して、モンスターになれとは言ってません。
先生から電話がかかってきたら、
「いつも、ご連絡いただき、ありがとうございます」
と感謝の言葉だけは忘れずに。
そして、少し辛抱して、用件を聞きましょう。
「先生は、どんな対応をしていただいたのですか?」
謝る前に、先生がわが子にした対応を訊ねてみましょう。
おおよそ、そういう先生は要領が悪く独りよがり、仕事のキャパがオーバーしており、生徒の信頼を得るのが苦手です。
親が謝っている(謝らせている)んだから「自分は正しい」と勘違い、打開策を見つけられずに、自身の安心のために、親の謝罪ばかり求めるようになっています。
先生自身も、自分の限界がわからず、助けも求められず、一人で苦しんでいるのです。
個々の先生の能力の限界はまちまち、先生への個々のフォロー体制を整えるしか、解決方法は ないのかもしれません。
☆ ☆ ☆
もう、15年以上前の話です。
知的障がいのある娘が、公立の保育園を追い出されたとき、 一時保育という形でしたが、なんとか受け入れてくれた
私立の保育園の園長先生に、
「ご迷惑をおかけします 」 とお願いした時
「 迷惑やなんて、思っていません!
お父さんがあやまってばっかりでは、娘さん、かわいそうです。
娘さんが、ウチに来ることは、アカンことやありません!」
強い口調で叱られました。 園長先生には、感謝しています。
それまで娘で謝っていたのを 「ありがとう」 と言い換えるように心がけました。
するとほとんどが、言い換えても全然おかしくない、むしろ感謝した方がとても自然なのです。
『ごめんなさい』 ⇒ 『ありがとう』
何より、気持ちがずいぶんと軽くなりました。
☆ ☆ ☆
娘が発達障害かも…?の頃、「何とか研究所」の検査キットで、髪の毛の水銀量を測りました。
「何とか研究所」が言うには、
⇒脳の情報伝達を司る神経が水銀などの有害物質によって阻害されている ⇒ 検査しましょう
⇒ 「こんなに水銀が!」
結果数値を見せられても、異常値と言われても、その数値が何と比べて多いのか、普通なのかはわかりません。
⇒ 有害物質を除去すれば自閉症が改善します
で、『自閉症が治った!事例集』と共に薦めてきたのが 『セレン』のアプリでした。
セレンは必須ミネラルで、神経伝達系、甲状腺ホルモンの活性化に必須ですが接種は微量でよく、毒性が強いので過剰摂取は危険。
あえてサプリで摂らなくても、普段の食事で支障なく、不足が問題になることはほとんどありません。
発達障害かも?の不安な時期を狙う業者もいます。
「何とか療法」 「自閉症に効くサプリ」 …
『自閉症が治った!』のコピーを掲げている勧誘や販売は、無視するか、初めから疑ってかかった方が良いでしょう。
騙されないでくださいね。
☆ ☆ ☆
私は、ゆで卵は塩がないと咽返りますが、だからといって、塩をかけ過ぎたら、食べられたものではありません。
塩は、人間が生きていく上で、必須。
でも、摂りすぎが、生活習慣病の近道なのは周知の事実です。
メラトニンは睡眠調節するホルモン、 脳の松果体から分泌。
でも即、眠れんならサプリで!は避けた方が賢明です。
「体の中にあるもんやし害はないやろ、 サプリや催眠剤で、メラトニンいっぱい摂ったら 話が早いやんか」
サプリでずーっと摂り続けると、体の中のメラトニン職人に
「ワシらが作らんでも、あるんやったらエエか」
って、サボるやつが出でくるのだそうです。
そうなると、サプリが無いともう眠れない…
例えば、緊急事態で自粛要請があって、 給付金は特効薬みたいなもの、でも、事態がおさまってきて、それでも給付金もらい続けられるんなら、
「もう、 あくせく仕事せんでも、 いつでも貰えるんちゃうん?」
って、給付金を当てにして仕事辞めて、いざ給付金がもらえなくなったら、復活できなくなってしまってた…
サプリや薬の使い方、頃合いは、難しいもんですね。
大事なのは、さじ加減。
『たくさん摂ればいい』 は、 ほぼありません。
☆ ☆ ☆
ある中学の運動会での話です。
1年から3年まで、それぞれAからDの4クラスずつなので、縦割りで、A組チーム~D組チームの、4グループ対抗でした。
応援合戦は、その学校の名物です。
そのチームの応援練習の時、1年生の一人の女の子が、耳に手を当てて下を向いていました。
鉢巻をした3年生のリーダーは、他のみんなが大きな声で応援しているのに、何してるんだ!と、その子に怒鳴りました。
その女の子は、大きな音が苦手で、みんなの大きな声、太鼓の音、一生懸命ガマンしていたのです。
その女の子と同じ小学校の友達が、同じチームにいました。
友達は、女の子が大きな音が苦手なのを理解していたので、怒っているリーダーに女の子の聴覚過敏と、 決して応援したくないのではない、 むしろ一緒に応援したがっている と説明しました。
それなら! と
応援合戦の時だけ、女の子が音が大丈夫なくらいに 離れた所へ移動しての応援で、上級生もみんな納得したのです。
もし、その小学校からの友達がいなかったら、違う展開になっていたかもしれません。
小学校の時に、友達と一緒に過ごした時間が、女の子にとって、とても貴重だったのです。
そして、情報がしっかりみんなに伝わったなら、子供達だけでも、ちゃんと当たり前に「合理的配慮」です。
子供達だけなら、ちゃんとできても、 大人が加わると、
練習の時に、耳をふさいで蹲ってしまう子がいました
⇒ 残念ですが、その子は運動会を休ませましょう!
と、「安全のための配慮」を隠れ蓑に、厄介なことを排除する大人の事情を先行させ、その子の 『みんなと一緒に応援したい!』気持ちを無視した、歪んだ結果に終わってしまう…
往々にして起こります。
禁止する≠支援する
本人の意志を第一に考えるのが、重要なのではないでしょうか。
☆ ☆ ☆
昔、社会福祉士の研修で、障害者就B作業所の支援に。
他の利用者が作業をしている中、一人ウロウロ歩き回る男性利用者がいました。
彼は、作業場の端で、作業を見守っていた私の横に来て、立ち止まったので、近くにあった椅子を指して、
「座られますか?」
と声を掛けたら、彼はしばらく考えて、ひょいと座りました。
さて、作業時間が終わるや否や、その作業所のスタッフの女性の一人が、私のところへやってきて、「自閉症の扱いに、慣れてらっしゃるんですか?」 と。
聞けば、彼女はそこの支援者として働きだして1か月、ウロウロしていた彼には手を焼いていて、今まで作業中に歩き回ったとき、何回も座るように支援してきたが、これまで座ってくれたことが無かったそうです。
私が彼を、どのようにして座らせたのか? 教えてほしいと。
「ホントにたまたま、彼が座る気分だっただけでしょう。
私は、見守っていただけですよ 」
そう伝えると、幾分拍子抜けしたのか、でも、
「私の時は、そんなことさえもないです…」
教えること、障がい者に習得させること、それも支援ですが、障がい者に変化、成長が見込め無くても、支援は必要です。
教育≒支援… 教育=支援ではありません。
私は『見守り』が支援の基本と考えますが、せっかちな支援者は何かと結果を求めたがり 『見守り』を疎かにしがち、そして、空回り。
本人が機嫌ようしてるんやから エエやん…
も大事です。
安全が確保できているなら、維持もりっぱな支援です。
性急に成長を求めても、逆効果になる場合もありますから。
☆ ☆ ☆
昔、人気俳優が、閉所恐怖症をカミングアウトしていました。
バスに乗るときは、必ず窓際に座るそうです。
何年か前にも、サッカー選手が閉所恐怖症を告白、
『 飛行機が苦手で、飛行機に乗らなければならない時は、できるだけ、寝て過ごすようにしています…』
閉所恐怖症は不安障害の1つで、正確なデータは無いですが、 狭い空間に入るMRI検査を拒否する方の割合から、全人口の およそ5~10%方が閉所恐怖症だと言われています。
何もカミングアウトせずに、おとながバスで真っ先に窓際に座ったり、 飛行機で会話もせず、ひたすら寝ていたら、
「窓際ばっかり座ろうとして! 小っちゃい子どもか! 」とか「せっかく、あなたとゆっくり話ができる機会なのに、寝るなんて!」 と、思われてしまうでしょう。
自身が、閉所恐怖症の自覚のない人も、当然います。
まして、それが子どもで、自分の不安をうまく伝えられない子が、学校の遠足で、みんなでバスに乗る!場面で、やたらと窓際に座りたがり、乗り物酔いでもないのに、バスの中のクイズやゲームにやる気を見せなかったら、
「ちゃんとしなさい!」
と、理由も聞かずに、きつく叱る先生もいそうです。
そうなると、その子はクラスメートからも敬遠されるし…
生徒の個々の特性を掌握するのは、至難の業かもしれません。
教育者、支援者の方々には、『指導する!』オンリーから脱却し、『子供達を見守る!』を最優先に切り替えて、個々の特性を捉えていって欲しいです。
先ずは見守り支援から。
☆ ☆ ☆
放課後等デイサービスで、中一のAくんの下校を迎えに。
学校へ施設の送迎車で迎えに行くと、先生方がAくんを取り囲んでいます。
Aくんのパニックになる前の仕草が見えたので、急いで近くへ走り寄りました。
学校のスケジュールに、その日のデイサービス利用が抜けていて、学校の通学バスに乗せるため、先生方はAくんをバス乗場へ連れて行こうとしていました。
自分が行くのはデイサービス、でもAくんは、自分の思いを伝えられない知的障害、駆けつけた私を見つけて 両手を伸ばしてきました。
私は、とりあえず不安そうなAくんに
「一緒にデイサービスに行くよ!」
と声をかけ、先生にはデイサービスの利用予定を告げました。
まだ不安そうなAくんを連れて、デイサービスの送迎車へ向かおうとすると、 先ほどAくんを取り囲んでいたうちの一人、若い男の先生が駆けてきて、Aくんの前へ 立ちはだかりました。
「A!ごめんな!!」
Aくんが、またちょっと不安げな表情を見せたので、
「今から、デイサービスだよ!」
私は、再度、Aくんに伝えました。
残念ながら、若い男の先生のその『ごめんな!』 は、Aくんには届いていません。
パニック寸前のその時のAくんには、先生の『ごめんな!』 が、何の『ごめんな!』なのか? 理解できていないでしょう。
学校のミスを、Aくんに謝罪しようとの思いは尊いし、大事なことですが、結果は独りよがり、自己満足の押し付け。
Aくんのパニックを第一に防ごうとしていた私にとって、その『ごめんな!』は、邪魔でしかありませんでした。
☆ ☆ ☆
私は昔、小売業で働いていました。
ある年末、2日間、風邪で喉を痛めて声が出なくなりました。
職場では、仕方ないので、筆談で
「今日は声が出なくて 迷惑かけます ごめんなさい」
とメモ用紙に書き、その日のスタッフ達に見せてまわりました。
それを読んだスタッフの一人、私の書いたメモの下部へ
「今日は 事務所にいてくださいね」 と記してくれました。
優しいスタッフです。
でも私は、彼女が記してくれたさらに下に、
「君は しゃべって ええねんで 」 すぐに書き足しました。
相手が喋らないと、つい、こちらも喋ってはダメかな? と錯覚を招いてしまいます。
支援者の落とし穴。
発語が少ない、言葉の遅い子には、その支援にイラストや大きいアクションで視覚に訴えると、とても有効です。
ただ、視覚支援にばかり頼っていると、言語発信が疎かになります。
一方通行に感じても、言葉が届くよう心掛けていきたいです。
☆ ☆ ☆
何年か前、TVのバラエティ番組で取り上げられていました。
授業では使わないアイパッド(学校で配布されている)を授業中にいじっていた生徒から、アイパッドを取り上げた先生、怒った生徒が教壇まで先生を殴りに行った動画が SNSで話題になったニュース。
動画を観て、ほとんどのコメンテーターがその生徒に対して、先生に対して失礼な行為を
「けしからん!」
との非難の中、学習塾講師のコメンテーターが一人、殴られた先生の授業のレベルの低さを指摘していました。
講師は、「もちろん、暴力はもってのほかですが…」と前置き、アイパッドをいじっていた生徒も含め、撮影した生徒にとって、授業がつまらない、魅力のない内容ではないのか? と。
鋭い考察です。
教員経験はないので、世の先生方には失礼かもしれませんが、「教職は聖職」は、もう当たり前でないのかもしれません。
教壇からの授業は、授業という名の「パフォーマンス」、生徒を引き付ける魅力的な授業でなければならないと考えます。
例えば、落語家が、落語を演じている最中に、他の客には迷惑をかけていないけど落語を聞かず、アイフォンをいじる客がいたとて、その落語家は、その客の態度を批判するより、自分の芸の拙さを恥じるでしょう。
「今日のお客さんには、俺の良さはわからんわ」
と言いわけする落語家もいるでしょうが、それとて、その日のお客さんに合う落語ネタを提供できなかった、空気を読めなかった、落語家の実力不足です。
人の話を聞く態度を教える!と、大義名分もあるでしょうが、 先生方は、子ども達をじっと座らせようと熱心になる前に、子供達が思わず聞き入ってしまう「パフォーマンス」を演じられるように、努力してほしいと思います。
もちろん、『静かに人の話を聞く態度を教える!』のも大切です。
卒業式等、人生には様々なセレモニーがあり、必要なスキルです。
でも、セレモニーと授業とは、違うはずです。
自分の授業のパフォーマンスの拙さは棚に上げて、セレモニーの出席と同じ態度を生徒に要求する 先生もいるのではないでしょうか?
ADHD(注意欠陥多動性障害)と診断されなくても、授業の45分間、ただじっと座っているのが苦痛、ガマンできない子はいっぱいいます。
それがたとえ有難い話でも、意味のわからないお経を延々と聞かされる葬式のような授業だとしたら?
もし、45分の葬式を一日に6回、それが毎日なら、大人でも、
葬式は、 もう イヤッ! となってしまいます。
☆ ☆ ☆
見た目の決めつけも気を付けなければいけません。
例えば「雨の中で傘をさして歩くことができる」状況から、雨の日の支援は不要との判断は早計です。
・自分でさすことができるのか?
・閉じることは?
・ジャンプなら独力で広げられるのか?
・折り畳みは?
・屋根のある所で閉じることを理解しているか?
・何のために傘をさしているか理解しているか?
… それぞれに、どのような支援が必要か?
「雨の中で傘をさして歩くことができる」から、一歩踏みこんだ『考慮』がないと必要な支援の判断はできません。
現実に、障害区分等を判定する地位にある人が、『考慮』に欠けた認定をするケースが後を絶ちません。
普段に障がい者とかかわりがなく、支援や合理的配慮に無縁な人にありがちな『障害者への決めつけ』、自分だけの視野の狭い環境の中で、自分の物差しを障がい者へも当てはめようとします。
「三桁の足し算ができる!」 事例です。
三桁の足し算は、義務教育課程の小学校3年生で習得するよう設定されています。
「三桁の足し算ができる」でなされた『障害者への決めつけ』は、おおよそ小学校3年生平均レベルの学力を有していると 勘違い、「できるでしょ!」と認定されたのです。
実際その子は、引き算になると二桁でも指折り数えても 困難で、解答できるのは既に数字が縦計算式で用意された計算問題のみ、暗算は一桁の足し算さえ答えられませでした。
サヴァン症候群(レインマン等)の例を出すまでもなく、学習能力の極端な偏りはASDの典型的な特徴でもあり、その偏りこそが著しく困難、相応の支援が必要です。
☆ 『ダメ』がだめな理由
『ダメ!』 『✕ペケッ!』 『出ていけ!』
ある障がい者福祉施設に否定的なワードを、利用者に連発する支援員がいました。
利用者が度々パニクるので、毎回他の支援員がフォローをし、周りの負担が大きくなっているのに、当の本人はワレカンセズ。
その支援員は福祉業界ではベテランでした。
もしかすると、ベテランの方が前世紀の措置制度のやり方を、引きずりやすいかもしれません。
☆ ☆ ☆
支援者の基本中の基本として、否定する言葉は使わずに、次の行動を示す言葉を使う方法があります。
走り回って、今にも車道に飛び出してしまいそうな子には
『アブナイ!』 『走ってはダメ!』 ではなくて、
『こっちへおいで!』 『ゆっくり歩きなさい!』 と。
この言い換えは、なかなか難しいんです。
「両手を放してブランコしたら、 危ないからアカンよ!」
では、言葉が届かない子がいます。
手を放してブランコに乗っている自分を場面で想定できても、危ないからアカンまで、理解が進みません。
行動を示す言葉に言い換えるなら
「両手でブランコを持って!」
場面で想定できるブランコを両手で持って乗っている姿を伝えます。
咄嗟の時には、ついつい『ダメ!』って使ってしまいますが、使ったら使ったで、必ず、なぜダメなのかを、その場ですぐに、丁寧に教えることを心掛けなければいけません。
障がいの有り無しにかかわらず、支援には必要な技術です。
『ダメ!』だけだと、人格全てを否定されるように感じてしまう子もいます。
☆ ☆ ☆
ホームセンターで購入する小さな家具で、自分で組み立てる商品があります。
組み立てる時に、完成図だけを見て『組立説明書』も見ずに、いきなり組み立てていく人と、『組立説明書』を見ながら、説明書通りに順々に作る人と、ザクッと大きく2タイプに分けてみます。
どっちが悪いということではありません。
また、絶対に説明書なんて見ない人は少ないと思いますし、難度とかその時の気分で、作り方は変わると思います。
『いきなり派』と『順々派』、完全に分けるのではなく、どっちが得意か、どっちが苦手か、と捉えておいて下さい。
『いきなり派』の人は、今現在の目に入ってくる情報から行動に繋げるのが得意なタイプ。
逆に『順々派』の人は、物事の起こった順に情報を重ねて 行くスタンスに馴れています。
一昨年、ダイヤモンドプリンセス号に潜入した学者さんは、たぶん 『いきなり派』
潜入してすぐに、船内のゾーニングの不備を指摘してWEBで告発。
潜入については、悪気は無さそうでした。
一方、現場の指揮をされていた厚労省の副大臣は、たぶん 『順々派』
告発を受けて最初に発したメッセージは、自分の指揮管理を無視された、秩序を破られた事への怒りの方で、 指摘された船内ゾーニングの不備については、否定しようと対抗して船内画像をWEBにあげてしまい、逆に炎上しました。
今現在の状況判断が苦手な方なのかもしれません。
話がそれました。すみません。
具体的なデータは取っていませんが、よく発達障害、コミュニケーション障害では?と言われる方には『いきなり派』が多いようです。
ここで、よくあるケースを、フィクションで。
物事を順々に考えるのが苦手な男の子、いきなりくんは、音楽教室からクラスの教室へ戻る途中、カバンを振り回してふざけていたので、気付かぬうちに、ふでばこをカバンから 落としてしまいました。
一番最後に音楽教室を出たじゅんこさんは、廊下に 落ちていた ふでばこ を見つけました。
たぶん、クラスの誰かが落としたんだろう…
と、じゅんこさんは、クラスの先生に渡します。
先生はふでばこをみんなに見せながら
「誰のかな? じゅんこさんが廊下で拾ってくれたんだよ」
いきなりくんは、そのふでばこを見、いつも入れているカバンの中を見ると、あるはずのふでばこが無い、すぐに
「そのふでばこ、僕のだ、返して!」
と、先生に叫びます。
この時、いきなりくんには、どういう経緯でふでばこが 先生の手元に有るかは、考えの中に無いのです。
ところが、その「返して!」を聞いたじゅんこさんは、自分で落としたくせに、まるで私が盗ったように疑いをかけてきたと思い、いきなりくんに向かって 泣きながら
「いきなりくんなんて、キライ!!」
先生も腹を立てて
「 こらっ!いきなり!
ダメしゃないか! じゅんこさんに、謝りなさい! 」
ところが、いきなりくんは、なぜ、自分が叱られたのか? が、わからない。
ふでばこが無くて、カバンの中に戻した状態にしたくて、今困っているのは自分なのに 自分がダメだと叱られている…
何がダメなのか理解できないのです。
ましてや、なぜ、じゅんこさんが泣いているかもわからない。
自分が、じゅんこさんを泣かしてしまったらしい。
なぜか、わからないけど、ダメなのは、自分 …
こんなことが重なると、いきなりくんは、孤立するし、いじめられるし、「ダメな自分」という精神的に辛い環境にどんどん追い込まれることになります。
九九算が苦手な子に
なんで、わからないんだ!ダメな子だな!
なんて言い捨てる先生は、今は流石におられなくなりました。
(昭和にはけっこういました)
ところが、
ふでばこを落とす
➡ じゅんこさんが拾う
➡ じゅんこさんは、ふでばこを無くした人が困ると思って先生に渡す
➡ 先生が皆に見せる
と、順序立てて、ふでばこの移動経路を考えたり、拾った人の気持ちを理解するのが苦手な子に、
なんで、わからないんだ!ダメな子だな!
と、言い捨てる先生は、令和でもいます。
もし、教育、子育てや療育に携わることになった方には、『ダメ!』を使った時には必ず、それがなぜ『ダメ!』だったのかを即座に、丁寧に、そして根気よく理解へ
その子が、障がいと認定されているかどうかにかかわらず。
そしてまた、そういった支援は、子どもに限ったことでないかもしれません。
こんなことあるかも?フィクションをもう一つ
もし、あなたが、海外への一人旅、たまたまトランジットで降りた見知らぬ国の空港で、突然
バン! バーン!
銃声にも似た爆発音が続いています。
空港ラウンジで、一人、立ちすくむあなたに、空港職員がカタコトの日本語で、
ダメーッ! アブナイョ! って、叫んでいます。
テロリストの銃声? 建物が崩れる?
何がアブナイのかわかりません。
こんな状況なら、たとえ普段冷静なあなたでも、パニックに陥ってもおかしくない。
もし、銃声だったなら
伏せろ! とか、
天井が落ちそうなら
トイレへ逃げて! とか、言ってくれたら…
それでも、怖いかな。
でも、『ダメ!』よりは、 ずーっとマシなんじゃないでしょうか。
☆ オリンピックと、ボランティアと
日本は、障がい者への福祉、障がい者の法整備に関してなかなか進まない国です。
実際に、福祉というと真っ先に高齢者介護、貧困の話になってしまいます。
政治家たちが、障がい者の権利に重きを置かないのは、
障害者福祉政策は、票にならない。
これが、本音でしょう。(私見)
例えば、何年か前に改竄で話題になった、各省庁の 障害者雇用率の達成を憂慮する政治家、 検証しようとするマスコミが今、どれ程いるでしょうか?
2006年に国連で採択された障害者の権利に関する条約を批准できたのは7年後の2013年。
(批准=その条約が、批准した国の中でも法として通用)
2006年の時点では、日本国内の障がい者に関する法律が、条約の求めるレベルまでに達していませんでした。
昔は、障がい者を守ることはあっても、障がい者の権利に ついてまで、考えが及んでいなかったのです。
7年もかかりました。
障害者差別解消法等の国内の障がい者に関する法律は、2013年の6月に一応整います。
そして、同年2013年秋、あの 滝川クリステルさんの
お ・ も ・ て ・ な ・ し
で、 オリンピック招致が成功します。
オリンピックとパラリンピックは引っ付いて開催されています。
たまたまではない、オリンピック開催の方が本命、そのために法案を間に合わせた?
と、勘ぐっています。
もしパラリンピック抜きの、オリンピックだけの招致なら、法整備は進んでいたかどうか?
今もまだ、批准できてなかったかもしれません。
障害者の権利に関する条約の主旨の中で、とても大事なこと
「障がい者本人を抜きにして、障がい者の権利のルールを勝手に決めるな!」
これが日本にに来て法律になると、
「障害者から何らかの助けを求める意思の表明があった場合には…」
と、申請主義の表現に変化して、下手をすると、意思表明がなければ何もしなくて良いような、 本来の主旨とはかけはなれた解釈を生んでしまうのです。
オリパラ招致のおかげかどうかは定かではありませんが、ここ数年で、一気に障害者福祉の法整備が進みました。
法の急仕上げ感は半端なくても、急仕上げでも何でも、進まないよりは、ずーっとマシだと思っています。
☆ ☆ ☆
昔、娘に
「『take part in』って、意味知ってるか?」
娘は、めんどくさそうに、「参加、やろ」
私は、本題の、
「オリンピックの『参加する事に意義がある』って、日本でのニュアンス、ちょっと、ちゃうん、 知ってるか?」
娘は、私を制して 「英語の時間に習ろたゎ 」
続けて、
「日本人は、『とりあえず出たらエエ』 と思ってるけど、直訳すると 『一部を担う』っちゅうことやから、出て、ほんで、ちゃんとせなアカンって、言いたいにゃろ 」
語りたがっている私の魂胆は、お見通し。
「そうか、英語の先生、ちゃんとしてはるな…」
私が、知ったばかりの頃でした…
☆ ☆ ☆
日本語で『参加』だと、『とりあえず出たらエエ』がまだまだ主流で、『参加』訳の弊害は、かなりあるように思います。
例えば、
『ボランティア活動に参加する』
本来は、オリンピックの『参加』と同じ『ボランティア活動の一部を担う』、その一部が欠けたらボランティア活動そのものに影響を及ぼすのでしょうが、どうも、 私のような日本人は、いや、日本人の多くは、「とりあえず暇やったら顔出しとこか」位で、イッパシのボランティア活動家気取りになりがちです。
『take part in』
『参加してね』 以外に、なんて訳したら、良いでしょう。
『ボランティア参加』から遠ざかってしまいそうです。
ボランティアを直訳すると無償の奉仕活動と訳されます。
ですが、日本では今も施しと訳した方が適当かも知れません。
宗教的な背景の違いもありますから、どちらが正しい!ではないと思います。
健常なものが一生懸命働いてお金を稼ぎ、かわいそうな障害のある人々に施してあげる。
名乗らずそっと、そのお金を置いていく… 愛が地球を救う。
喜捨 … 日本の美しく謙虚な福祉の形でした。
『施し』が不要?
いえ、『施し』と『奉仕活動』どちらも必要です。
☆ どこがキリストやねん!
高校2年の時、斜め後ろの席のクラスメートから、
「おまえって、キリストみたいやな…」 と。
彼は知らぬ間に私の席の横にやってきていて、ボソッとそれだけ言うと、 ???でいっぱいになった私を残して、すーっと、どこかへ行ってしまいました。
それは、決して賞賛の意は含んでおらず、かといって、彼がキリストが大キライで 私に敵意があっての言葉とも思えず、私には当時から、物事をとりあえず自分の都合のいいように解釈できる才能が備わっていましたので、恐れ多くも相手は、キリスト様、文句を付ける筋合いはありません。
彼は無口で、いつも不思議なオーラを発している奴だったので、彼ならそれくらいの事は言うだろう と、気にも留めていませんでした。
彼とは親交はなく、言葉を交わした記憶さえ、その「キリスト」以外は思い浮かばず、ましてや彼が自閉症スペクトラムだったかどうか?なんて、今では知る由もないのですが、「自閉症スペクトラムとは何か」(千住淳 著)を初めて読んだ時、一番に彼の事が思い浮かびました。
昔、スパルタ教育を売り物に、社会不適合者を更生させるヨットスクールが、もてはやされました。
でもそれは到底「教育」と呼べるものではなく、「調教」と言ったら競走馬や警察犬を愛情持って育てている方に失礼。
実態は、暴力でもって絶対服従を強いる「収容所」のようなものでした。
当時、死者まで出して、それでもなお、自分たちの教育方針は 正しい!と、コメントが流れていました。
もし、この本が 40年くらい前に出版されていて、 教育や福祉に携わる者が、入門書として当たり前に手にしていたなら、
もしかしたら、彼は「収容所」に行かなくて済んだ?
彼は、殺されずに済んだかもしれない。
甘いかも知れないけど、そんな風に思ったのでした。
今でも知的に目立った障害がなければざっくりと、変わり者、厄介者として除かれる世の中ですし、かのヨットスクールも未だに同じようにスパルタ掲げて営業しているらしい…
でも、今からでも。
もし、彼が今も生きていて、同窓会かで出会うことができて、私の事を覚えててくれたなら、聞いてみたい質問。
「おれの、どこがキリストやねん!」
☆ 穢れるってなに?
-穢れる-
1 清らかさ、純粋さ、神聖さなどが損なわれて、よごれた状態になる。よごれる。「耳が―・れる」「神殿が―・れる」
2 名誉や誇りに傷がつく。「履歴が―・れる」
3 女性が貞操を失う。
4 死・出産・月経などにかかわって忌むべき状態になる。
東洋の思想に、穢れたものには触れないでおこうとする「触穢思想」(しょくえしそう)があります。
神道においても、死と、出血を伴う出産、女性の生理は 「三不浄」と忌避されてきました。
死、血の流出や、伝染病なども(精神・知的障害も「獣がとり憑いた」と表現)「穢れ」と考えられてきました。
「穢れ」に直接触れる事は勿論、垣根や壁などで囲まれた同一の一定空間内に穢物・穢者とともにいただけでも汚染されてしまう、「穢れ」は忌み嫌われ、恐れられていました。
「穢れ」に感染された人は一定の期日を経るか(忌明け)、お祓を受けるまで、神社への参拝や神事へ の参加を控えるよう求められてきました。
昔、祖母が亡くなった時、祖母の家近くの、幼い頃の私の遊び場になっていた神社の境内へ行こうとしたら、
「喪中の間は鳥居の内側は通らんように!」
と、父から注意されました。
現在でも、お葬式から帰ったら、穢れを落とすために塩をかけて清めます。
「触穢思想」は「当たり前」の身近な存在だったのです。
海女さんは、生理の時は海に入ることを禁じられています。
海が血で穢れる、海の神様がお怒りになるのです。
サメは血一滴の臭いを、2キロ先からでも察知できます。
もし、生理中の海女さんが、この掟を破って海へ入ったなら、かなり危険な状況でしょう。
たとえ、海女さんが無事であっても、血を嗅ぎ付けたサメたちが沿岸へ近づき、良い漁場を荒らし、不漁を 招くかもしれません。海辺の寒村にとっては死活問題です。
「女人禁制」の山中は険しく、里山とは趣が異なります。
険しい山には、人間でさえ食料として狙われる危険があります。
もし私が牛肉を食べるなら、農耕などの力仕事させられた筋肉質のオス牛より、柔らかいメス牛の肉を選びます。
それと同じく、肉食の獣たちだって、おいしそうな血の臭いを嗅ぎ付け、柔らかい肉を望むでしょう。
入山の危険は、女性の方がはるかに高い事が想像できます。
何百年も前、読み書きそろばんのできない人がほとんどの、海辺の村で
『海を穢すと海神様がお怒りになる』
山里の村で
『山を穢すと山神様がお怒りになる』
言い伝えは、自分たちを守るための有効な手段の一つでした。
また、結核のような空気感染するような病は、隔離する位しか蔓延させない方法は無かったでしょう。
昨今の「コロナウイルス」対応にも、通じるものがあります。
「触穢思想」は、人の種を存続させるための重要な考え方として活用されてきて、あながち迷信と全て否定できないのです。
☆ ☆ ☆
「穢れたものを排除するという形で自分たちを守る」考え方は、今も根強く残っています。
障害者の子孫を増やさない!との優生保護法しかり、人里離れた山間部に障がい者を隔離するコロニーなど、それらの政策の根底にあったのが「触穢思想」です。
「触穢思想」は現在も進化し、
『自分達とは違うもの・知らない事は穢れたものと決めつけ、見下し、排除して、自分たちを守る』
自分達の無知は棚に上げたまま標的を広げ、 その対象は、死、血、伝染病、障がい者に留まらず、 最近では、社会的少数弱者へ「生産性が無い!」発言が生まれたり、在日外国人へのヘイトスピーチで現れます。
「イジメ」問題を検討する場合も、
いじめている側 vs いじめられている弱者
の単純な図式でなく、同じ空間に居て「イジメ」に触れない、「イジメ」とは無関係な立場で「自分たちは安全圏で、「あの人達は別枠の人」と保身態勢をとる傍観者の「触穢思想」の存在を忘れてはいけません。
あるSNSの障がいに関わる方々のサイトの投稿の中、腹立たしい出来事として、
『ダウン症関連の情報サイトへの、匿名の心無い投稿、あまりに傷ついたので、投稿者に反論したが平行線のまま、挙げ句にブロックされて、悔しい気持ちが治まりません!』
悔しい思いを、ぶちまけている方がいました。
その、投稿内容を掻い摘んでご紹介すると、
『 障害者は、生きる価値が無い。
健常者が汗水流して働いた金を、何で役に立たないそんなやつらに使うんだ。
障害者なんて、ほったらかしにしておけばいい! 』
そんな内容を、日本の生産年齢人口、障がい者の人数などの数値データをもっともらしく関連付けて、こじつけてました。
まさしく、「触穢思想」のなせる業です。
投稿をされた方へ、多数のコメントが寄せられました。
『 引きずらないようにしましょう 』 『 無視しましょう 』
『こんな奴は自分が障がい者になってやっと自分の馬鹿さ加減に気づくんです。
相手にしてこちらが嫌な思いをするだけ損ですよ… 』
綺麗ごとではない、今実際に精神的に傷ついている方への、現実に即した的確なアドバイスです。
しかし、このたくさんの励ましのアドバイスも、
「心無い投稿をするバカ」の存在を 心の中から排除しましょう」
「触穢思想」のスタンスなのです。
「触穢思想」には「触穢思想」しか、対抗する手段は 無いのかもしれません。
2016年に「障害者差別解消法」が施行され、日本の福祉へも海外から「ソーシャル・インクルージョン(社会的包摂 )」の当たり前が押し寄せてきました。
行政、企業、学校など社会のさまざまな場所で『合理的配慮』が、コンプライアンスとして求められるようになりました。
しかし、何百年も前から日本人の生活に密着していた「触穢思想」は、日本へやってきた「新しい福祉」の流れの前に、大きく立ちはだかっています。
日本は、「触穢思想」から脱却できるのでしょうか?
『 ソーシャルインクルージョンとは、社会的に弱い立場にある人々をも含め市民ひとりひとり、排除や摩擦、孤独や孤立から援護し、社会(地域社会)の一員として取り込み、支え合う考え方です』
☆ ☆ ☆
障害者雇用の水増しが大きなニュースになっていた頃、仕事で税務署の方とご一緒する機会がありました。
水増しが一番酷かったのは財務省でしたが、その税務署員は人当たりのいい気さくな感じでしたので、そんな話も。
「今まで、障害者の方を職場で見かけた事は一度もありません。
どこかのセクションで働いているという話も、 聞いたことがありません」
悪びれる様子もなく、水増しなんて他人事のようです。
税務署では、職場に障害者がいないのが当たり前なのでしょう。
「どうなると思いますか?」 と、質問してみました。
「たぶん、福祉に関する講師を呼んで、何回か講習会のようなものが催されるんじゃないでしょうか…」
誠に的確な予測なのだと思います。 さすが、税務署員の洞察力。
現に職場に障がい者はおらず、これから先、一緒に働く機会も無さそうなので、話はこれ以上前に進みませんでした。
行政での「ソーシャル・インクルージョン」は、まだまだ絵に描いた餅のようです。
☆ グレーゾーンなんかイラン!
以前、障がい者福祉関係で働く方のサイトの投稿へのコメントで、とても腹立たしい思いをしました。
投稿をされたのは、小学校の非常勤講師で、特別支援学級の補助教員をされている方でした。
『 ある日、特別支援の担任の先生から
「あなたの様子を見てて、授業中に背伸びをしたりため息をついたりするのは社会人として問題だし、子どもが真似をしたらどうするんですか?」
「子どもの名前を覚えられないなんて教師としてあり得ない」
などと、厳しい意見を受けました 』
その方には発達障害があり、採用の際、校長先生にその旨伝えていました。
『私の発達障害の特性ゆえに仕事上での 支障があればどうしようか、教師との人間関係が 円滑に行かないのではないのではないでしょうか?』
と、悩みを打ち明けておられました。
一方で、
『その担任の先生は、以前は、子どもが、やんちゃをしたり、うろうろ立ち回ることが当たり前だった特別支援学級を建て直し、子どもたちに規則正しい生活を身に付けるように指導してきたとのことで、その分、子どもだけでなく教師に対しても厳しい一面が窺える先生で、それはそれで プロ意識が高くて素晴らしいことだと思うのですが、その担任の先生は、子どもだけでなく、大人の発達障害への理解があるのか? と疑問に思っています… 』
この先生への励ましのコメントや、
「大人の言うことを従順に聞く生徒が良い生徒?」
と、考えのずれた担任への批判などのコメントが数多く寄せられている半面、見ていくと意外な事に、投稿者に対しての上から目線、厳しいコメントも見られました。
その中のコメントを2つご紹介します。
『 障害者雇用ではないのですよね?
そうしたら、担任のそのような意見はやむを得ないかと… 』
『 教育熱心だからこそ、あなたにも厳しいと思いますので、言葉は真摯に受け止めた方がいいと思いますね。
発達障害の診断受けてますか?
採用の際に伝えてありますか?
採用した人のミスですね。現場は、迷惑ですね。
教師以前に社会人としてどうかと思います。
(現場で同じような方を押し付けられて閉口している教員より)』
障害区分の重さと、障がい者本人・保護者の方の不安や心労とは比例していません。
グレーゾーンだからと、障害とは言えないレベルだからと、むしろ蔑ろにされがちです。
手帳や療育手帳の手形を持っていれば、「別枠」としてそれなりの配慮を得られるのですが、その手形が無いと、出来ない人、ダメな人、変な人、迷惑な人と、排除されるのが実状です。
自分達健常者とは違う、
『障害者「別枠」の人は配慮してますよ、私たちと同じ枠で同じようにできないなら「別枠」へ行けば?』
「触穢思想」は、教育の現場ではまだ深く根付いていて、配慮する側とされる側に、しっかり境界線を引きたがります。
ソーシャルインクルージョンの考え方からくる「合理的配慮」は、障害として認められた別枠であるかどうか、で行われるものではありません。
合理的配慮 ≠ 合理的排除
一字違いで、大違いです。
☆ ラベルをラベルを貼らないで!
今、『障害者』のレッテルが貼ってあるかどうか?
が最も重要視されていて、本来は、
それぞれにどんな支援や配慮が必要か?
の方が重要なはずなのに、
それは『障害』か? 何という名の『障害』なんや?
ASD? ADHD? LD? …
診断して名付けて、区別して、別枠へとやっきになっています。
「ラベルを貼ることに意義がある」
別枠に入れ込んだだけで、支援をしたつもりになっています。
そのラベリングも実に曖昧で、disorderを日本語でざっくり『障害』と訳されて、明らかに誤解や不都合が生じているのに、未だにそのままです。
『精神障害』や『発達障害』に使われる『障害』の意味するdisorderと身体障害者の『障害』 disabilityとはまったく異なる概念です。
また、disorderはdisease(疾患)でもありません。
ASD(自閉症スペクトラム)と、精神科、心療内科で診断名が出されるからといって、疾患ではありません。
あえて例えるなら、「症候群」に当たります。
かぜの症候群が、くしゃみ、発熱、鼻づまりなら、同じ症状でも、原因は、インフルエンザか、コロナウイルスか、花粉症アレルギーか、冷たい池に嵌ったか…
『自閉症スペクトラム』、似た症状を集めて便宜上名付けていると考えています。
同じ症状でも処方はそれぞれ、支援の仕方もそれぞれですから。
☆ グレーゾーンよりレインボーゾーン
「障害者」「発達障害グレーゾーン」と、別枠レッテルを貼るだけの区分けではなく、どうせゾーニングするのなら
『支援、合理的配慮が必要かどうか』
の視点で、『必要』と『要らん』の二つに分けてはどうかと。
ここで、色んな特性が引っくるめて『障害』と呼ぶのに対抗して、下記以降、『支援・合理的配慮』を引っくるめて『愛』と記します。
で、勝手に、『愛』が必要なゾーンを、 『レインボーゾーン』と名付けます。
例えば、『左利き』
『左利き』は、障害なんかやあらへんで!
と、怒る方がいるかもしれませんが、『レインボーゾーン』へのゾーニングと、ご容赦いただきます。
で、紙工作するなら『左利き用のハサミ』、野球するなら『左利き用のグローブ』を用意するといった『愛』が欲しいところです。
日本なら『私の彼は左利き』とか『サウスポー』とか、歌になるくらい憧れの的にもなりますが(古くてごめんなさい) もし、宗教的に左手が不浄とされている地域では『愛』の形も大きく変わります。
で、『愛』が必要な事がらを、『レインボーゾーン』のなので、『レインボー』 と名付けます。
LGBTQは障害ではありませんが、学校等の集団行動では、様々な場面で『愛』が必要な『レインボー』です。
他にも、アレルギー、閉所恐怖症、高所恐怖症、聴覚過敏、花粉症、色弱、弱視、喘息、方向音痴、犬怖い…
『愛』が必要な『レインボー』は人それぞれ、『愛』の形も 様々です。
で、結局は、ほとんどの人が『愛』が必要な『レインボー』を 何かしら抱えており、そして、ほとんどの人が 『レインボーゾーン』に枠づけされるのではないかと。
きっと『愛』が必要でない、レインボーゾーン外の人なんて、ごくわずかで珍しい存在、それとて一時的なこと、いつ大きな『愛』が必要になるかなんてわかりません。
「 あなたの『レインボー』はどんな『レインボー』?
今のあなたに、どんな『愛』が必要か一緒に考えましょう 」
なんて個人懇談が、随時当たり前に行われると良いな、と、夢のようなことを考えています。
発達障害グレーゾーンと呼ばれている『愛』が必要な特性も、人それぞれ、色々です。
当然、『愛』の形も様々です。
その『愛』がハマれば、その特性が輝く個性に化けることだって、往々にして起こっています。
特性には、様々な色があります。
言葉遊びかもしれませんが、まずは『グレーゾーン』と呼ばれる『グレー』を、『レインボー』と呼び替えてみては どうでしょうか?
『グレーゾーン』より『レインボーゾーン』
そして『レインボーゾーン』がどんどん拡がって、行く行くは、そんなゾーニングなんて無意味になるよう願っています。
☆ エピローグ
私が知らなかった虹の最後の1色を、娘が教えてくれました。
その色はなんと、『あい』(藍色)
虹には、愛がありました。
了
著者プロフィール 社会福祉士 か と も
1960年生まれ 2児の父(長女はASDをともなう知的発達障害)
放課後等デイサービス支援員・社会福祉士
他資格 (知的)移動支援従業者・福祉住環境コーディネーター2級・宅建士・上級心理カウンセラー・調理師・総合旅行業務取扱管理者・損保上級など
参考文献(敬称略)
発達障害のウソ 米田倫康
発達障害と呼ばないで 岡田尊司
自閉症スペクトラムとは何か 千住淳
社会認識の歩み 内田義彦
逆説の日本史4 中世鳴動編 井沢元彦
日本国紀 上・下巻 百田尚樹
知的障害者移動支援従業者養成研修テキスト編集ガイドヘルパー養成テキスト編集委員会
日本社会福祉士会 基礎研修テキスト 公益社団法人 日本社会福祉士会
福祉小六法2019 編集 社会福祉法人大阪ボランティア協会
こども六法 山崎総一郎
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WEB参考文献
デジタル大泉堂
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/24 20:27 UTC 版)
-COLUMNS 障害者福祉の制度、法律、サービスの言葉 解説:岡部兼芳 [はじまりの美術館館長]