何の料理ですか?
私がボロボロの服を脱いでまあまあマシな服に着替え、気持ちばかりに髪を整えて食堂に降りてきた時、そこにはもう既にふわりと良い香りが漂っていました。
煮込まれ始めた野菜の匂い。それから、ちょっと珍しいハーブの匂い。
くんくんと鼻を鳴らしながら、私は吸い込まれるように厨房の中を覗きます。
「なんだ、早かったな」
私の気配を察して振り向いた伯爵さまを見て、私の心臓はドキンと高鳴りました。
ああでも、この胸の高鳴りは高鳴りでも、甘酸っぱい胸のときめきではありません。
確かに伯爵さまのお顔は目の傷を抜きにしても整っているので、これがロマンチックな胸のときめきだったらどんなに良かったかと思うばかりなのですが、実際に私を襲ったのは、緊張と衝撃で心臓を鷲掴みにされたような高鳴りでした。
その理由は何と言いますか、鋭く研がれた刃物を持ってまな板の上の大きなお肉の前に立っている伯爵さまが、まるで戦場の真ん中に立っているかの如く壮絶に見えたので、衝撃を受けてしまったのです。
こんなに刃物と肉と血が似合うお方なんて、この世界のどこを探しても彼以外にいないのではないでしょうか。
彼にかかれば、捕らえられたまな板の上のお肉がこれから拷問を受けるのではないかという錯覚さえ起こしてしまいそうです。
「もう少しでできるから、君は向こうで座って茶でも飲んで待っていろ」
「あ、あの」
「なんだ」
「えっと」
「どうした」
「いえ……やっぱりなんでもありません」
私はすごすごと厨房を離れて、食堂の端っこに小さく身を寄せました。
本当は、私が召使いなのですから調理を代わると言いたかったのですが、ちょっと怖くて流石の私もあれ以上言葉を続けることが出来ませんでした。
しばらくじっとしていると、厨房の方からコトコトと鍋が沸騰する音が聞こえてきました。
先ほどより良い匂いも漂ってきます。
食堂にまで満ち始めたその良い匂いを嗅ぎながら、料理の完成が近い事を察しました。
気持ちばかりではありますが伯爵さまを手伝うため、私はカトラリーの準備を始めようと思います。
初めて足を踏み入れた人様の食堂ですが、カトラリーのありかは案外簡単に見つけることが出来ました。
今までの給仕経験で培われた嗅覚のたまものでしょうか。
さて、お次は。カトラリーのありかは見つけましたが、席はどうしたものでしょう。
私は暫し考えて、主人である伯爵さまのカトラリーを大きなテーブルの最上位席に、それから召使いである自分のものを食堂の隅に置かれた小さなテーブルの上に置きました。
本当は同じ空間で同じものを、しかも主人に作らせた料理を食べようとしている時点で召使い失格もいいところなのですが。
「何故そんなところにスプーンとフォークを並べている?」
良いにおいを漂わせている大きな鍋を持って食堂に入ってきた伯爵さまは、開口一番そう仰いました。
その視線は、私が自分用にとカトラリーを並べていた小さなテーブルに向けられています。
伯爵さまに許可をいただいて食後のお茶の準備をしていた私は、急いでその手を止めて伯爵さまの方に向き直りました。
「あの、それは私がそこでお食事をいただこうと思っているからです」
「何故?」
伯爵さまの質問には妙な迫力があります。さすが、ラスボスと噂されているお方です。
そんなお方を前にして私は一瞬も二瞬も怯みましたが、なんとか持ち直しました。
だって、召使いが食堂の隅で食事を摂ることが間違っている筈がないという私の主張が間違っている筈無いのですもの。
「こちらで食べれば良い」
私は召使いは身の程を弁えるべきだと主張しましたが、伯爵さまは食堂の中央にある大きなテーブルの上に持っていた鍋をどんとおいて、そのテーブルの席を示しました。
私が伯爵さま用のカトラリーを並べたところから、ほど近い席です。
要するに、食べている間に色々とお話が出来てしまう距離です。
「いえ、でも」
「でもなんだ」
「伯爵さまと召使いが同じテーブルに着くのは」
「……嫌か」
「あの、そういう訳ではないのですが」
「では君のカトラリーをこちらに持って来い。異論は認めん」
そんな伯爵さまを前にして、私は頷くしかありませんでした。
これは絶対に召使いにあるまじき行いだと分かってはいるのですが、私は最終的に自分用のカトラリーを主人と同じテーブルに置いてしまいました。
「食べるぞ」
「はい」
私がおずおずと席に着くと、伯爵さまは大なべの蓋を掴んで上に持ち上げました。
ぶわり。
漏れて漂っていた匂いとは比べ物にならないほどの破壊力を持った良い匂いが、テーブルの上で弾けました。
鍋の中をのぞくと、クリーミーなチーズシチューがたっぷり入っています。
ゴロゴロにカットされたクルミ肉と、ホロホロに溶けた野菜も見えます。
「お、おいしそうです……!」
ああ、なんということでしょう。
見るからにおいしそうなシチューを前に、深夜でクタクタだということも、伯爵さまが恐ろしいということも忘れて私は思わず感激の声を上げてしまいました。
「フン。よそってやる。器を貸せ」
「あっ、それくらいは私にさせてください!」
私は決死の思いで器を死守し、丁寧に伯爵さまの分から盛り付けていきました。
熟成チーズの色をしたとろけるシチューは小皿に取り分けられ、早く食べてと輝きを放っているように見えます。
「いただきます」
私は手を合わせ、スプーンを握りこみました。
怖かったり驚いたり恐縮したりと忙しかったので空腹感など二の次だったのですが、さすがの私も目の前のご馳走には抗えません。
私は早速シチューを一口掬い、口の中に入れました。
熱々の具材を、ゆっくり咀嚼します。
「……どうだ、うまいか」
「っ、すっごく!おいしいです!」
これは、私の嘘偽りのない気持ちです。
このシチュー、本当においしいです。
貧乏令嬢が深夜まで働くことはザラにありましたので、私は夜食というものには切っても切れぬ縁があります。
みんなが寝静まった後まで働いた体に染み込む深夜の食事。
疲れた体をねぎらってくれる深夜の食事。
そんな労働の後の空腹時の夜食は何を食べても美味しいのですが、今回ばかりは感動せざるをえませんでした。
先ほどは包丁を持った伯爵さまに怯えてしまった私ですが、それさえ忘れてしまいそうな美味しさです。
「あの、伯爵さまは料理が上手なのですね。とても意外です」
「別に上手い訳ではない。魔物相手だと深夜も気を抜けないから、料理人がいない深夜は必要に迫られて料理を作るようになったから慣れただけだ」
「でも私、こんなにおいしい夜食は初めて食べました」
「……これくらいなら、いつでも作ってやる」
「え?」
「だから、これくらいならいつでも食べさせてやると言った」
「だ、駄目です。召使いは私なのですから、これからは私が料理をいたします」
深夜も寝ずに働く伯爵さまを補助するべく買われた召使いが私なのです。
伯爵さまの負担を少しでも軽減するべく、全身全霊を懸けるのが私の仕事です。
不可解なことを言う伯爵さまに断固拒否の姿勢を見せて、明日の朝食からは任せてもらうという約束を取り付けました。
それから伯爵さまと私はほとんど無言でしたが、実のところ私は美味しいシチューに夢中だったのでさほど気になりませんでした。
口に入れるととろけるシチューは私の頬っぺたまで落としてしまいそうで、何とも幸せです。
私の家は貧乏で、酷い時には野草を煮て食べたりもしていましたから、私はここが天国なのではないかと一瞬思ってしまったくらいです。
おいしいなあと頬に手をやっていた私がふと顔を上げると、伯爵さまとバチッと目が合いました。
伯爵さまはシチューを食べる手が止まっていたようですが、どうしたのでしょう。
「あの、どうかなさいましたか」
「……いや、何でもない」
「そうですか。何かあったらいつでも仰ってくださいね」
召使いらしく主人に向けてにっこり笑ってから食事に戻り、また暫くしてから私が顔を上げると、また伯爵さまと目が合いました。
今度は思いっきり逸らされてしまったのですが、どうしたのでしょう。背けられた伯爵さまの顔が心なしか赤い気がします。
もしかして、疲れによる熱でもあるのでしょうか。
それはいけません。主人の体調管理も召使いの務めです。
私はお皿に残っていたシチューを全ていただいてから、スッと立ち上がりました。
「伯爵さま。後片づけは私に任せて、今夜はもうお休みください」
私は早急に、使ったカトラリーの回収と、鍋に残ったチーズシチューの保存を始めました。
それから、準備していた食後のお茶は、今度伯爵さまの体調がよい時にでも振舞うことにします。
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