何故まだ生きているのでしょうか?
私は食べられてしまいました。
首にがぶりと齧りつかれて、その鋭い牙でボリボリと貪られてしまいました。
……と、この世の最後にそんな実況をしながらあっけなく命を散らす覚悟をしていた私だったのですが。
実際には、そんな事にはなりませんでした。
私は何故かまだ生きています。
血も出ていなければ、痛みもありません。
どうしてなのでしょう。
なけなしの冷静さをかき集めた私は、辛うじてこの状況を分析することが出来ました。
私がまだ死んでいない理由、それはどうやら、狼が私の首ではなくて服の襟に噛み付いたからのようでした。
それはまた、どうしてなのでしょう。
ここで、本日二度目のどうしてが首をもたげます。
服の襟からは私の首と言う肉が出ているのに、なぜこの狼は服の襟などに噛み付いたのでしょう。
貧乏令嬢の貧相な首はマズいから食べたくないということでしょうか。それはそれで失礼です。
それとも狼のくせに、綿などの繊維が好きなのでしょうか。ダイエット中なのでしょうか。
私は恐ろしさのあまり顔面に笑顔を張り付けたまま、首をかしげたのでした。
私の服の襟を咥え、私を宙釣りにした大きな狼は、暗い森の中でくるりと反転しました。
私を捕獲したことを周りに知らせえるような、そんな動きでした。
そしてそれを見た取り巻きの少し小さめの狼たちのうちの一匹が、良く響く声で吠えました。
すっぽりと包むような暗闇の空に向かって、ワオーンワオーンと吠えます。
おとぎ話でよくある、狼の遠吠えと言うやつです。
どこか遠くにいる仲間に、獲物を見つけたことを伝える為のあれです。
夜に響き渡る低い遠吠えに応えるように、何やら音が聞こえてきました。
私はこちらに向かってやって来るその不審な音に気が付いて、身をこわばらせたのでした。
ガサガサガサ
森の茂みがものすごい速度で掻き分けられている音がします。
それも複数。
幾つかの何かが、全速力でこちらにやってきます。
音のする暗闇を凝視した私は何故か背筋が冷えていくのを感じたのでした。
狼に追われていた時は感じなかった、もっと圧倒的な圧のようなものを暗闇の先に感じます。
そして、ガサガサと音を立てるものが姿を現した時、私はようやくその底の知れない圧力の正体に合点がいったのです。
首根っこを大きな狼に咥えられて狼に囲まれている私の眼の前に現れたのは、恐ろしい形相をしたジークフロスト辺境伯さまその人でした。
「彼女は無事なのか!」
彼は、周りに何匹かの狼を従えています。
伯爵さまのそれは、まるで狼のラスボスかなにかのような登場の仕方です。
……ああ。そういえば。
私は一人でこっそり納得していました。
そういえば伯爵さまの異名の一つに、銀狼の主というものがあったのを思い出したのです。
その名の通り、伯爵さまは狼を従えて敵を蹂躙するという逸話が元になった異名です。
なんでも、伯爵さまは狼たちと共に戦場を駆けて相手の喉元を引き裂き、夜闇に紛れて敵将を食い殺したこともあるのだとか。
ということは、私の首根っこを咥えているこの大きな狼も、周りにいる鋭い目の狼たちも皆伯爵さまの狼たちなのでしょう。
それでは捕まった私も、伯爵さまに討ち取られた敵将の方々と同じように、無残にお命頂戴されるのでしょうか。
使用人として雇ったというあの言葉は嘘八百だったのでしょうか。
でしたらせめて、一思いにガブッとやっていただけないものでしょうか。
伯爵さまが私に一歩近づきました。
私は大きな狼に襟を咥えられて宙に浮いている状態なので、伯爵さまが何をしようとも、私は逃げることが出来ません。
私は伯爵さまを前にして本能的な恐怖に冷や汗が止まらないのですが、そんな時にこそ満面の笑顔で虚勢を張ろうとしてしまうのが私の悪い癖です。
悪癖です。
いえもはや、生まれ持った呪いと言ってもいいかもしれません。
刺し貫かんばかりの冷たい表情の伯爵さまを前に、私は思わず微笑んでしまったのでした。
「っ」
伯爵さまが、ちょっと頬を赤くして何かに怯んだようでした。
しかし直ぐに気を取り直したようで、よく切れるナイフのような表情に戻ります。
「今日は中央の都に用事があるから、ついでに仕方なく君を迎えに行くと手紙に書いておいたはずだが?なのに朝迎えに行っても君は屋敷におらず、君の家族に聞けばまだ陽も明けないような早朝に出発したという。だが、どれだけ探し回っても君はどこにも見当たらない。人攫いのアジトを潰しても、痴漢の男を締め上げても、どいつもこいつも君のことは知らないと言う。そしてやっと見つけたと思えば、こんな深夜に一人で森を徘徊しているなんて。前代未聞だぞ」
はて。
そのようなお手紙はあったでしょうか?
私はきょとんと首をかしげます。
そのようなものは覚えていません。
伯爵さまから送られて来たのは、お城の所在地の地図だけだったように思います。
……あっ。
そういえば少し前、印象に残るほどの風が強い日がありました。
その時、丁度私がポストを開けた瞬間にお隣の洗濯物が飛んできたことを覚えています。
焦って駆けてきたお隣さんと強風の中、てんやわんやで洗濯物を捕まえました。
もしかしたらそのどさくさに紛れて、伯爵さまが書いてくださったというお手紙が風に吹かれて何処かに行ってしまったのではないでしょうか。
だとしたら、なんということでしょう。
これから召使いとして仕える相手からのお手紙を紛失してしまうとは。
早速召使い失格です。これでは罰として食べられてしまっても文句は言えないのではないでしょうか。
「申し訳ありません……」
私は深々と頭を下げました。
何卒ご容赦願えないものでしょうか。
「謝罪はいい」
渋い顔の伯爵さまは、少しだけ小さくなった声で私にこう質問しました。
「ところで確認だが、この森にいるということは君は俺の城に向かっていたのか?」
「はい……」
「ということは、君は俺のところに来るのが嫌で逃げ出した訳ではないんだな?」
「はい」
「その、俺のところに来てくれる気ではあったんだな?」
「はい」
「本当だな」
「はい。勿論です」
私はしっかりと頷きました。
伯爵さまの所に行くのは涙が出る程恐ろしいのですが、それでも私は伯爵さまの元で誠心誠意身を粉にしてお仕えするべくこの辺境の地・エルフローゼに来たのです。
伯爵さまの召使いとしてこき使われるべくここに馳せ参じたのです。
その覚悟に嘘偽りはありません。
「そうか……フン。ならば明日から忙しくなる。覚悟しておけ」
「はい。私はこれから全身全霊で伯爵さまに仕えさせていただく所存でございます」
まだ狼に咥えられたままの私は宙でブラブラと浮きながら、コクコクと頷いたのでした。
と。
伯爵さまが思い出したように「降ろしてやってくれ」と呟きました。
その言葉は私に向かって発せられたものではないようです。
不思議に思って見つめていると、伯爵さまの言葉に頷いた大きな狼が私を地面に降ろしてくれました。
伯爵さまが狼たちと会話をすることが出来るという話は、どうやら本当だったようです。
久しぶりに感じる地面の感覚をしばし堪能してから、私はハッと自らの出で立ちに気が付きました。
元々ボロボロだった服ですが、狼に咥えられたことによってボロボロのくちゃくちゃになっています。
明日の朝、なけなしの一張羅で伯爵さまに挨拶するつもりだった私は、予定外のタイミングで伯爵さまと対面したことにより、とてもではないけれど主人となる人物に見せられないような酷い恰好をしています。
伯爵さまが眉間にしわを寄せました。
もしかしたら、この薄汚い貧乏令嬢になぜ7千万ルピーも払ってしまったのかと思われたのかもしれません。
確かに私などに7千万ルピーの価値があるかは自分でも疑問なのですが、お金を返せと家族が迫られるようなことになったらどうしましょう。
私が青ざめていると、伯爵さまが恐ろしく冷徹な顔をして私に腕を差し出してきました。
その腕には、伯爵さまが羽織っていた物凄く高価そうな大きな外套が掛けられています。
「そんな夏に着るような服を着て風邪を引かれては困る。看病してやらんこともないが、辛いのは君だからな」
「え?」
「だから、顔が少し青く見える。寒いのだろう?これでも羽織っていろ」
「え?」
「これでも羽織っていろと言ったんだ」
私はようやく差し出された外套の意味を理解しました。
首がもげるのではと心配になるくらい振って、辞退の意を示します。
「そんな!それでは伯爵さまの上着が無くなってしまいます」
「俺より君だ。つべこべ言わずに羽織っていろ」
「でも」
主人のお召し物を召使いが奪い取って温まるなんて、それこそ前代未聞です。
召使いとしてあるまじき所業です。
召使いの風上にも置けない行為です。
ですから私は全力で辞退したのです。
しかし、ずっと中央の都で育ってきたせいで辺境の気温を甘く見ていた薄着の私は、何とも間の悪いことに、このタイミングで盛大にくしゃみをしてしまいました。
「異論は認めん」
外套を強引に押し付けてきた伯爵さまに睨まれて、ギラリとしたナイフを喉元に当てられたような気分でした。
少しでも首を横に振れば、そのままスッと息の根を止められてしまいそう。
私はひゅっと喉を鳴らし、伯爵さまの外套を受け取る他なかったのです。
「ありがとうございます」
お礼などでは到底足りない施しを受けた訳ですが、お礼はきちんと言うべきです。
私が深々と頭を下げてから、伯爵さまのぶかぶかの外套にくるまりました。
暖かいです。
この状況、もしも物語なら、ちょっぴりドキドキしてもいいシーンなのかもしれません。
ほらだって、男性のブカブカサイズの服を貸して貰って着ているなんて、なんだかちょっとだけ色っぽいではありませんか。
でも実際は、ヒーローとヒロインのやり取りでは無く、主人と召使いのやり取り、もっと言えばラスボスと召使いのやり取りなので、私はひたすら恐れ多い気持ちでいっぱいでした。
一方の伯爵さまは、私から顔を背けるようにふいっと前を向いてしまわれました。
流石に寒いのか、耳が赤くなってしまっています。
ああ、本当に申し訳ない事をしました。
「申し訳ありません」
「別に、これくらい大したことではない」
伯爵さまはぶっきらぼうにそう言いましたが、これは私にとって大したことでありました。
とても温かい伯爵さまの外套に包まれた私のくしゃみと鼻水が、嘘のようにピタリと止まったのですから。
外套自体の内側がモコモコしていてとても温かいだけでなく、伯爵さまの体温でも温まっていたようで、私は肌を刺すような寒さから救われたのでした。