それは何の音でしょう?
実を言うと、私は夜も眠れないほどでした。
無理矢理眠りにつこうと瞼を閉じても、あの辺境伯さまの肉食獣のような鋭い目と、返り血に汚された白い頬を思い出してしまいます。
あの人に7千万ルピーで買われたなんて。
もしかして人体実験されてしまうのではないか、もしくは試し切りに使われてしまうのではないかと心配していました。
家族の前では気丈に振舞ってみましたが、私はやっぱり恐ろしく思っていたのです。
でも、その心配は数日後に気持ちばかりですけれど払しょくされることになりました。
辺境伯さまに買われることが決まった後に父が仕入れた情報によれば、ある日の伯爵さまはこう述べていたそうです。
「俺がどこかの金持ちの様に薄汚い下心を持っている訳などなかろう。ただ、あの変態公爵爺の所に行けば何をされるか分からないしそれにあんな爺のところに行くくらいなら彼女だって流石に俺のところの方がマシだと思ってくれるのではないかと……何?いや、断じて違う!彼女はただの召使い要員だ。丁度こき使える召使いが欲しいと思っていたところだったからな」
私はしっかりと召使いとして買われたようでした。
人づてですけれど、言質は取りました。
伯爵さまが私を召使いとしてしっかりこき使ってくれるのであれば、少し安心です。
これならば、家族も私の生命を案じて過分な心配はしなくて済みます。
そして私も、心置きなく召使いとしてこき使われることが出来ます。
私は少しだけ軽くなった気持ちを胸に、荷造りを始めました。
といっても、そこは貧乏令嬢。鞄がパンパンになるほどのものはありません。
使えそうな服と、使えそうな掃除道具、それからお古の調理道具にお下がりの裁縫セット。
それくらいが私の全財産です。
物が少ないながらバタバタと準備をしていたら、あっという間に辺境伯さまのお屋敷へ働きに行く日が来てしまいました。
「では、行ってまいります」
まだ薄暗い早朝、私は生まれ育った大切な家と家族に挨拶をしました。
「イルゼ、体に気を付けて」
「イルゼ、ごめんね。ありがとう」
「イルゼ、元気でね」
「手紙、書いて寄越しなさいよ」
「きっと、会いに行くから」
皆が口々に言って、私と抱擁を交わしました。
ホントのところは、次にいつ皆に会えるのか分からなくて寂しいのですが、感情を表に出さずに笑顔を作ることは得意です。私は笑って両親と姉たちに返事を返していきました。
荷物を持った私は一度街に出て、辺境行きの馬車に乗りました。
お金はないので乗り合いです。でも辺境なんて行く人が少ないので、馬車はガラガラです。
私は窓の向こうを過ぎていく見慣れた街の景色を瞼に焼き付けていました。
あそこのアイスクリーム屋さん、年に一度のお祭りの日だけ買っていたのですよね。
あそこの広場の噴水、幼馴染の男の子だったローレンスと待ち合わせしましたね。それで一緒にお祭りに行って、彼が私に玩具の指輪を買ってくれたのでしたっけ。彼は王都に行くと言ってこの街を出て行きましたが、今頃何をしているのでしょう。
あ、そうだ。あのパン屋の子、元気でしょうか。
街角の本屋の御夫婦、ぎっくり腰再発してないと良いのですけれど。
朝一番に出発したガラガラの馬車は、私と数人の乗客を乗せて北へ北へと進みます。
窓から見えていた景色は徐々に徐々に私の知らないものになっていきます。
そして気づけば、馬車は国の中央に近い場所にある私の家からはすでに遠く離れたところに来ていました。
もはや私の知る景色はこれっぽっちも残っていません。
「乗客の皆さん、休憩されます?」
馬丁さんが馬車を止め、わざわざ私たち乗客に声を掛けに来てくださいました。
私たちは小さく頷き、ずっと座りっぱなしだった体を伸ばすべく外に出ました。
「少しだけさむいですね……」
北へ向かっているのだから当然です。
でも冷えた風に頬を撫でられた私は呟かずにはいられませんでした。
「お嬢さん、どこまでいくつもり?」
「私はエルフローゼまで」
なにか暖かそうな飲み物を手に持って私の傍にやってきた馬丁さんに声を掛けられました。
私は話し好きそうな馬丁さんに倣って、気軽に返事を返しました。
「えっ。最果てにかい?その薄着で?」
「薄着……でしょうか。これでも家で一番温かいコートを持ってきたのですけれど」
「あー、だめだめ。そんなの向こうじゃ裸同然だよ。凍え死んじゃうよ。もっと厚手のコートを着ないと」
そんなことを言われても。
寒いとは聞いていたので冬服をしこたまバックに詰め込んできましたが、なにせ私は超ド級の貧乏令嬢。
高級な厚手のコートなど買えません。
これでは本当にいけないのかな、と私は自らの着ているコートをまじまじと見つめました。
私は、貧乏あるあるで体温が高いです。
また、貧乏で風邪などひいていられない状況にあったので、体はとても丈夫です。
だから、きっと大丈夫。
寒いので有名な辺境でも、このコートでなんとかやっていけるでしょう。
いえ、やっていくしかないのです。
……と思っていましたが。
結論から言うと、私はとても甘かったのでした。
極寒を冠したそのエルフローゼの地は、私の想像を遥かに超えて寒い土地でした。
乗り合いの馬車が北の最果てエルフローゼに着いた時刻はもう殆ど深夜。
私の頭上には巨大なお化けのような夜の闇が広がっています。
星もなく、真っ暗です。
おまけに、エルフローゼで一番大きな街の灯ももうチラホラとしか残っていません。
そればかりか、雪も降ってきました。
なんとなく、この光のない寒い光景はこれからの私の行く末を表しているようで、そこはかとなく恐ろしく感じてしまいます。
……いいえ、いけません、いけません。
始める前から希望のない道を想像してしまうなんて、そんな事では先が思いやられます。
私は、事前に送られてきていた地図を懐から取り出しました。
伯爵邸への道のりを示した地図です。
寒さに震える指でなぞって確認して、私はふうと白い息を吐きました。
馬車の長旅が終わってからも、私のこの旅は終わりではありません。
ジークフロスト伯爵邸は、この街から小一時間ほど北に行った場所にあります。
大きな城なのだそうですが、北の城塞とも呼ばれるだけあって砦の近くにあるのです。
私は、この深夜にそこまで歩いて行かねばなりません。
この凍える寒さの中、進まねばなりません。
私は積もった雪の上をザックザクと歩き始めました。
足を動かさないと前には進めませんもの。私は懸命に歩いて行きます。
ザクザクザクザク。
ザックザック。
私は歩いて歩いて、ようやく街を抜けました。
街を出れば、次は森を抜けねばなりません。
この私の眼の前に広がる暗い森を抜けたところに、私の勤め先、伯爵のお城があるのです。
私はぎゅっとこぶしを握りました。
たとえこの森がすこぶる気味が悪くとも、行かねばなりません。
私にはこの街で宿を取るようなお金はありません。
それに、もう到着予定の日時を伯爵さまに伝えてしまっています。だから伯爵さまは、私が明日の朝から働き始めることを想定しているでしょう。
それなのに遅れてしまっては、私は買われた召使いとしての責務が果たせません。
ザクザク。
私は周りを見ないように突き進むように森の中に入りました。
周りを見なかったのは、単純に怖かったからです。
そして、森が早く終わることを祈りながら出来る限りの全速力で進んでいきました。
積もった雪と、雪の下に隠れている木の根草の根に足を取られるようにしながら、もつれながらも私は進んでいきます。
しかし、ふと足を止めました。
どこからか、異様な音が聞こえたからです。
どこか生々しい、生き物の息のような、グルルルと喉を鳴らしているような音が聞こえました。
そして一つに気づけば、その音が幾つも聞こえることに気が付きます。
グルルルル。
ガサガサガサ。
私のものではない、草が掻き分けられる音がします。
どうしよう。
私の背筋は一気に凍りました。
なにかよからぬことが迫っている事だけは分かります。
全身が逃げろと叫んでいる気がします。
しかし、脳が「逃げろって言ってもどこへ?」と半べそをかいています。
星のない夜の暗い森の中ですが、きらりと赤い二つの目が藪の中に見えました。
それが何か、私は察しました。
諦めと恐怖が入り混じったような気持になりました。
私は座り込んでぎゅっと目を瞑ってしまいたくなるのを堪えて、鞄を抱きながら祈ることしかできませんでした。
やっぱり、お金が無くても何としてでも宿に泊まるべきでした。
野宿をしてでも街に留まるべきでした。
ここで私が死んだら、私の家族にお金は渡されるのでしょうか。
いいえ、渡されるはずはありませんよね。
ああ、私は何と愚かだったのでしょう。
ガサガサと音がして、暗闇から大きな体の狼が私に飛び掛かってきました。
ああ、狼。
そうかもしれないと思いましたが、そうであってほしくはないと願っていました。
暗くて気味の悪い森ですが、街と伯爵邸の間にある森ですから、余り凶暴な獣はいないものと楽観視していました。
私は向かってくる狼の牙が怖くて、思わず尻もちを付き、目をぎゅっと瞑ることしかできませんでした。