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隠れ里  第三部  作者: 葦原観月
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再会

我が子を連れ戻しに島へ渡る平佐田は、智次を彷彿とさせる少年に心惹かれます。

お宝探しの仕掛け人、石坊は平佐田と共に島へ辿り着きます。各々の思惑の中、島の時は動いて行きます。

 なんにしても、口が痒い。おまけに潮風が〝髭〟を煽り、鼻の辺りでもぞもぞと揺れる。だから、ひたすらに、くしゃみを耐えている。一度、大きく「へくしょん」とやり、飛んでいった髭を拾う難儀を経験したからだ。


 久々に勇壮な島神様のお姿を拝見しようと、硫黄島行の船底に身を隠すように縮こまっていた平佐田は、寝ている人たちの間を縫って船上に出た。足元はいささか頼りないが、今回、〝船酔い〟は幾分かましだ。三日間の訓練は無駄ではなかったらしい。


「船酔いなんかしたはる場合では、おまへんわ」


滋子の気負いに押され、用もないのに漁師の舟に乗せられ、近海を漂うたる試練を受けた。大きな船が近くを通り過ぎるたび、「おい、ここで死ぬんじゃなかろか」と寿命が縮まる気がしたものだ。

 横で舟主の漁師と一緒に、がはがはと機嫌良く酒を飲み交していた人物は、言わずもがなの沢蟹だ。沢蟹の顔は、でかいだけでなく、広くもあるらしい。


 三日に亘って続いた試練のおかげで、既に船に乗る前から船酔い状態で、くらくらと頭が回っていた。が、船に乗って揺れ出してから後は、くらくらがゆらゆらと微妙に重なって、前回よりずっと調子がいい。


「気張れや、父ちゃん。可愛い女房と子のためじゃ。失敗したら、おいどんが滋子さんを貰う。あんな別嬪、そうそうおらんからな」

 沢蟹の激励に肝を潰し、くれぐれも沢蟹には気を付けるように、と滋子に念を押してきた平佐田だ。


 数年前、後ろ髪を引かれる思いで島を出た平佐田だったが、戻った山川薬園では毎日が忙しく、島を懐かしんでいる暇もなかった。

 真面目に頑張った甲斐あって、薬園師に昇格。更に、またまた〝真面目に頑張った〟甲斐あって滋子の腹に、小さな命も授かった。全ては、順風満帆――と、思いきや、ここでまたまた平佐田は、大風にぶっ飛ばされた。


「いったい、おいが何をしたというんじゃ。おいは神様に呪われとるんじゃろうか」


 さすがの平佐田も、苛立ち気味に枳殻を蹴り、足先に刺さった棘に蹲った。その理由は……


 生まれて間もない大切な我が子が、忽然と姿を消したからだ。


 生まれた子は男の子。滋子に良く似た、大層な器量よしで、「御人形さんみたい」と、近所でも評判の赤子だった。ともかく可愛くて可愛くて、寝る間も惜しんで見惚れていたほどだ。


 赤子が消えたのは、昼日中。平佐田が仕事に出て、滋子が赤子の横でうとうとと眠り込んでいる、ほんのわずかの間だった。滋子の尋常ならざる悲鳴に、近所中が大騒ぎとなり、隣の内儀が大急ぎで平佐田に報せを持ってきた。


 取り乱し、自分を責める滋子を宥め、

おいが絶対に、子を取り戻す――。

 平佐田の宣言は、滋子にしっかりと届いたようだ。平佐田は島の英雄である。

 島であれば神隠しとなるところだが、人の出入りの激しい本土では、「神隠し」よりも「人攫い」が常識だ。親となって初めて、「人攫い」の言葉の恐ろしさを実感した。救いがない。


 それでも「我が子は、きっと元気でいる」と、折れそうになる心に、叩き付けるように言い聞かせ、平佐田は仕事の合間を縫って、必死に子を探した。

 そんな平佐田夫婦の元に届いた報せが、時子の帰還だ。鬱ぎがちの滋子にとって、唯一の朗報は、平佐田にとっても元気づけられる報せであった。

我が子も、きっと帰ってくる――


気を取り直して頑張る二人に、神様は容赦なかった。時子の死。

「うちのせいや、うちのせいで皆が……」

取り乱す滋子は、島を出たことを悔い、島神様の祟りだと、大騒ぎとなった。

 我が子の行方に一向に朗報はない。放心状態の滋子が、ふと、

「子は? 時子の連れとった子らは、どないなるんやろ。ああ、そうや。うちが育とったらええのよ。きっと島神様は、そう望んではる」と呟いた。


 もとより平佐田に異存はない。我が子のことがなくても、大好きな智次の子と思われる二人の子は、平佐田にとって宝でもある。

 誤魔化すわけではないが、滋子にとって今、妹の子を傍に置いてやることは、いい気もした。

 探し続ければきっと、我が子は帰ってくる。親を失った子供、子を失った親は、互いに励まし合って生きていける。


 お館家の畠山様に手習いを始めた、上の子の安仁から文が届くようになり、平佐田夫婦は安仁の文を心待ちにするようになった。

 とにもかくにも溌剌と元気な安仁の文は、島の出来事や、下の言徳の成長ぶりを報せ、滋子の心を大いに和ませた。

 我が子の成長と照らし合わせているのだろう、時折ふっと涙ぐむ滋子を抱き寄せながらも、すぐさま引き取らなかった理由は、「言徳が可哀想」たる、意外な滋子の言葉だった。


貰い乳をしている赤子は、乳をくれる人を母と思っているかもしれない。仮の親子であっても、母子を引き裂くようなことは、してはならない。

 滋子の言葉には、深い思いやりがある。母親の愛情の深さに、平佐田は郷の母親に文を書くようになった。

(いつか、子らを連れて、郷に挨拶に行こう)

しみじみと親不孝を恥じた。

 

時が流れ、我が子の捜索も進展を見せず、夫婦の間にもそろそろ……次の子を――。そんな空気も流れ始めた。

 子のことは諦めない。だが、いつまでも子の失脚を嘆いてばかりでは、先には進めない。

 安仁と言徳のおかげで、少し元気を取り戻した滋子は、近所に生まれる赤子を羨ましく見るようになった。以前は目を背けて、涙していたものを。


「ここは一つ、気張って男を上げにゃならん。上が三人とも男であれば、今度は是非に女子が欲しい」

 平佐田自身もそんな余裕が出て来た頃……

とんでもない事実が発覚した。


 言徳こそが、攫われた我が子である――


 訳の分からない朗報は、宗爺からの文だった。事実を告げたは、安仁らしい。

とにかく、何が何やらだ。今まで何度も文のやり取りをしていて、安仁は一言もそのような事実を仄めかしもしなかった。理由は……

 畠山様にあるようだ。安仁を溺愛する畠山様は、安仁の手習いの上達が気になるようで、文を書けば読みたがる。安仁としては、内容が内容なだけに、畠山様の目に触れさせるわけにはいない。かといって事実を告げる手段が、他にない。

 結果、一番これまでの状況を把握し、お館家寄りでもない、平佐田とも懇意である宗爺に白羽の矢を当てたようだ。

 当の宗爺も、さすがに真実を聞いて、魂消たようだ、何度も読み返した文の文字は揺れ、内容も途切れ途切れである。それでも平佐田は何とか内容を読み取った。大事なことは――


 言徳は平佐田夫婦の子であること。

言徳を攫ったのは、お館様であること。

安仁は、うちなんちゅの密偵であること。

お館様と琉球王は言徳を戦に連れ出そうとしていること。

本土を騒がす戦の芽は摘むべきこと。

御子様を再び戦に駆り出すべきではないこと……


(ん? 御子様?)


引っ掛かりはあったものの、ともかく、言徳が我が子であれば連れ戻さなくてはならない。安仁は言徳の背に、強く抱えられた跡のような痣があると述べている。我が子にも痣があった。

 離すまい、離すまいと、必死に抱えられたような跡……

「消えるやろか?」と滋子が、随分と気に掛けていた痣は、平佐田もしっかりと覚えている。


 事情は今一つだが、ともかく島に来て欲しいと綴られ、平佐田にはまるで異存はない。

 内容はどうであっても、安仁も宗爺も、平佐田にとって信頼できる人物に違いはない。何よりも、我が子が島にいるという情報には、じっとしてはいられない。

 ただ……お館様が我が子を攫った、たる情報には胸が痛むが、真実は己の目で確かめる必要がある。したがって、祭りの日を前に、早々に島に向かっている次第だ。〝変装〟は知り合いの目を誤魔化すため。

 祭りの準備に、島には出入りが増えていると言う。島人が本土へ出向いている可能性もあれば、祭りに招かれた客の中に、平佐田を知っている人物がいないとも限らない。島の英雄は、結構これで、島の内外で有名人なのだ。


「せんせ」


 いきなり後ろから掛けられた声に、平佐田は飛び上がった。

(誰じゃ、おいを知っとるか?)

せっかく髭をつけてきたが、船の中には平佐田の見知った顔はいなかった。(髭、とりたいなぁ)と、平佐田は思い始めていたところだ。


「見てみ、島が見えてきた。居王様じゃね。荘厳じゃ。儂、好きじゃ、この島。神様がおられう」


 感に入った声に、平佐田の目が緩む。初めて島を見た時に、横にいた智次の感動が蘇る。何だか、とても懐かしい。(智次坊……)

 見れば声の主は船底で隣にいた少年だ。商売のついでに、祭りの準備と片付けを頼まれていると言う。色の黒い、いかにも元気そうな少年に、平佐田は少しだけ智次を思い出して、親しげに話していたのだ。

「せんせ……と違うんか? 本があったろ、儂は詳しうはないが、あれは薬草の本じゃね。医者か思うとった」

 何も言わない平佐田を、不思議に思ったのだろう。少年は申し訳なさそうに頭を掻いた。屈託のないところが、やはり智次を彷彿とさせる。


「そうじゃよ。医者じゃ。島のせんせと、懇意でな。祭りに呼んでもろた。あぁ、よかね、この島には、ほんに……神様がおられう」


 二人で並んで白の中から現れる島を待ち、「わぁ」姿を現した島に、同時に声を上げた。


 船着き場が遠く見え始め、荷を取りに戻ろうとした平佐田は、ふと、少年を振り返って訊ねた。


「おまん、名は?」

「儂か? ん~〝石〟かな? 石坊言われとったが、いい加減「坊」は、な。もう餓鬼でもないし。考え中じゃ、せんせもなんぞ考えてくれん?」

 ぱっ、と破願した少年に、平佐田も笑い返す。

(石坊? はて、どこぞで聞いたような……)

「島んかいつくよぉ~、降りる支度、してとらせよ~」

 理解できるうちなんちゅの言葉に、ほっとした平佐田は、荷を取りに、船底へと向かった。

         (六)

「検めるは構わんが、丁寧に扱えよ。お館様へ言付かって来た品じゃ。高価なもんじゃから、壊しでもすれば、おはん……ただでは済まされんぞ」


 高く響く声の主を認め、(やれやれ)と那医は、船着き場へと歩を速める。

「おまんは? 何もんじゃ、商人……には見えんが?」

 しゃがみ込んで広げた荷を覗き込んでいる男は、つい最近、本土から送られてきた役人だ。

 まだ若い男は、此度の島の祭りを監視するために、臨時で送られてきたようだ。祭りの準備に物資と人の出入りが多くなっている。島に在住の役人だけではとても手が回らぬと、申請を出したらしい。

「儂か、儂は、将来のお医者様じゃ。蘭学を学んどる。おはん……顔色が悪いぞ。悪い病と違うか?」

 はた、と動きを止めた男が怪訝そうに、蓬髪を束ねた薄汚い身なりの少年を眺め倒した。


(あちゃあ)

内心で頭を抱えた那医が、すかさず役人に声を掛けた。

「田之上様。それは、お館家の手伝いに来たもんです。儂が迎えに来ました。石坊、ご苦労。お館様がお待ちかねじゃ」


 振り向いた役人に頭を下げれば、(あぁ、そう)とばかりに、役人は小さく頷き、さっさと立ち去った。

 臨時の役人たちは全員、吉野が引き連れお館家に顔を見せに来ている。お館家のお抱え医者と紹介された那医の顔は、承知だ。

「那医さん、久しぶり。年ぃ食ったなぁ。儂、男っぷり良うなったろ? 石坊はやめてくれん?」 

 口も減らなければ、生意気な態度もそのまま。石坊の茶色がかった瞳が、色を変えることなく鈍く光る。


(相変わらずじゃ)

 小さく息をつく那医に、にかっ、と笑う顔も相変わらず。ついつい引き込まれてしまう自分を叱りつけ、

「変わらんな。餓鬼のままじゃ。静かに来いと、聞いとらんか? 役人の気を引いて、いけんすう。大事な役目の前じゃ。おまん、自分の仕事、わかっちょる?」

「うん。わかっちょるよ。〝客商売〟じゃから、売り込みはせんとね。ああいった〝無高郷士〟の末裔みたいなんが、この先とんでもない大事に関わるもんじゃ。仕事は自分で見つけんと……儂に親は、おらんから」

 さらり、と言って荷を纏める。

(ほんにこれは、油断ならん)

 思いながらも、つい荷に手を伸ばす自身には呆れる。さっさと次々に、荷を手渡す相手にも。

(実に、おかしな関係だ)

思う那医の手が止まった。

 石坊が最後の荷を手にしたまま、じっと前を見ている。


「?」

那医が石坊の視線を追った先に、島医者の宗爺の顔が見えた。

 好々爺らしく皺深い笑顔を見せた宗爺の前に、男が一人。風呂敷を背負っているからには、島を訪れた余所者だろう。

 特別、これといって特徴のない男は、これまた特徴のない様子で、宗爺の後を従いていく。だが……那医は何とはなしに、懐かしさを感じた。後を追って、声を掛けたい衝動に駆られ、身を乗り出した那医に、

「行くよ。お館様が待っとるんじゃろ?」

さっさと荷を背負った石坊が袖を引いた。

 密偵の勘で、那医は石坊に訊ねる。

「気になるんか?」 

 目を返した石坊には、ひやっ、とする。陽を受けた茶色の瞳は、お館様を彷彿とさせる。

 石坊の目は、お館様と違って常人と変わらず〝見えている〟と知ってはいても、お館様と同じものが潜んでいると感じさせる。

 ぞわり、と頭の中を撫でるような感触……那医は、これだけは何ともいただけないと思っている。我が子のように思う石坊の、唯一「信用ならん」と思う部分だ。


「いや……せんせにしちゃあ、ちぃとなりが違うなぁ思って」

 からっ、と笑う石坊に、那医はほっとしながらも、小さく笑う。

 確かに。島医者の宗爺は、見た目は、ただの島の爺に見える。年の割に筋肉の張った体は、漁師にも見えるし、煮しめたような着物は、本土の医者が着るような代物ではない。たくし上げた裾も、擦り切れた履物も、本土の医者の姿を見慣れている石坊には、奇異に見えるだろう。

 が、それでも「せんせ」と見破った目には、感心させられる。さすがは将来を期待される、うちなんちゅの密偵である。

「あれは島医者、宗爺っちゅう」石坊の言うせんせを宗爺だと合点した那医の言葉に、

「そう、宗爺ね……ふぅん」

関心が薄れたようにくるりと背を向け、石坊はすたすたと歩き出した。

       (七)

 がたん、と大きく揺れた船に、思わずつんのめった平佐田は、慌てて口元を押さえた。できればさっさと取ってしまいたい付け髭は、ふわり、と揺れて、鼻の下に納まった。


とうとう着いた。懐かしい景色には、ひとしおの想いはある。だが、それよりもなによりも、我が子がここにいると思うと、ばくばくと胸が騒ぐ。


(滋子さんと同じじゃね)

 近頃では胸の騒ぎかたが、以前とは違う滋子には、「いつ叱られるか」と、ひやひやものだ。

 かといって、我が子には、これ以上「ひやひや」はしたくない。「父ちゃんに心配を掛けるんじゃない」と、尻の一つも叩いてやりたい気分だ。


 そそくさと荷を背負った人たちが、迎えの人の中に消えていく。見知った顔が多く見えて、懐かしさに目の奥が熱くなった。

 ついでに、ふわり、と臭う硫黄にすら、胸がじんと来て、懐から出した手拭いで口を塞いだ。


「御客人、硫黄じゃよ。最初は気になるかもしれんが、大丈夫、すぐに慣れる。温泉があるよ、腰痛に良く効くんじゃ」

 なかなかの偉丈夫な若者が、背を叩いて通り過ぎる。船の荷を下ろしに来たのだろう。懐かしい顔は変わっていない。智頼家の隣の定清だ。よく一緒に温泉に浸かった。

「やぁ、久しぶり」と、思わず出かかった言葉を、平佐田は手拭いの奥へ押し戻した。

「それは、それは。一度、出向いてみましょう」

頭の先から出すような声で会釈すれば、定清の顔が一瞬ふっと曇った。

(まずかったかな?)

 生真面目な平佐田は、人の親切を無言でやり過ごせない。せっかくの変装も声でばれたら、元も子もない。

緊張が走った平佐田に、「変な声……」

 恐らくは呟いたつもりの声が、平佐田の耳に届いた。定清の地声の大きさは、相変わらずらしい。

 苦笑しながら定清の後ろ姿を見送っている平佐田に、甲高い声が聞こえてきた。


「はぁ? 荷を見せろっちゅうんか? 何でじゃ。別に、おかしなもんは持っとらん。言付かり物じゃ。本人が言うんじゃ、間違いなかろ」


 見れば船で知り合った少年が、平佐田の知らない役人に通せんぼを食らっている。またまた人のいい平佐田はすぐさま出て行って「この子は怪しい子じゃない」と、口添えてやりたい気分になる。

 だが、目立ってはならない。正体がばれずに島入りするようにと、念を押されている。

 何とも落ち着かない気分で、おろおろと様子を窺っている平佐田に、

「失礼。貴殿はいずこの御客人でしょうか?」

 またまた聞き馴染んだ声は吉野だ。心ノ臓が飛び上がる。手拭いで口元を押さえたまま振り向けば、「おや?」といった体で、幾分か顔が丸くなった吉野が、「船酔いですかな?」心配そうに顔を覗き込んだ。


(わぁ。困った)

平佐田の心ノ臓は飛び出しそうだ。

 ともかく、大きく手を振って頷けば、心配そうな顔が引く。やれやれ、と思った平佐田に、吉野は容赦ない。

「貴殿、お名前は?」

 そこで、はた、と平佐田は思い至った。名を考えていない。

 島に渡ってきた余所者を、役人が誰何せずに通すはずもない。当然の事態を平佐田が失念していた理由は、我が子への想いで一杯だったからだ。

咄嗟に「ひ……」と、平佐田の口から出た言葉に、

「ひ?」吉野の顔が曇る。

無意識に裏返った声は、怪しいことこの上ない。別の役人が吉野の背に近寄ってくる。後ろめたい気持ちが一杯の平佐田の背には、どっと汗が湧いて出る。


(いけんしよう。もしかしたら、お館様に、おいの〝密航〟がばれたんと違うか?)


 近寄ってきた役人が、吉野に耳打ちをした。平佐田の息が詰まる。刹那――。

「はぁ」間の抜けた声を出した吉野が、平佐田をまじまじと見つめた。

「比良せんせと言われるか。宗爺が探しちょるそうです。おい、案内してさしあげろ」

 吉野は振り向いて役人に命じ、平佐田に向かって、にこり、と笑った。

「人見知りの激しい医者とは……宗爺も、変わった友人をお持ちですな。せんせ、祭り、楽しんでってください」

 へなへなと腰が砕ける平佐田を、後ろに回った役人が慌てて支えた。         

            (八)


「魂消たろ?」

「はぁ……」


 ようやく落ち着いた気分の平佐田は、一気に飲み干した白湯の碗に目を落とし、底にへばりついた黒に目を見張る。

「髭、髭」

宗爺の苦笑に、平佐田も苦く笑った。神の島は魂消ることばかりだ。


 年季の入った調度品、煮しめたような敷物、薬草の匂いが、ほわり、と鼻孔を擽る。

 智頼さんの家とは比べ物にならないほど小さな家は、むしろ庵を思わせる。平佐田が座している部屋は、診療所も兼ねているという、家の中で一番広い部屋だ。


「まぁ、殆どが往診じゃから、滅多に人は来んよ」宗爺の言葉に、平佐田は雨に濡れた蚰蜒(げじげじ)のような髭を付け直した。

「それで……安仁は?」

ついつい小声になって、隣の部屋に視線を向ける。宗爺は笑いながら、首を横に振った。

「舞の稽古に行っちょる。何せ、栄えある〝島男七人衆〟じゃから。ここ数日は、仕事もそっちのけで、猛特訓じゃ。静香の気合いは只事じゃない。初めての祭りじゃ。粗相があってはいかんと、必死なんじゃよ。新たな島神様をお迎えする祭りは、神官の家としては、大事な行事じゃろう。後々に伝えられるものとなる」


 いつか智次たちと一緒に出向いた家で、「願うか」と問うた狐顔の巫女を思い出す。きっと、あの人が静香さんだ。

「最後じゃから、安仁も淋しいんじゃよ。重国は実にいい男子でな。重国の〝群れ〟は、島一番の島男の集まりじゃ。だから、島神様をお出迎えする、島男七人衆に選ばれた」

 しみじみと言う、宗爺の皺に埋もれた目が、微かに揺れる。

 島医者である宗爺は、子供たちの成長を目の当たりに見続けているのだ。仲良く縺れ合いながら、育っている子供たちの深い絆を身に染みて感じているのだろう。

 平佐田も、島の〝群れ〟は知っている。島の男子に特有の社会は、親の手を離れた男子の住屋のようなものだ。家族よりも深い絆で結ばれている。


平佐田が先生をしている間、〝群れ〟同士の喧嘩もよく目の当たりにした。

島の大人たちは決して、〝群れ〟のことに口出しはしない。それぞれに固く結束した〝群れ〟は、互いに牽制し合い、段々と認め合っていくのだ。

 いずれ大人になれば、協調するようになる。「島」たる一つの世界に生きるため、島を守っていくために〝他人〟も必要なのだと、理解するようになるからだ。

〝群れ〟の頭同士が肩を並べれば、自然、同輩たちも頭に従う。島の結束の根本は、そこにある。誰が決めたでなく、昔からの倣いなのだと、智頼から教えられた。

 大人になった今でも、親兄弟よりも〝群れ〟の友人が何よりも大切なのだと言った智頼の顔は、平佐田は忘れることができない。一人、〝群れ〟を去らねばならない安仁の胸の内は、想像がつかぬほどに複雑なものであろう。


「群れの頭は、重国じゃ。だが、不思議なもんでな。儂には、全員が安仁の元に纏まっているかに見える。普通、そういった場合、群れの中で揉め事が起きるもんじゃが、不思議と、それがない。いずれも一癖も二癖もある群れの朋輩全員が、安仁を慕っておるんじゃよ。特に、頭の重国。血の気の多いあれが、安仁には傾倒しておってな。一部の島人から差別視されておった安仁を守ったのは、重国じゃ」

一度、大騒ぎがあった。重国と貞能が、安仁を嫌った島人を相手に大暴れした。たまたま近くで往診していた宗爺が駆けつけた折り、二人を必死に宥めながら、安仁は泣いていた。

「いいんじゃ、おおきに、おおきに」

 

 胸が熱くなる話だ。友人のために憤る男は、男の中の男。〝おいどん〟だと、平佐田は思う。島には〝おいどん〟が、たくさんいる。


「安仁が何者であれ、他人の中に見つけた家族。何よりも大切なものであるには違いない。だが、それでも、安仁は島にはいられない。友人たちの悲しむ顔も見たくはないんじゃろう。再びまた、会うことができる立場であれば、それもいいが……儂は〝密偵〟たるものの実態を知らんから、確たることは言えんが、一所に留まっておれるもんでもなかろ。時に、非情にならねばならん事態もあろうから、(しがらみ)は持ってはならんのではないか? 違おうか」


(いやいや。柵に雁字搦めで、情に流されっぱなしの〝密偵〟もいたんじゃ。一概には言えんよ)

いささか反省気味に平佐田は思う。


「だから〝神隠し〟を? ちょっと突飛すぎるんじゃなかね」

「無理もなかろ。まさか、真実は告げられん。家族のように慕った友人が〝密偵〟だったなんて、子らに言えるか? まぁ、そこで友情が壊れるとは思わんが、同じじゃ。もう二度と会えん」

 胸が痛くなる。


「予定通り、おいと一緒に本土へ行くと言えば? 子らも、それには納得しよう。大事な友人が忽然といなくなるより、伯父の元で暮らしちょると思うたほうがずっと……」

「せんせ。重国を舐めたらいかん。あれは、行動力のある男子じゃよ。体力も気力もある。貞能と二人、さっさと舟を出し、本土へと渡るくらいのことは、平気でしよう。遠路はるばる友人に会いに来た若者らに、せんせは何と言う? 自身の身の上を隠すことすら拙いせんせがつく嘘なんか、島を切っての悪餓鬼どもには通じんよ。せんせは結局、ほんとのことを言わねばならんくなる」

(う~む)

自分の嘘の下手さは身に染みている。ほんのちょっとの小さな嘘ですら、滋子の巧みな京訛りに崩されてしまうのだ。

「へぇ。それもおますんどすけど、まや、別に。神隠しのほうが都合がええんどす」

 突然の京訛りに平佐田が飛び上がる。

「し、滋子さん?」

「伯父御は、よほど伯母上の尻に引かれておられるんですね、時子さんの言うたとおり……」

 ぷぷぷ、と屈託なく笑う声に、平佐田は髭を飛ばして振り返った。


御館家の祭りが、静かな島を動かします。島の子供たちとうちなんちゅの密偵。島神様は島にいる人々を温かく見守ります。

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