そもそもアニメの太郎系主人公が嫌われる原因はWEB投稿小説とアニメの媒体による差がでかいと思う
さて、この前に書いている”なろう系主人公が嫌われる理由は?”というエッセイには、結構同意の感想が付いたのですが、そういった違和感というか主人公に対する怪物感というかサイコパス感を感じる読者も結構いるとしても、実際ポイントをとってるのは事実なのですよね。
そして、WEBにおいてなろう系主人公嫌いという話題は、いわゆる太郎系アニメの主人公であることがほとんどですし、そういった、太郎系アニメの評価もぼろくそなことが多いですね。
なろうでは人気なのに、アニメが酷評される理由は媒体に違いによるものが大きいと思います。
WEB投稿小説は挿絵などがない場合が多く、文字媒体である上に、視点も一人称、もしくは一人称的三人称であるため、主人公と読者は一体化しやすい傾向にあるように思います。
そもそも読書好きというのは文章から作者の意図を読むという癖がついているはずですからね。
なので主人公の行動が少し行き過ぎているとしても、それによっておこった結果による爽快感のほうが、嫌悪感に勝る場合が多いと思うのですね。
特になろうの場合は3000文字前後の文章をぶつ切りにして更新していく場合が多いので、シチュエーションのインパクト頼みになりがちです。
ですから、常に主人公は「最高に「ハイ!」ってやつだアアアアアア!」状態になってしまうのもある意味仕方ないわけです。
またヒロインがちょろすぎ問題も、話がぶつ切りなわけですから、なかなか距離が縮まらないとそれにイライラして耐えられない読者が結構いたりするのではないかなという気がします。
ヒロインと出会ってくっつくまでに10話空いたら10日間待たないといけないわけですからね。
で、まずそれが書籍化されると、ノーストレスなのはいいけど主人公が常に「最高に「ハイ!」ってやつだアアアアアア!」状態になってしまうのは、うっとうしく感じたり、ヒロインが10分で落とされてちょろすぎてつまらなく感じたりするのでしょう。
なのでWEBの連載作品を一冊の本にまとめる場合には、ある程度10万文字程度の中で起伏があるように中身を変えないとだよねということなわけです。
で、さらにアニメ化された場合は主人公も含めての行動を客観的に視聴者は見ることになります。
なので、そういった目で見ると主人公が明らかに善人ではないのに、作中ではなぜか「良い人」として扱われてように見えてしまうのが視聴者には受け入れられないというポイントになるわけです。
一人称である小説の自分視点ではよい人として行動しているつもりでも、三人称であるアニメでは他人視点になるため、とてもではないが良い人に見えないとなってしまうわけですね。
またそもそもとしてアニメの場合は一週間に一度30分ずつ番組が放映されるわけですが。この30分という放映時間が週刊漫画のアニメ化には向いていても、小説などにはあまり向いていないのかもしれません。
実際アニメ化でのオーバーロードという成功作品はあるものの、オーバーロードは1クールであることが功をそうした感じが強いですし、アニメの制作費用もかんがみると、なろう作品はアニメ化よりも、電子で少しずつ配信する形のコミカライズのほうが向いているのではないかなと思いますね。
逆にかぐや様は告らせたいのアニメは成功したのに、実写映画が大コケしたのは、週刊連載の間隔とアニメの放映間隔がちょうどいいというのもありそうです。
さらには実写映画は主役の知名度頼みで演技が下手。
なので白銀がただのヤンキーにしか見えず、まったく頭良さそうに見えない、かぐやが育ち良さそうに見えない、石上に至っては何だあれ、藤原も原作ではあえて読まないキャラだが、映画では単なる頭の弱い子にしか見えないといいところがないうえに、脚本と演出が酷すぎるわけですが、選挙戦までを一本の映画にまとめたらそりゃそうなるよねと。
推しの子で今日甘の実写化を作者が愚痴っていたのは、そんな心情の吐露だったのでないかとおもいます。
そもそも原作のエピソードは、一話もしくは何話かで完結するタイプなのを、無理やりストーリーとして繋いでいるだけだから、グダグダにもなるというものです。
むろん、アニメの声優陣の演技が凄すぎて、それと比べると実写がひどく見えるというのもあるようですが。