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彼女とは海に程近い駅で待ち合わせた。けれど同じ電車に乗り込んでいることを発見した。声をかけるかかけまいか迷ったが、彼女もこちらに気づき知らん振りを決め込んだのを見てかけないことにした。僕たちは時々実に面倒くさいことをする。片田舎を走る私鉄電車には乗客はまばらにしかいない。温かい午前の陽が電車内に射し込んでいる。ひなびた一軒家の白い壁に太陽が反射して眩しかった。彼女は席に腰掛け、楽しそうにうつむいている。私服姿の彼女を見たのでとりあえず僕は頭をかいた。
目的の駅に着いたので僕は降りた。実に貧相な駅だ。石段がでんと据え付けられているだけで屋根もない。駅名を記した白い看板が長年の雨風に痛めつけられてひどく錆びている。三文字のその駅名は錆びのせいで一番下の文字だけがかろうじて読めるという状態だった。傍らに目を向けるとベンチが備えられてある。これも錆びがひどい。座部の右手前の部分がざっくりともぎ取られていて、ペンキの内部の木が内臓を見せるように雄叫びを上げていた。とても座る気にはならない。そんなことを考えていると僕の隣に彼女が来ていた。すぐ隣にいたのでやっぱり僕は頭をかいた。
「おはよう。待った?」彼女が言った。
「いいや、今来たところだ。全くの完全無欠に一ミクロンのうそもまじえずにね」
彼女が歩き始めたので僕も後に続いた。少し遠く見下ろしたところに大いなる海が広がっている。水平線まで見上げるとその上からは青い空だ。気持ちのいい雲一つない青い空。
「海に下りる?」彼女が聞いた。
「降りて海を眺めるんだよ」彼女がさきに歩いて僕が後についていく。
「雨だって言ってたけどね」
「天気予報は時々外れるんだ」
「ふうん。ねえ、晴れは好き?」
「雨の次くらいに好きだな」
「やっぱり君は変わっているね」
「君はなにが好きだ?」
「あたしは晴れが好きよお。こうやって、手を伸ばしたくなっちゃうような透き通った空が一番好き。翼を広げてどこまでも飛んでいきたくなっちゃう」彼女が翼を広げて飛んでいる姿を想像してみた。ありえそうな話だ。
途中自販機で二つジュースを買った。忌々しいが奢ってあげた。彼女はオレンジジュースを飲みたがった。幸運なことにオレンジジュースは売っていた。売っていなかったら遠くの自販機まで買いに行かされただろうか。僕はスポーツ飲料水を買った。
ずいぶんと汚い浜辺だった。枯れ木だとか、誰かが放り捨てた缶やペットボトルやビニール袋がそこかしこに埋まっていた。あまり気持ちのいい風情ではない。仕方がないのでもう少し歩いて、少しはマシなところを見つけた。
海が引いたり寄ったりしていた。寄る時に白い波が迫ってくる。穏やかな波だ。引いたところを彼女が走っていって、寄ると同時に走り戻った。失敗して、彼女は足首まで水に浸かってしまった。靴が水浸しだ。
「うう」彼女は悲しそうな声を出した。
「ま、走り出した瞬間に予想できたことだけどね」
彼女は僕の隣に来て靴と靴下を脱いで置くと、また波に向かって走っていった。波に向かっていったり戻ってきたり、楽しそうに走り回っている。僕は腰を下ろして彼女を眺めていた。今度はスカートが濡れるんじゃないかと思っていたが、彼女の想像を越えるような大きな波は一度もこなかった。
しばらく走り回った後彼女も僕の隣に腰を下ろした。靴と靴下はとりあえず天日干し。
「君は遊ばないの?」
「そんなことしたら恋人同士みたいじゃないか」
「一人じゃつまんないんだよ」充分楽しそうだったけどね。
「あいつの話をしてやる」僕は言った。「多分今日しかしない」
「あいつって誰?」
「僕が『あいつ』と呼ぶのは僕の親友だけだよ」
「なんでそんな気になったの?」
「あいつの言っていたことが少しは理解できるようになったからさ。いや、ほんとうは理解できていたんだ。理解できると認めることができるようになったんだ」
「言っていたことって?」
「『走れ走れ、人生は戦いだ』」
「なにそれ」
「あいつの遺書だ。そう書かれていた。
あいつはとにかく全身全霊を賭けるやつだった。なんに対しても。それがあいつの人生だった。常に生命を燃やし続けていた。どうだ、俺は生きているんだ、って全世界に宣言しているようなやつだった。僕が思うに、あいつが自殺したのは、生命力の表現だったんだよ。どうだ、これが俺の命の炎だっていう。あいつは人生を投げ出すようなやつじゃなかったから、なにかに思い悩んだりして自殺したんじゃない。それは確かだ。だからそんな風に思う。生命力があいつの体内から溢れ出して、最も強烈な表現方法をとったんだ。あいつは生命力を顕示したんだよ。その結果が自殺だった。けれど、あいつは死にたかったんじゃない。生きていることを証明して結果死んだんだ」
言葉を切って彼女を見た。真面目な顔で聞いている。
「僕とあいつは正反対だった。あいつが生命力を顕示するやつなら、僕は生命力を隠す人間だった。いつだって人生に対して斜に構えていた。全身全霊を賭けるだなんて、しんどくって面倒くさくってやってられない。そんな人間だった。人生が戦いだなんて、夢にも思ったことがなかった。だからずっと座り込んでいたんだし、走っているやつらを横目に眺めていた。やつらはすげえ、でも僕には関係ない。そんな態度でいた。
けれども人間いつまでも座り込んではいられない。あいつは死んでしまったんだ。いつだって僕の隣にはあいつがいたのに、今はもういないんだ。あいつと僕は関係ないはずなのに、耐えられないんだ。あいつがいないことが苦しいんじゃない。僕は、あいつがいなくなったせいで、人生を投げ出す理由を失ってしまったんだ。いや、あいつのせいにはできないな。自分自身が言ってくるんだ。人生は戦いだ。そんなこと、本当はわかっていたはずだった。ようやく、あいつが言ってた事と向き合うことができるようになった。だから、僕はいいかげん歩きはじめなければならない。」
「なんだか難しい話だねえ」
「自分だってよくわかっちゃいないさ」仰向けに倒れこんで空を眺めた。青い空だ。
「言い切った。全部言った。もうなにもないや」僕は大きく息を吸い込んで大きく吐いた。「空が青いや」
「青いねえ」彼女も僕と同じように仰向けに寝転んで空を眺めた。
「ねえ」しばらくして彼女が口を開いた。「あたしがどうして自殺しようと思ってたか、知りたくない?」
「多少の興味はある」
「君は死にたいと思ったことってある?」
「人並みにはあるんじゃないか?」
「どんなときに?」
「さあな。宿題が出た時だとか、テストの点が悪かった時だとか、なにか失敗しちまった時だとか、そんな感じじゃないかな」
「あたしもそんなときはある。
けれどあの時は違った。なんにも理由なんてないんだ。宿題なんて出てなかったし、テストの点はよかったし、なんにも失敗してない。友達だっていたし、関係も良好だ。親とか先生とかいい人たちだし、とにかくなーんも不満とか心配とかなかったんだな。それなのに急に、ああ、つらいなあって思ったんだ。いつからだったんだろう。最初に自覚したのは、ある夜寝る時だったと思う。次の日に不安なんてないのに、あ、つらいって思った。怖くて怖くてなかなか寝付けなかった。朝起きて少し大丈夫になってて、でも少し不安なままで、気が付いたら不安は大きくなってて、朝起きたらまた少し大丈夫になってて。そんな感じで少しずつ少しずつ大きくなっていったんだ。
理由を考えたけど、なんにも思いつかないんだ。だから誰にも言わなかったし。言っても混乱させるだけだし、心配させたくなかったからね。それでも誰かに相談しよう。そう思ったこともある。でも上手く人に助けを求められなかったんだ。周りのみんなを信頼してなかったんじゃない。あたしは一人で混乱してたんだと思うな。
君に会ったのはもうつらさが相当大きくなっていたとき。あたしはもう、死ぬことを決意していた。君のシンユーの話を聞きたかったのは、理由が知りたかったんだと思うな。人ってなんで死ぬんだろう。理由のないあたしは変なんだろうか。自殺するのに変もなにもないよねえ。けどあたしはそう思ってたんだな。あと、仲間が欲しかったっていうのもあるのかもしれない。あたしの他にも死んだ人がいるんだって、安心したかったんだろうね」僕は話している彼女をずっと見ていた。彼女は遠くを見る目をして、空に向かって話していた。
「今は?」僕は聞いた。「つらくないのか」
彼女は微笑んで僕のほうを向いた。「全然。もう大丈夫」
「なら、よかったなあ」僕は彼女に言うでもなく呟いた。「ほんとうによかった」
「よかったよ」彼女も呟いた。「ありがとうね」
波の音がする。
空に雲が浮かんでいる。
砂が風に撒かれる。
雀が二羽飛んで行く。
いつかどこかで生まれた人は死んで、
いつかどこかで誰かが生まれる。
いつでも世界は回っている。
彼女は起き上がって大きく伸びをした。「そろそろもう一回遊んでこようかな」彼女はこっちを振り向いて「ねえ」
僕はいかにも大儀そうな態度で起き上がった。「やれやれ、仕方ない。僕も一緒に遊んでやるとするか」
「君はほんとうにかわいくないね」
「男がかわいくてどうするんだよ」
終わり




