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ふと不思議な気持ちになることがある。自分は果たして生きているのだろうかという気持ちだ。そのくせ、決して不愉快ではない。とても愉快だ。たぶん現状がとても居心地がいいためそのような気分がするのだろう。不愉快なことがなにも起こらないただ淡々と流れるだけの日常たち。明日が来ることが昨日を思うことと同義である日常たち。そんな日々にいることは、決して嫌いじゃない。
けれども人間は前に進まなくちゃならない。僕が望む望まないに関わらずそれは確かな真理なのだ。時計は常に前に前に動いている。目を閉じればチクチクチクと音を捉えることができる。
「いつまでそこにいるつもりだ?」あいつがそう聞いてくる想像をしてみる。聞きたくない台詞だ。けれど、よくそんな想像をもてあそぶ。あいつは僕に対してそんな質問をするやつじゃなかった。そんなことはわかっている。それでも僕はそんな想像をしてしまう。結局僕はここにいることをとても怖く思っているのだろう。いつかここには要られなくなるのではないかという恐怖。その恐怖を乗り越えるためには、実際に前に進むしかないのだ。
「告白してきたよ」彼女がそんなことを言った。
「しないと約束したじゃないか」
「シンザキ君じゃないの。とぉーってもかっこいい後輩。年下の男の子。あいつはあいつはかっこいい、年下の男の子」
「間違っているじゃないか」
「だってかわいくないんだもん」
「君は後輩と接点があったっけ?」
「一目ぼれってやつなのさ。知ってる?一目ぼれって遺伝子がするんだよ。この人の遺伝子はすごくいい。とっても相性がいいよ。付き合っちゃいなさい。って遺伝子が言うんだよ。もう、これは運命ってやつじゃん」
「ふーん、そいつはよかったな」
「けどねえ、玉砕。彼女がいるんだってさ。残念無念ミキちゃんがっかり」
「奪っちまえよ」
「やーよ。窃盗は法律違反。赤信号は渡ってはいけません。遠足のおやつは三〇〇円まで。社会の常識。社会のルール。破っちゃったら罰金です」
「小学生かよ」
「オトナだから守るのよ」
彼女は前に進もうとしているのだろうか。進まず、終えることを決心していた彼女。無理やり続けさせたのは僕だ。彼女は、今、前に進まなければならないことをどう思っているのだろうか。その宿命を甘受して日々を過ごしているのだろうか。彼女の行動を考えても、僕にはわからない。僕はなぜこんなことを考えるのだろう。僕は彼女が隣にいてほしいのだろうか。彼女を前へと送りだしてあげたいのだろうか。一緒に前へと進みたいのだろうか。
「ねえ」物思いにふけっていた僕に彼女が声をかけた。「今度の日曜日デートしない?」
進級して一つだけ変わったことがある。シンザキが同じクラスになったことだ。それ以外にはなにも変わっていない。彼女はあいかわらず昼休みになると僕を訪ねてくる。ひとしきりしゃべって帰る。時々一緒に帰る。なにも変わっていない。
シンザキが同じクラスになったおかげで、小説の催促がしやすくなった。もっとも彼はクラスの者たちからは人気者で、僕のような日陰者は話しかけづらい。彼が一人でいるところを見つけては催促する。
「君はそんなに読みたいのか?」何回目かの催促のときにうんざりしたという表情で彼が言った。
「君が困っているところが見たいのさ」僕は言った。彼はため息をついた。
「もっとも俺は文句言える立場じゃないんだが」彼は引き出しからノートを一冊取り出すと僕に渡した。表紙をめくってみると丁寧にぎっしりと文字が書き込まれていた。
「ほとんどできているんだ」彼は呟いた。「ラストが上手く決まらない。いい人生だったと言って死ぬのか、もっと生きたいと言って死ぬのか。いろいろ考えるけどよくわからないんだ」
「読ませてもらう。けれど気が向かなければいつまでも読まないかもしれない。それでいいか」
「かまわん。もう俺には必要ない。煮ようが焼こうが君の自由だ。が、他人には見せるなよ。俺はかっこよくて明るくて社交的で時おりサッと走る影があってけれどそれは誰もが持つ影であって決して暗いやつの印象ではなくて結局誰からも愛される人気者なんだからな。俺を人気者の玉座から追い落とすような真似はするなよ」
「本当の自分ってやつを見せりゃいいじゃないか。みんな歓迎してくれるよ」
「なに、人気者の俺も本当なのさ。そもそも本当の自分だとか、偽者の自分だとか、そんなことは誰にだって言うことはできないさ。それが自分であっても」
「なら一つ聞きたいことがあるんだが」
「次の総選挙は六月だと思うな」
「まじめな話だ。
『自分』っていう物は誰なんだ?」
「そんなこと俺に聞くなよ」
小説を受け取ったのでとりあえずシンザキとの交渉はなくなった。
「君は日曜日とかなにしてんの?」彼女の誘いに答えずにいたら聞いてきた。
「たぶん君のことだからさあ、気孔とかやってんじゃないかな。早朝の、草木も生えないような山の頂上で、はあ―って白い息吐きながらポーズ取るの。君は上半身裸でさ。静かに次々とポーズを決めていくの。精神統一。あ、精神統一といえば滝だよね、滝。あぐらをかいて目を閉じて集中して滝を受ける君。滝はものっすごい勢いだよね。もう、真っ白で微かにしか君が見えない。ドドドドドドって滝が君に当たる轟音がするの。けど、君は微動だにしない。一心不乱に、精神統一。そんで、熊と戦わなくっちゃね。ぶつかり合う殺気と殺気。せめぎあう肉体と肉体。血で血を洗う死闘の果てに立っているのはどっちだ。うーん、たいした休日だね」
僕はため息をついた。「なんの映画だよ」
「さあね。中国かどっかじゃない?中国映画っていえば最近アジアの映画って増えたよねえ。けど全然観に行ってないなあ。レンタルでも観てないし。なーんか、ノリ遅れちゃったんだよね。流行って、ノリじゃん?だからちょっとノリ遅れちゃうとすぐ付いていけなくなっちゃうんだよね・・・」なんの話だ、と思いつつ僕は彼女のしゃべりに口を挟まなかった。ぼんやりと、ただ相槌を打っていた。
掃除開始のチャイムを聞きながら、僕はようやく口を開いた。「デートしよう」
「うん?」彼女はちょっとあっけにとられていた。すぐに立ち直ると「さっきは忙しいって言ったじゃんかよ」
「僕は嘘つきなんでね」僕は平然といった。
「知ってるよ」彼女は笑った。「じゃあデートしよう」
放課後の美術室に向かうとハヤシシュウスケがいた。期待していなかったので驚いた。美術室のドアを開いて、「やあ」と声をかけた。彼は僕に背中を向けて、キャンバスに向かっている。窓から射す夕日が彼を夕焼け色に染めていた。声をかけられて、彼は僕の方を向いた。「やあ」と彼も返す。
「まさかいるとは思わなかった。美術部は、辞めたんじゃなかったっけ?」
「そうなんだけどさ。どうしても、描かずにはいられなくなっちゃって」彼は相変わらずの無邪気な笑顔を見せながら頭をかいた。
「辞めたはいいけど、後悔ばっかりしてるんだよね。ああ描けばよかった。こう描けばよかった。こうやって描けばもっと上手く描けたんじゃないか。それに、どうしても描かなくちゃっていう衝動があった。僕にとっては、これ、すっごい収穫なんだ。僕は本当に絵が好きなんだなあっていう。それが、再確認できたんだな」
「芸術家、だな」僕は彼に近寄って、彼の描いているキャンバスを覗いた。敵意を剥き出しにして、今にも跳びかからんとしている猫の絵だ。生命力にあふれている猫だ、と思った。
「どうしても君の絵が見たくなったんでね。いないだろうとは思いつつ、来てみた。正解だったな」
「僕は自分が芸術家だなんて思わないよ」彼は彼の絵を眺めながら言った。「僕はただ自分の心が赴くままに描いているんだ。描かなくちゃ、いられないんだ。どうしても、描かなくちゃ、我慢できないんだよ。なんというか、心が、むずむずするんだよ。だから、描いている。別に芸術を作りたいとか、人に尊敬されたいとか、思っているわけじゃない。絵を辞めてみて、それがよくわかった」
僕は彼を尊敬した。この上もなく尊敬した。ああ、こいつは前に進んでいるんだ。進まなくちゃいられない宿命を、しっかりと受け止めて前に進んでいるんだ。
「君に聞きたいことがあるんだ」僕はいった。「人生って、なんだろう。前に進むという意味だろうか。前に進んで、進んで、進み続けて、いつか途切れてしまう。そういうものだろうか」
「人生とは、恐れ入るねえ」参ったなあ、という表情で彼がいった。「人生のことなんて、わからないよ。僕はただ、こうやって絵を描く。とりあえず今はそれだけかな。きっといつか僕は絵をもう一度辞めるんだ。そんな気がしてる。そうなった時は、どうすればいいんだか、迷わなくちゃならないんだろうけど、今は、絵を描いているよ。
こんな答えでいいのかな」
「ありがとう。最高の答えだ」
「君はどう思うんだい?」
「僕は」後が続かなかった。なにを答えようというのか。前に進むことだと思う、けれどもそれが嫌で悩んでいるんだ、か?わからないんだ、今も考え中だよ、か?前に進むことじゃあないな、留まっていたって人生だよ、か?なにを答えたところで、結局は嘘になってしまうではないか。
逡巡。それも答えの一つだといえなくもない。けれど僕は気がついたら口を開いていた。
「走れ走れ、人生は戦いだ」
「僕は君をどこに連れて行けばいいんだろう」金曜日の昼休み訪ねてきた彼女に向かっていった。土曜日は休みだ。日曜日までに、彼女と話せる機会は、今日しかない。
「そりゃねえ。どこでもいいよ。君があたしのために悩んで決めてくれたところなら、どこへだって喜んで付いていっちゃう。どこでもいいからつれてってよ」
「なんで僕が君のために悩まなくちゃいけないんだ」
「だってデートだもん」
「言い出したのは君だろう」
「了解したのは君じゃないか。あたしは君を悩ませたいのさ。君があたしのために悩んでくれたらあたしはすーっごく嬉しい。だから君はあたしのためにすーっごく悩んで、あたしを楽しませておくれ」
「なんだって僕がそんなことしなくちゃならない」
「だってデートだもん」
「君は僕の彼女じゃない」
「一〇年後の妻じゃないのさ」
「約束はしてないけど」
「けど了承はしている。違う?」
「もちろん」
「もちろん?」
「もちろん、ハズレです」
「うそだね」
「さあね」
はあ、と彼女はため息をついた。
「一〇年後の話はとりあえず後回しにしておこう。今は目の前の日曜日の話だ。君はどーしてもあたしのために悩みたくないって言うの?」
「言ったらどうする」
「言うの?」
「君の反応次第だな」
「うーん、そうだなあ。ちょっと考え中。決まりました。死んじゃいます」
「死んじゃうのか。それは困るな」
「困るのならどうする?」
「悩む。君のために大いに悩む。仕方がないから、悩んでやる」
「恩着せがましいね」
「君は欲張りだな」
「悪いとは言ってないじゃん。君は恩着せがましい。それだけ」
「否定的な言葉だろう」
「それはご想像にお任せします」
「否定的な言葉ではないな。そうしておこう」
「珍しく前向きだね」僕はハハハと乾いた笑いを吐いた。
「海に行こう。海に行って海を眺める。海辺を歩く。それだけだ。それだけだけど、海へ行こう」
「季節はずれだね」
「どこでもいいと言ったのは君だろう」
「悪いとは言ってないじゃん」彼女は笑う。最近笑うことが増えたような気がする。いいことだ。
シンザキの小説は卒業の少し前に読んだ。つまらねえなあ、というと彼は別の小説を三作くれた。その小説はまだ読んでいない。もうシンザキとも連絡が取り難くなってしまった。感想を送ってやらねば、と思うのに読む気がしない。彼の小説は今押入れの中で埃をかぶっている。
読んだ小説の内容は以下の通りだ。ある森に鹿と虎がいた。鹿と虎は友達だった。森にはたくさんの動物がいて、動物たちが通う学校があった。同級生だった鹿と虎はそこで出会い、誰よりも気の合う友達になった。鹿は学校で肉食獣たちから身を守る術を習い、鍛錬を重ねた末同級生たちの中で駆けるのが一番早くなった。虎は学校で獲物を狩る術を習い、鍛錬の末誰よりも狡猾に獲物に跳びかかる術を身に付けた。鹿はその健脚を自慢して虎に言った。
「僕は誰よりも早く走れるよ。きっと森の中で上手く生きていけると思うな」
虎はその狡猾さを自慢して鹿に言った。
「俺は誰よりも上手く獲物をだませる。きっと森の中で上手く生きていける」
やがて鹿と虎は成長し学校を卒業した。二頭は離れ離れになった。お互い再会を約して手を合わせた。「再会した時はきっと僕は父親になっていると思うな」鹿が言った。「再会した時はきっと俺も父親になっていると思う」虎も言った。さよならは言わずに二頭は別れた。
成長した鹿は森の中で最も逃げることが上手い草食動物となり、成長した虎は森の中で最も狩りが上手い肉食動物となった。鹿はやがて結婚し父親となった。虎もやがて結婚し父親となった。
二頭が再会した時鹿の首の上には虎の牙があった。苦しい息を吐きながら鹿は虎の姿を認めた。虎は必死で鹿の首にしがみつきながら鹿の姿を認めた。鹿は目を閉じた。虎は雄叫びを上げた。




