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たいていの時間を僕は無駄に過ごしてきただろう。時間というものは不思議なことに前にしか進まない。時には後ろやら横へやら進んでもよさそうなものなのに、前にしか進まない。そんなわけで、無駄に時間を過ごしたあと僕は時々茫然としてしまう。にもかかわらず、僕はこれまでなんとか生きていくことができている。
僕は人生に意味を求めて迷ったりはしない。いずれ終わりが来る。終わってしまえばそれは無だ。生きるということに意味はない。生きているときになんらかのことを成し遂げても、いずれは無に帰してしまう。だからといって、あくせく何かを求めて生きている人たちを否定する気持ちはない。生きるためにそれは必要なことなのだろうからだ。
ハヤシシュウスケという人物にあったのは、彼女に図書館で話をした次の日のことだった。僕が美術室の前を通りかかった時、彼はそこにいた。西日が差し込んできているその教室の中に、彼は一人だけでいた。僕が美術室の中にはいって行っても彼はピクリとも動かず、一心不乱に目の前のキャンバスに取り組んでいた。
僕は絵棚から美術の時間に描いていた自分の絵を探した。美術の時間にすんでの差で仕上がらなかった絵だ。だからわざわざ放課後居残ってまで仕上げなくてはならない。実に面倒くさいことをさせるものだ。もっとも、残っている作業は絵の一部分に色を塗ることと、ネームプレートを取り付けることだけである。
僕は自分の絵を見つけ出して教卓に持っていった。持っていく途中で、彼の絵が目に入った。僕には美術なんてわからない。審美眼なんてない。けれども、その絵は確実になにかを僕に訴えかけてきていた。僕はしばらくそのまま絵に見とれていた。
水を換えるために彼が振り向いて、僕と目があった。僕は照れ笑いでもしなければならなかったのだろうけども、やはり目は絵の方に向いたままだった。
「いったい、なんの用かな。美術部員は僕だけだったと思うけど」
それだけいうと彼は僕に気にせず水を換えに教室を出た。
「いや、申し訳ない。なんだか、見とれてしまったんだ」ようやく我に帰った僕は、戻ってきた彼にそう言った。
「そりゃ、どうもありがたいね。君は絵に興味があるの?」
「いいや、今日はこの絵を仕上げなきゃならなかったからね。でも、芸術ってのはやっぱりあるな。その絵は、なにか訴えかけてくるものがあるよ」
「いやいや、どうも」彼は照れたように頭を描いた。でっぷりとよく肥えた体に人のいい顔が乗っている。誰からも好感をもたれる人物だろう。
「いや、でも君のような人に認めてもらえると、やっぱり嬉しいもんだねえ」彼はニコニコと笑いながら言った。
「僕のような?」
「君って、なんか特殊って言うか、なんに対しても興味なさそうだからさ」
言われていることは心当たりあるが、はて、僕と彼とは面識があっただろうか。
「いや、君は結構有名だからさ。なに考えてんだか分からない人物として。君が考えてるより、学校ってのは小さいもんなんだよ」
「うーん。しかしあまり喜べない言われ方だな」
「そうとられたら謝らなくちゃならないな。君の事、悪く言うやつは一人もいないよ。それは安心していい」
「ま、他人の評価はなるべく気にしないようにはしているけどね」
僕は作業にかかった。三〇分もあれば完了した。
「ねえ、君に聞きたいことがあるんだけど」後片付けをしていると彼が聞いてきた。
「ミヤカワさんと君って、やっぱりつきあってんの?」
「それも他生徒たちに噂話?」
「君らは結構有名だよ。べたべたいちゃついちゃってるカップルって」
「僕の片思いですよ」
「へえ、大変だね」
「というのはうそでね。彼女は友達。一〇年したら結婚するらしいけど、友達以外の何者でもないよ」
「ふうん。なんだか込み入った関係なんだね」
「なかなかね。人生が長くなってくると簡単なことばかりじゃなくなってくるのさ」
「全く以ってそうだよねえ。人生、楽には過ぎちゃくれない」
「なんか悩み事でも?」
「まあね。あ、でも気にしないでいいよ。もう解決することだからさ」
気になる言い方ではあるが、僕は他人の人生に首を突っ込む性質ではない。さっさと後片付けを済ませると、美術室を後にした。
「君はやっぱり彼女の事が好きなんだと思うな」僕に会うなりシンザキは言った。「あの時はすごく真剣そうだった」
「聞いておかなくちゃならない事があるので、今日は来た」
あれから一週間ばかり経ったあと、僕はシンザキに会いに行った。彼女に会いたくなかったから、下校途中の彼を捕まえた。
「だろうな」
「君の大事なものっていうのはなんだ」
「その前にてん末を教えてくれないか。君は彼女を説得し得たのか、し得ていないのか」
「いちいちと腹の立つ言い方をするやつだ。僕は彼女の友達なんだ。彼女の為になることなのであれば、僕は全力を尽くす」
「説得し得たんだな。よし、俺が見込んだとおりだ。君ならなんとかしてくれると思った」
「質問に答えてもらいたい」
「君には恩があるからな。よし、なんなら君も付いてくるといい。ただし、彼女には教えるなよ」
「それは無理だ。彼女には知る権利がある」
「しかし権利は行使されないこともあるのさ。ま、君が判断してくれていいよ。彼女に教えるか教えないか」
「僕をどこに連れて行ってくれるんだ」
「それは行ってみてのお楽しみさ」
僕とシンザキはバスに乗り込んだ。
窓の外を慣れ親しんだ町並みが流れていく。いつもより少し高い位置から眺めるその姿は少し新鮮だ。全く知らない町に来たような困惑感。けれども全く知っている町だという安心感がある。不思議な感覚だ。
やがてバスは僕の行ったことのない道路を走り出した。いったいどこまで乗っていけばいいのだろう。
「ただバスに揺られるのも退屈だから、少し話さないか?」シンザキのほうからそう切り出した。
「君のひいきのプロ野球チームはどこだ?」
「そういう話じゃないよ。彼女の話だ。彼女を助けたのは、君だな」
「助けたってのはどういう意味だ」
「とぼけるなよ。彼女は自殺しかかっていただろう。それを思いとどまらせたのは、君なんだな」
「彼女が自殺しかかっていたという根拠は?」
「ないね。そんな相談を受けたわけでも自殺する瞬間を目撃したわけでもないよ。ただ、彼女が時おりひどくさびしげな表情をすることがあった。それだけさ」
「僕が思いとどまらせたのだと思う根拠は?」
「急に君たちが仲良くなったからね。それどころか彼女は君に依存しているようにも見える」
「ふむ。分かった納得した」
「質問の答えを聞いてないぞ」
「僕は君のこと嫌いだな」
「だろうね」
「君は彼女の事をよく知っていながら彼女を助けなかった。なぜだ」
「俺の質問の方が先だ」
「その通りだよ。僕が助けた。他人の人生に介入するなんざ、僕の流儀に合わないのだけど、他人が死にかけているんだ、そんなことは言ってられないからね」
彼は笑顔になった。
「全く、君ってやつはすばらしいよ。俺だって今までの人生でいろんなやつに会ってきたけど、君ほど正直なやつは見たことがないよ。君ほど信頼に足るやつも」
「僕の質問の答えは?」
「単純な話だ。彼女と今以上親密になるわけには行かなかった。彼女の命以上に、俺には大事なものがあるんだ」
「人の命よりも、か」
「人の命よりも、だよ。そんなこと聞くなよ。君は、もし路傍で誰かが倒れていますと言われたら、無視しますと答える人間だろう。ま、実際にそんな場面に出くわしたら助けちまうんだろうが・・・。君は、俺を告発することはできないんだよ。君は理屈では俺の正しさを理解できるんだからさ」
「僕だって感情的になるさ。彼女は僕の友達だ」
「いい人間だな君は」彼は笑った。弱々しい笑みだった。なにかあとに続けるべき言葉を探していたようだったが、なにも言わなかった。
「一つ聞いていいか」
「俺に答えられることであればなんでも答えてやろう」
「悪人ってのはいると思うか。なにか理由があるから悪人になるんじゃなくて、生まれながらの根っからの悪人だ」
「俺のことか」
「そう思うか?」
「思わん。君はそんなやつじゃない。
質問の答えだな。可能性の話をしているんじゃないんだろう。が、いると思うな。人間がするすべての悪行に理由があると思ったら大間違いだ。生まれながらに、そう、生きるということが悪行をするということである人間ってのは、いるよ。根拠はないよ。理屈の話じゃないんだろう。そう思う」
「そうか。ありがとう」
「なんだ。心理テストか?」
「いや、単純に聞いてみたくなったんだ。意味はない。忘れてくれ」
「君はどう思う?」
「愚問だな」
「愚問だ。君もいると思ってるんだろう。が、残念ながら俺はそんなこと信じないよ。君はきっと、根っからの悪人なんて信じてないな。理屈ではいると思う。そうだろう。しかし、君はそんなこと信じていない。なんていうんだ、魂だとか、君の内部の奥の奥だとかいう場所、そんな場所では、君は人間のことを信じている。疑うことなんて、できないよ」
「買いかぶりすぎだ。反吐が出る」
「俺は君の事それだけ評価しているのだよ。裏切ってくれて構わん。裏切られても構わないつもりで俺は君の事を信じている。君は、それだけの価値がある人間だよ」
バスが止まって乗客が動き出した。後ろの乗車口からは新たな乗客が乗り込んでくる。もうかなりな時間乗っている。
「いったいどこまで行くんだ」
「次で降りる」
バスの窓から夕暮れの日が鋭角に射し込んできていて眩しかった。日なたの明るさで日陰の暗さが強調されていて、辺りを見回しても乗客の顔がはっきりとしない。たそがれどきとはとはよく言ったもんだ。
シンザキが降りたバス停は大きな建物のまん前だった。建物はその大きさの威容を誇るように左右に伸び、軽い凹凸を作りながら高くそびえていた。建物の壁面には小さな暗い窓が散在している。建物は太く長い外壁に覆われており、バス停は外壁の切れ目、建物への入り口の前に設置されていた。向かって左側の壁には、『D病院』という形の金色の出っ張りがでかでかと取り付けられている。
バスから降りたシンザキは戸惑っている僕に構わずさっさと玄関の方に歩き出した。僕はあわててあとを追った。建物の玄関口は広く、段差になっていたがスロープが備え付けられてあった。
シンザキは勝手にとっとと歩いていく。おかげで僕は不安ながらも急いでついていかなくてはならない。病院の中というものは静かで生気がないものだ。僕はどんよりとした気持ちになりながらシンザキが上がっていった階段を上った。
四階のある病室の前まで来ると、シンザキは三回ノックをしてから中に入った。取っ手を横に引いて開けるタイプのドアだ。手を離すと勝手に閉まりだす。閉まりきらないうちに僕も病室に入った。
病室は二人部屋で、手前と奥の窓際とに区切られていた。手前のベッドはカーテンが開け放たれていて、整理整頓されたまま誰もいなかった。彼はカーテンが引かれている奥の方に行った。カーテンを開けて、中を覗き込む。彼はそのまま少し開き、僕を手招きした。
ベッドの上には女の子が仰向けに眠っていた。きちんと上布団が掛けられていて、頭だけが出ている形だった。女の子は安らかそうに眠っている。年は、ちょうど僕たちと同じくらいだろうか。
僕が顔を引くと、シンザキはカーテンを元に戻した。僕は病室を出て行き、シンザキもあとに従った。病人を起こしてはいけない。
僕は病室を出るとシンザキの顔をみた。彼の方からなにか話してくるのではないかと思った。しかし彼はなにも言わなかった。
「彼女が君の大事なもの、か?」
「そうだ」やはり、それ以上の説明はなし。
「彼女との関係までは話してはくれないのか」
「君が話せというのであれば話そう」
まったく、難しいことを言うやつだ。
病室のネームプレートを見た。上下に一つずつプレート入れが取り付けられており、下のほうにはなにもはまっていなかった。上のネームプレートの名前、クラモチサナエ。
「君の一番大事な人なんだな」
「そうだ」
「オーケイ。それで充分だ」
「そうか」
僕がここでするべきことはもう済んだ。「君はまだここに残るのか?」
「そうしようと思う。一人で帰れるだろう」
「馬鹿にするな。大丈夫だ」
「ミヤカワさんにはどう言う」
「さあな、気分次第だ。なにも話さないかもしれない。そうだな、そうできるのであれば、それが一番いいのかもしれない」
「まあいい。君に任せよう。ここを教えたのは君だけだ。俺はそれだけ君を信頼している。君は俺を嫌いかもしれないが、俺は君の事を無二の存在だと思っているよ。よかったらまた話そう」
「なんについて話す?日本経済についてか。プロ野球についてか。それともクラシック音楽の傑作についてか」
「今度俺が書いた小説を読ませてやろう。その感想を聞かせてくれ」
「どんな小説だ?」
「誰よりも速く走れる鹿が虎に食われてしまう話だ」
「君とは友達になれたかもしれん。僕が君の事嫌いにならなかったらの話だが」
「嫌いなやつとでも友達になれるぜ」
「考えておこう」
「イマサキ」僕が帰ろうと振り返って歩き始めると、彼が呼び止めた。
「すまない」




