2
僕が彼女にあったのは、あいつの二年目の命日で、今日あいつの墓に行って線香の一つでも揚げてやるかなと考えていた昼休みだった。あいつの墓は僕らの町を見下ろせる高台の上にあって、少し遠いところにあるためそう頻繁に行くことが出来ない。バスに三〇分ばかり揺られてそこからさらに三〇分ばかり歩かなければならない。自分の親やあいつの両親に車で連れていってもらうこともできるが、あいつの墓参りには自分一人だけで行きたかった。面倒くさい話であるが、授業が終わった後長い時間をかけて行かなければならない。花の一つでも買っていってやるべきだろうか。あいつは花なんて喜ばないし面倒くさいのでいいか。しかし面倒くさい。田舎であるためバスは一時間に一本しか走っていない。もし時間に遅れたら実に面倒くさい。そんなことを考えていた。
僕は窓際の席で読書する振りをしながらそんなことを考えていた。中学生の時に読んだ井上靖の小説だ。読むには読んだがよく意味が分からなかった。読んでいる振りをするためだけに持ってきた小説だ。別に昼休みに小説を読んでいる振りをしていたって友達がいないわけじゃない。誰にも邪魔されずに考え事がしたかっただけだ。友達が少ないのは否定しないけど。
そんなわけで、僕は鉛粒のような文字の羅列をただ見ることに集中していた。嫌気がさすような文字の嵐だ。だから彼女が僕の席の隣に来た時にも気が付かなかった。
「ねえ、イマサキ君」
という声を聞いて、僕は初めて僕の隣に立って僕を見下ろしている彼女の姿を認めた。僕は基本的に頭が柔軟に出来ていないため、わけもわからないといった様子でただ口をあんぐりと開けて彼女を見上げた。
「君、イマサキ君だよね。君、二年前に自殺したタダムラ君の友達だったんだよね」
僕は二,三回目をぱちくりとさせてから、ようやく彼女の言っていることを理解した。
「うん」
できるだけそっけなくなるように、短く僕は答えた。あいつのことはあまり語りたくない。だいたいこの娘は少しぶしつけすぎるんじゃないかと思った。なんだって、見ず知らずのどこの馬の骨ともわからない女の子にあいつのことを聞かれなくちゃならないんだ。
「なんで自殺しちゃったのかなあ」
久しぶりに聞く文句だった。少なくとも一年と半年は聞いていない。珍しいと感じるべきか、わざわざ昔の記憶をよみがえらせようとしていることに怒りを感じるべきか、ちょっと迷った。
僕はとりあえず沈黙することにした。基本的にあいつのことを誰かに語りたくなかったし、あいつの命日である今日はあまり人と口を聞きたくなかったからだ。すると彼女は怒るでもなく困惑するでもなくまた口を開いた。あまり人のことは気にしない人というのはいるものだ。こう言ったら人はどう感じるかなとか、こう動いたら人は嫌な気になるんじゃないんだろうかとか、考えることの出来ない人種だ。そのくせ、絶対にしてはならないことだけはわかっている。彼女はそんな人種の一人なのだろう。正直に言って、僕はそんな人種が少し羨ましい。
「あたし、自殺したって人周りにいないんだよね。だから、自殺する人の気持ちとか、全然わからないんだ。そこに来て君が二年前に自殺した人の友達だってうわさを聞いて、駆けつけてみたわけ。ねえなんでタダムラ君は自殺しちゃったのかなあ。みんなに聞いても要領を得ないんだよね。いじめとかあったわけじゃなし、成績が悪かったわけでもないよね。悩みがあったぽいとか、全然なかったっていうし、わっかんないんだなあ。ねえねえ、君は一番の友達だったんでしょ。なんか知ってんじゃないの。ていうかさあ悩みとかないと自殺しないよね。だからあたしはいじめられてたんじゃないかってにらんでんの。みんなさあ、いじめてましたなんて言えないもんねえ。うーんやっぱりそうか、いじめかあ」
「いじめはないよ」
「うーんでもさあ他に考えられることないじゃん。えーとじゃあ、どうやって自殺したんだっけ。確か、カッターで自分の喉を掻っ切ったんだっけ。うわ、グロ。っていうかすごいよね。あたし、そんな勇気絶対にないもん。血だらけだったんだろうなあ。もう部屋中べとべと。そんなとこ目撃、したくないなあ。うーんでもそのカ」
「あのさあ」
彼女の一人語りは際限もなく続けられそうだったので、僕は割って入った。
「一体君はなんでそんなにあいつのこと知りたがるの。それとも、自殺した人のこと、か。そんなこと、あんま知りたいと思わないことだと思うんだけど」
僕がそういうと彼女はほんの一瞬だけ困ったような顔をした。少なくとも僕には困ったような顔に見えた。
「単純に好奇心だよ」
元の顔に戻って彼女はそう答えた。納得できない、とは言い切れない。彼女なら本当に好奇心からぶしつけにいろいろ聞いて回るということはありえるように思えたからだ。
「ねえ、君は自殺ってしてもいいと思う?」
少しだけ間をおいて彼女は聞いてきた。一体彼女は何が聞きたいのだろう。あいつが自殺したことについて親友であった僕がどう思っているのかを聞きたいのだろうか。文脈から考えてそれだろう。だが相手の意図に合わせなければならないという法律はない。
「君はどう思うんだ」
そこから彼女の沈黙が始まった。それまで大雨が降っているかのように言葉を浴びせかけられていた僕はちょっと戸惑った。けれども無理に話の接ぎ穂を探すことなくただ彼女の答えを待った。彼女は目を伏せていた。僕はそんな彼女の顔を眺め続けていた。チャイムが鳴って、あと五分すれば清掃が始まることを告げた。次第に教室の中が動き出した。みんな、それまでしていたこと、おしゃべりだとか午後の授業の宿題だとかを打ち切って定められている清掃場所に向かうのだ。彼女は顔を上げて動き始めた教室の中を眺めやった。僕は席を立った。僕も定められた清掃場所に行かなくてはならない。
「決してしてはならないこと」僕が彼女を置き去りに数歩歩いてから彼女は言った。
「僕もそう思う」
「けれども、それをしなくちゃいけないこともある」
空の蒼さに驚くことがある。あまりにも透き通っていて雄大だ。入道雲が豪快に突き出ていれば最高だ。秋の高い空も爽快でいい。冬の空は少し悲しげだ。春の空は暖かく包んでくれているような気分になる。
僕は空を見上げるのが好きだ。これまでの人生の大半の時間を空を見ることに費やしてきた、なんてことはいえないけど、僕以外の人間の一〇倍くらいは空を眺めていたんじゃないかと思う。もちろん世の中には上には上がいるものだ。気象予報士なんかは空を見るのが仕事だ。僕なんかとても太刀打ちできない。けれども僕は空を眺める時はただぼんやりと眺めていた。空を分析したりなんかしない。そんな人間も、広い世の中にはいるだろうけど、多くはないはずだ。
少なくとも、あいつは違った。空なんか眺めなかった。そんな時間があれば、なにかに打ち込むことに使っていた。あいつの人生には無駄と呼ばれる時間はなかったのではないかとすら思える。
あいつが空を眺めることがあれば、死なずにすんだだろうか。
そんな仮定はもちろん何の意味もない。どれだけ仮定を並べてみたところで、あいつが帰ってきたりはしない。僕は空を眺めて、あいつは空を眺めなかった。それだけだ。どちらが間違っているでも合っているでもない。走れ走れとあいつは書いた。もちろん僕に向けられた言葉ではない。だから、僕は空を眺め続けている。たとえ僕に向けて書かれた言葉であったとしても、知ったことではない。あいつの言葉など無視して、僕は空を眺め続けるだろう。だから、あいつが何を思ってあの言葉を書いたのかを詮索することは、僕にとって無意味なことだ。僕はそんなことには左右されない。あいつがいなくなっても、僕の人生は変わらずに流れ続けている。少し空を眺める時間が増えた。それだけだ。
「空が蒼い」僕は一人で呟いた。目線の先には漆黒に彩られてしまった空がある。ちょうど逆方向にはうっとりとしてしまいそうな夕焼けだ。この時間帯には馬鹿みたいに空が美しくなる。輪郭がはっきりと縁どられ、色がその濃さを主張する。どんな絵画でもこの風景には敵わない。もちろん絵画は美しさを風景と競っているわけではない。彼らはどうしても言わなければならない何かを風景に仮託して表現しているだけなのだ。
彼女は僕を無視してあいつの墓に向かって話しかけた。「ねえ、死ぬのって楽しい?」
僕と彼女は偶然放課後あった。僕がバス停の方に歩いていると、彼女が一人で歩いているのを発見した。ああいう人種は一人で歩くことは耐えがたいことなのではないかと僕は思った。だから話しかけたというわけではない。信号のところで追いついてしまったからだ。「今日はあいつの命日だ」と僕が話した。そうしたら彼女はついてきたいといった。だから今あいつの墓の前に彼女がいる。僕は仕方がないから一人空を眺めている。
墓に来るまでの間意外なことに彼女はその生来のおしゃべりを発揮しなかった。僕もおしゃべりは好きではないので黙ったままでいた。ただし名前だけは尋ねた。彼女はミヤカワという。
「ダメだね。あたしの質問にはなんにも答えてくれないや」
「僕の質問にもこいつはなんにも答えないよ」僕はあいつの墓を見下ろしながら言った。彼女はあいつの墓の前にしゃがんでいる。
「なにを聞くの?」
「先行きが見えない日本経済の今後について」僕は真顔で答えた。
「そんなこと、コーコーセーにはわからないよ」彼女も真顔で返した。
「あいつはなんらかの答えを持っていたと思うな。もし答えを持っていなかったとしたら、真剣に考える。真剣に考えるのがあいつの仕事だからさ」
「馬鹿みたいだね」
「馬鹿だよ。馬鹿じゃなきゃ自殺なんてしない」
「なんで自殺しちゃたんだろう」
僕は答えない。あいつに自殺に関して語る何事かを僕は持っていない。
「けれども一つだけ言えるな」ひとり言のように僕は言った。「死んじまって、僕があいつと会えなくしちまって、あいつは馬鹿だってことだ。大馬鹿野郎だ。もう僕にわけのわからない演説を打つことも、それを聞いて僕が達観したふうな態度をとることも、もうありえないんだ。ほんとうに、あいつは馬鹿野郎だ」
「君にとって、タダムラ君はとても大切な人だったんだね」立ち上がりながら彼女は言った。
「そんな人がいることは、あたしにはとても羨ましいよ」彼女は透き通った笑顔を見せた。嫉妬ではない、すべてがもうどうでもいいという笑顔。僕は気分が悪くなった。
「僕の思い過ごしかもしれない」僕はバスの窓越しに流れていく町の風景を眺めながら呟いた。あまりパッとしない町だ。五〇階だとか一〇〇階だとかするビルなんかは想像だにできない。この前十二階建てのマンションができて一番目立っている。こぢんまりとした町だ。もっとも一〇〇階だの一〇〇〇階だのもある高層ビルが立ち並んでいるような都会は、僕は想像するだけで吐き気がする。
夕焼けが西の空に沈んでから僕と彼女は帰り路についた。バス停までの間も、バスを待つ時間も、僕は彼女に話し掛けなかった。彼女も僕に何も言おうとしなかった。
彼女は僕の反対側の席の窓際に陣取って、僕と同じように窓からの風景を眺めている。向こうを向いて表情は見えない。片田舎の日暮れのバスには僕と彼女を除いて乗客は二,三人しかいなかった。僕と彼女は一番後ろの席に陣取って、間には誰もいない。
「もう会う機会もないかもしれないから、今言っておこうと思うんだけど」僕は彼女に向かって言った。彼女はピクリとも動かない。聞こえていないのかもしれない。それならそれで問題ない。「君、死ぬつもりだろう」
反応なし。やはり聞こえていないのだろう。
こう言ったことで、僕の倫理上の義務は果たしたといえるだろう。僕は自殺しようとしている人間に気づきながら、放っては置かなかった。けれども、彼女は反応しなかった。そう、僕の勘違いだったのだ。なに言ってんだろうあいつ、そう思って彼女は僕のことを無視したのだ。オーケイ、それでいい。そう思っておけば、僕の良心は傷つかない。僕は僕の身近にいた人間をまた見殺しにしてしまったなんて決して思わない。決してそれは止められないことだったのだ。僕はやるだけのことはやったのだ。後悔しない。傷つかない。
「んなわけ、ねーだろ」
自分のモノローグに自分で突っ込むのは少々恥ずかしいことだった。けれどもこれは本当に聞こえていないだろう。セーフ。
「その通り。んなわけない」
彼女は窓の方を向いたまま発声した。聞こえていたのか。アウト。
「んなわけないって、なにが?」少々照れながら僕は彼女の背に向かって訪ねた。
「だから自殺なんて考えてないって」
ああそうか。僕が口に出したことを順序だてて受け取ればそういう結果になるな。
「僕の勘違い、か。ほんとうにそんな言い分が通るなんて、考えてる?」
「当たり前じゃん。あたしはほんとうに自殺なんてしないんだもん」
「正直に言って、僕に君を助ける義理はない。今日会ったばかりだし、君は僕の友達じゃない。にもかかわらず、僕はたぶん君が死んだら寝覚めが悪い。寝覚めどころじゃない。一日中落ち込むんだろうな。なんだって僕はあの娘を助けられなかったんだろう。助ける機会はあったんじゃないか。僕はなんてひどい奴なんだ。そんな風に落ち込むんだ。だから、僕は君を自殺させちゃならない。これは、僕のためなんだ」
「タダムラ君を助けられなかった罪滅ぼし?」
「そんなんじゃないな。わかっていたって、あいつを助けられたとは思わない。あいつと僕は、お互い助け合うような仲じゃなかったからさ。
あいつとは関係なく、僕は君を助けなくちゃならない」
「けれどあたしは自殺しないって言っているんだよ」
「君の言葉よりは自分のカンの方が信じられるんだ」
彼女はようやく振り向いた。彼女は僕の目を見た。人の目を見るのは苦手だ。それでも辛抱して目をそらさなかった。彼女の目はなにを言おうとしているのだろう。僕は考えた。目は目だ。口を利くことはない。少なくとも僕は言われないとわからない。
「死んだりなんてしないよ」先に彼女の方が目をそらして言った。「とりあえず、今はね。だって、あたしが死んだら寝覚めが悪いなんて言われちゃったらさ、死ぬに死ねないじゃん。ほんとうは、君みたいな他人じゃなくて、親とか友達とかに止められたかったけど。ま、いいか。そんな風に言ってくれる人がいるんだから、仕方ない。死んだりなんて、しないよ」
どうやら僕は一人の命を救ったらしい。あまり人の人生に影響を与えることは好きじゃないけれど、今回ばかりは仕方ない。けれども間違ったことはしていない。自分で自分の命を絶つなんて、確実に間違っていることだ。だからそれを止めることは決して間違いじゃない。けれども、ほんとうに絶対に絶対に人生は長引かせた方がよいものだと言い切れるのだろうか。まあいい。あまり考えるのはよそう。
「ありがとね」
バスから降りて別れるときに彼女はそういって笑顔を見せた。
いいだろう。僕は決して間違ったことをしなかった。そういうことにしておこう。




