Ⅵ 聖獣の国の王
意識を失った弟を抱き抱えた銀髪の男は、顔を上げて私を見た。その目はもはや、人間のものではない。瞳孔が見開かれた青い目は、夜闇の中の猫のようだ。尤もこの男は、猫なんて可愛らしいものではないだろうが。
「弟を返してもらおうか、スヴァローネ」
努めて冷静に告げるが、無論、向こうにその気はない。冷めた一瞥をもって拒否された。
「俺の正体なんかとっくに気づいてるんでしょ、オニーサマ。だったら返すわけがないってこともわかるよね」
弟の黒髪を撫でながら嘲笑する男。挑発されているのは明白だ。この状況でアイデルトを救出し、この男と白狼たちを片付ける方法はあるか。
逡巡の末、厳しい現実に至る。招待客という人質を取られて、外部からの頼れる救援もない今、全てをひっくり返すことは難しい。相手が悪いのだ、何しろこの男は――
「…………まさか君が生きているとは思わなかったぞ。あの日、私は確かに君が撃ち殺されるところを見た」
男の容貌が、徐々に変化し始めた。
初めてに顔や手の甲から徐々に白い毛が生え始めた。それはあっという間に全身を包み込む。そして身体中が肥大化を始める。両手はやがて前足になり、尾骶骨があったはずのところからしなやかで長い尾が伸び出す。耳が生え、牙が生えたら、もうそれは人の形をしていない。
スヴァローネは大きな白銀の狼へと姿を変えた。
その現場を目撃した誰もが、動揺していた。譫言のように信じられないと呟く者も、幻覚を疑う者も、立ち尽くす者もいる。かくいう私も驚いていた。人間が獣になるとは。――いや違う、獣が人間になっていたのだ。
数年前、とある貴族が弟に手を出そうとした。
大した計画性も度胸もない奴だった。出来心だったんだろう。あの頃の弟は見る者を惑わせるほどの可憐さがあった。
そして、私たちの実母のマルテーゼは一匹の聖獣を撃ち殺した。危害を加えようとした貴族の男を食い殺したからだ。聖獣はただ主人を守るために動いたのだが、それでも人間の血を浴びた聖獣は、もはや聖獣とは認められなかった。
その亡骸は森に打ち捨てられた。弟も、ショックから自分を守るため、無意識に聖獣の存在をなかったことにした。それで全ては終わったはずだった。
だがその聖獣は魔獣に生まれ変わって、今、復讐者として現れた。
白銀の狼が咆哮を上げ、こちらに飛びかかってくる。避けることはできない。
もしかしたら、これは我が一族の業なのかもしれない。やはり、聖獣はどうあっても聖獣で、それを無残に殺した私たちには天罰が下る。
覚悟を決めて瞼を閉じかけた時、視界に黄金が舞った。
「…………リリ、アンネ」
銀狼と私の前には、美しい神鳥が立ち塞がっていた。
リリアンネは攻撃もしなければ威嚇もしていない。だが彼女が小さな声で鳴いただけで、銀狼は立ち止まった。
喉を小さく鳴らすだけの弱々しい声。獣としての格は向こうの方が上なのかもしれない。でもリリアンネは決して退かない。哀しげな声で鳴き続ける。
リリ、お前は私を庇うのか。本能に従うのなら、お前が着くべき側は向こうなのかもしれないのに。
銀狼の青い眼がリリアンネを見定めるように射抜く。永遠とも思えるような時間の後に、ふっと銀狼は目を伏せた。体毛が引いて、その場には銀髪の男が再び現れる。
獣を彷彿とさせる所作で軽く頭を振ったスヴァローネは、私を睨んだ。
「命拾いしたね、オニーサマ。本当は君の首も食いちぎるつもりだったけど、こんなに切に訴えられるもんだから出来なくなっちゃったよ。彼女にこうも愛される君なら、誰もいなくなったこの国の頂点で新しい歴史を築けるのかもしれないね」
そして傍らに横たえていたアイデルトを宝物のように抱き上げた。
「でもその新しい国にアイはいないよ。俺がもらっていくから」
「……させるものか」
「君に何が出来るっていうの? 俺は獣の王だ。俺の意志に全ての野生に生きる者が従う。この国を滅ぼすのだって造作もないことさ。君は平和の代償として、アイを俺に差し出すしかないんだよ」
じゃあね、新しい孤独な王さま。
弟を抱えた男が、割れたステンドグラスの窓から飛び降りた。主人を追って白狼たちも窓から消えていく。
向こうで誰かが叫んでいた。三階の窓から追って降りようとする弟付きの従者だった青年を、衛兵が止めている。
振り返ったリリアンネは躊躇いがちに近寄ってくる。少し怯えているようだった。私が怒っていると思っているのだろう。アイデルトが連れ去られるところを何もせずに見ていた自分が責められるとでも思っているに違いない。
確かに私は怒っている。それは無論、自分自身への怒りだ。
「皆、どうか落ち着いてくれ。怪我人がいたら申し出て欲しい、すぐに対処しよう」
恐怖が過ぎ去った後を放心状態で見ていた人々に語りかける。
国の頂点に立った日に自分の不甲斐なさを知るとは、なんと苦い戴冠式だろう。
「私は一人になった。が、父や弟たちがいなくなっても私がすることは変わらない」
今日この日をもって、我が王家の権威は地に落ちた。国は乱れるだろう。
だが私はそれを乗り越える。王家を立て直し、国を栄えさせ、そして、
「私は戦う、全ての民を守るために」
弟も、守る。アイデルト、お前は身を尽くして私を支えると言ったな。その言葉、違えるなよ。
獣の王を名乗る者よ、決して思い通りになると思うな。弟は必ず返してもらう。
「――私は聖獣の国の王だ」
リリアンネが鋭く上げた咆哮は、城の中に響き、割れた窓の外、宵闇の向こうまで切り裂いていった。