Ⅳ 時折浮かぶけれど誰なのでしょう
両翼を広げれば、ゆうに三メートルはあるだろう。彼女が羽ばたくたびに、金粉が舞っているかのような錯覚を覚える。広い城の中庭も、彼女の大きな存在感があると途端に小さく思われる。
「美しいですね」
小さく零した僕の言葉をしっかり聞き取った兄は、振り返って「そうだろう」と自信ありげに頷いた。
「今日のために一ヶ月以上前から準備していたからな。リリアンネのコンディションは最高潮だ」
なあ、リリ? と兄が愛おしげに名前を呼ぶと、黄金の神鳥は擦り寄ってくる。自分よりも小さく弱い人間の主人に気遣うように、優しく。リリアンネは、兄が幼い頃から飼っている聖獣だ。
僕たちの一族は、聖獣の力を借りて国を治めるという風習を持つ。卵が孵って生まれた時から人間の手で、人間の血を浴びさせずに育てた獣は、聖獣として崇められる。今日の正午――あと数刻で挙行される兄の戴冠式にも、リリアンネは参加する。
幼い頃から時を共に過ごしてきた二人には、特別な絆がある。それは僕から見ても一目瞭然だ。
「種は違えど、気持ちは通じ合っているのですね」
二人の姿を少し離れたところから眺めていると、兄が振り返った。
「無論だ、リリは私の恋人と言っても過言ではないぞ」
太陽のような笑顔が咲く。見る者を惹きつけてやまない、王者の風格。
父が兄に冠を譲り渡し、今日からこの人が王となる。きっと、今この国で一番王にふさわしい人だ。
「そうは言っても、さすがに言葉は通じないからな。アイデルト、お前が連れ帰ってきたあいつ……スヴァローネといったか? あれの力を羨ましくなることもしばしばだ」
彼の名前を聞いた瞬間、息が止まった。
心臓が一際大きく脈を打つ。一週間前のあの夜、スヴァローネに噛まれた跡はもう綺麗に消えた。
あれ以来、彼とはまともに話していない。向こうは何度も話しかけてきたのだが、僕が一切取り合わなかったのだ。気にしているのは僕だけで、スヴァローネはなんとも思っていない体だというのもまた、癪に触った。
急に黙りこくった僕に何かを感じ取ったらしい、兄は怪訝そうだ。
「どうかしたのか?」
「……いえ、何でも。――兄様、それにリリアンネも。今日の戴冠式、頑張ってください。貴方の治める国がより良いものとなるよう、僕もこの身の全てを尽くします」
改まって伝えると、兄は少し照れながらもしっかりと頷いて受け取ってくれた。これから式の最終準備に入る。僕も勿論だが、兄はもっと慌ただしくなる。きっとこれが式の前に話せる最後の機会だ、きちんと伝えられて良かった。
「ありがとう、アイデルト。頼りにしているからな」
「勿体ないお言葉です」
リリアンネを引き連れて中に入って行く兄は、金の光に包まれていた。それは彼女の振り撒いた金粉なのか、兄の王たる証なのか。
去り際に兄は一言、
「あいつも生きていたら、立派に成長していたんだろうな」
……そう呟いたように聞こえたのだが、僕の聞き間違いではないはずだ。
一人きりになった中庭に、風が吹き込む。城内の騒がしさが微かに運ばれてくる以外、人の気配はない。
そういえば、幼い頃の僕はこの中庭で遊ぶのが好きだった。駆けずり回ってじゃれ合って、あの大きな木の下で昼寝して、かくれんぼはいつも僕が負けてしまって、悔しがる僕に得意そうに笑う――
――誰と?
「…………え?」
降って湧いた疑問符に、頭が真っ白になる。なんだ、今の記憶は。そんなこと、あったか? 僕はいつも一人だった。稽古ばかりで遊び相手なんかいなかった。……はずだ。
一際大きな風が大木の葉を揺らした。騒めく緑がまるで僕を責めているような気がして、たじろぐ。
「アイデルト様」
不意に呼ばれた名前にぞっとして振り返るが、そこに立っていたのはいつもと変わらぬルークの姿。ほっとした途端に冷や汗が噴き出した。
「どうかされましたか?」
「……いや、なんでもない」
ルークは何か言いたげだったが、結局は追求せずに事務的な話を始める。促されるがままに、僕も式典の準備に取り掛かりだした。