Ⅲ 其の夜は冷たい熱だった
突然訪問しては困らせるかもしれない。あらかじめ声を掛けていたわけではないし、彼には彼の都合がある。それに、一応は食客として城に招いているスヴァローネを、夜分遅くに訪ねるのは、常識的ではない。
様々な考えが渦巻いたが、結局それらを全て振り切った僕は、寝間着からゆったりとした普段着に着替え、燭台を持ち、人目を避けて客室へと向かった。
軽くノックすると、中で小さく物音がした。しかし返事はない。取り込み中だったのかと思ったところで、扉が開いた。
「やあ。こんばんは、アイちゃん」
現れたスヴァローネは、突然の訪問者にもさして驚いた様子はなかった。部屋の明かりはまだ灯っていて、逆光が彼の顔に影を落とす。
「ああ、スヴァローネ。……急にすまない。今、大丈夫か」
「もちろんだよ、どうぞ入って」
招き入れてくれたスヴァローネに続き、客室に入る。元からあった調度品の他に、細々とした品が多く置かれていたが、どれも統一性がなく、ちぐはぐして見える。
「それね、全部貰い物。この城の人は物を恵むのが好きだよねぇ」
呆れ半分にそう言いながらベッドに腰を掛け、僕にはテーブルの椅子を勧めた。寛いだ様子のスヴァローネは、僕よりも更にゆったりとした服に身を包んでいた。本当に服が煩わしいらしい。
「それは恐らく、好意を持たれているか、もしくは利用しようと企んでいるんだな」
僕はというと貴族連中からはとことん好かれない。血祭り王子だのブラッディプリンスだのと不名誉な通り名がつけられている。
椅子に座って、テーブルの上にあった鏡を覗く。これも貰い物の一つだろう。中には憮然とした顔の自分が写っていた。
「どちらにせよ気を許すなよ。お前を連れてきたのは僕だ。僕の手元から離れられると不都合だ」
本当ならスヴァローネが持つ能力についても、極秘にしておくつもりだった。だというのに彼は、何処にいてもお構いなしに犬やら猫やら鳥やらに話しかけるのだから、計画は全て頓挫である。
僕が難しい顔をすると、反対にスヴァローネはいかにも楽しそうな顔をした。
「えー、それって嫉妬してるの?」
「は?」
思わず間の抜けた声が漏れた。嫉妬? それは、僕がこいつに対して、と言いたいのか……?
「だってそうじゃない。僕から離れるな、他の奴に気を許すな! って。あっは、俺ってば愛されてるぅ」
「…………ふざけるなよ。政治利用されては迷惑だから大人しくしてろと言ったんだ」
口元に手をやっても笑いを隠しきれていないスヴァローネと、なんとか爆発しないように怒りを鎮めようと努力する僕。両者の間に沈黙が落ちたところで、僕はやっとここに来た意味を思い出した。
今朝の窓辺でのやり取り。あの話の続きがしたくて来たはずだったのに、いつの間にかスヴァローネのペースに乗せられていた。
「お前と話がしたくて来たんだ」
「話?」
「そう。僕はお前のことをもっと知らなければならないと思う」
許さない、と零したあのぞっとする表情。
あの言葉と、声と、彼の何かが渦巻く目を見てから、今日は一日中何をしても手につかなかった。あれは獣を息をするように殺す僕に向けられたものに違いないのだ。
憎悪を直に感じて、初めて僕は自分の行動に疑問を抱いた。――何故、僕はこんなにも獣を殺さなければという、強迫観念じみたものに駆られている?
その答えを求めるには、スヴァローネとの対話が一番望ましいもののような気がする。
「獣を殺すことに躊躇いはなかったが、たぶんそれは、今までそれを悪と呼ぶ人が周りにいなかったからだ。お前が僕に立ち塞がったことで初めて、自分の行為について考え始めた。……なんだか、長い夢から覚めたような気分だ。視野が広がることとは、こういう感覚なのか?」
纏まっていないぐちゃぐちゃな思考のままを吐き出しただけだったが、スヴァローネは何も言わずにじっと聞いていた。
「獣に感情があり、人を襲うことにも彼等なりの意味があるとしたならば、僕たちは対話すべきなのかもしれないな。幸い、橋渡しとなってくれる代弁者がいるのだから」
「なるほど、歩み寄りを見せてくれるわけだね」
頷くと、スヴァローネは笑った。含みも何もない柔らかな笑顔だった。
「そのために親交を深めに来たってわけだね! 嬉しいなぁ、俺ももっとアイと仲良くなりたかったんだよ」
「……おい」
「ん?」
「仲良くなるって、こういうことか」
ベッドから軽やかに立ち上がり側まで寄って来たスヴァローネは、僕の肩に腕を回し、もう片方の手で無遠慮に頰や首筋を触りだした。残念ながらここにルークはいないので、止めてくれる者はない。
顔を引きつらせながらその手を自分で払いのけようとすると、逆にそれを掴まれる。
「は?」
気づいた時には引っ張られるがままに、スヴァローネが先程まで寛いでいたベッドの上に投げ出されていた。
「おい、いきなり何をっ」
「だってぇ、夜中に一人で訪ねてきてお前のこと知りたいって言われたら……こういうことでしょ?」
たった今見た、綺麗な笑顔は何処へやら。僕に覆いかぶさった男は、弧を描いている自らの唇を舐めた。その獣じみた仕草に、ぞくりと背筋が冷える。
正直に告白すると、僕はこの時かなり動揺していた。
兵士を連れて飛び回っているとはいえ、これでも僕は王子である。こういうこととは無縁に、大事に大事に育てられてきた。いきなり押し倒されるのは、ちょっとレベルが高すぎるというか、ショックが大きいと言うか。
固まって何も言えなくなる僕とは対照的に、スヴァローネは何やらペラペラと喋っていたが、生憎大半は僕の耳には届かなかった。
「――というわけで、前々からアイのことかわいいなーって思ってたし、これを機にペロリしちゃおうかなってね。これでも俺男だし? 据え膳食わぬはなんとやらってね」
銀髪に見え隠れする青い双眸が、至近距離まで迫ってくる。ふわりと森の匂いがしたと思った瞬間、
「いッ!?」
首筋に鋭い痛みが走って、目の前が真っ赤になった。容赦なく噛まれたのだと思った時には、目の前のスヴァローネは、見せつけるように再び唇を舐めていた。僕の血で濡れた唇。てらりと赤く染まった犬歯――
「あは。ご馳走さま」
「な、なっ、なっ……」
「あれ? アイちゃん顔真っ赤だよ。初心なんだね、かーわ」
「――何をするんだお前はっ!?」
ごつっと鈍い音。吹っ飛ぶスヴァローネの身体。
衝撃のあまり反射的に繰り出した頭突きで、スヴァローネはベッドの下で蹲った。
「いっ……たいんだけど!? アイちゃんいきなり何すんの!?」
「それはこっちのセリフだ! こんな、こんなっ……」
額を抑えて涙目のスヴァローネ。でも、恐らく僕の方もかなり涙目だったと思う。
「破廉恥だぞスヴァローネ!!!」
こんな辱しめを受けるなんて!
僕の絶叫を聞きつけて、廊下の方がにわかに騒がしくなり始める。我に返った僕は、噛まれた首を抑えてベッドから素早く離れる。最後にひと睨みしていくのも忘れない。
「ぶはっ、は、ハレンチってほんと処じ」
「うるさい黙れッ! 今後一切僕に近づくな!」
そう言い捨てて、客室から逃げるように飛び出した。スヴァローネの横をすり抜ける時、何か言われたような気がしたが、足は止めなかった。
ひやりと冷たい夜の廊下を足早に進む。見回りの兵士や使用人に見つからないようにと気を回しながら自分の寝所に帰りながら、やり切れない気持ちが膨れ上がっていくのを感じていた。
なんなんだ、あの仕打ちは。僕は、僕なりの答えを一日考え抜いた結果、獣に――スヴァローネに歩み寄ろうと思ったのに。
「……あんなの、手酷い裏切りだろう」
僕を押し倒したスヴァローネの姿がフラッシュバックして、胸がずきりと痛んだ。
どうして彼がこんな暴挙に出たのかはわからない。わからないが、下に見られているような気がして、とても不愉快だ。悔しい。腹立たしい。それに、何故か酷く傷ついている自分がいた。