Ⅱ 極めて有意義な語らい
中庭を臨める城の渡り廊下。朝の日差しが降り注ぐ開けた空間を、使用人たちは急ぎ足に、それでいて品格は決して損なわずに通り過ぎていく。
「アイデルト様、今日のご予定ですが」
斜め後ろに付き従ったルークが、スケジュールを読み上げていく。近頃は朝から城中が慌ただしい。それもそのはず、時期国王にして王位継承権第一位、我が兄の戴冠式が一週間後にまで迫っているのである。
そのための衣装の最終調整が午前に入っているが、それ以外は普段通りの進行ということらしい。手帳を読み上げたルークがそれを閉じたところで、
「アイちゃーん」
気の抜けた呼び声が辺りに響き渡った。僕はこれでも王子だぞ。王子に向かってアイちゃんはどうなんだ。と、最初こそ頰を引きつらせていたものだったが、今ではそれも慣れっこだ。行き交う使用人たちも、気にすら留めなくなった。
「スヴァローネ、何処だ?」
しかし、声はするもののその姿は一向に現れない。口では尋ねてみるものの、粗方の目星はついていた。窓の外の大木を見ると、案の定、太い枝の上で器用にくつろぐ彼の姿がある。
「ありゃあ、見つかっちゃったか」
目が合うと悪戯っぽく笑い、窓枠を越えてスヴァローネが入ってくる。盗賊か、そうでなければ猫のようなしなやかさだ。森で初めて出会った時とは打って変わって城勤めらしい装いをしているものの、やはり崩して着こなしている。窮屈な服は性に合わないらしい。
「やっほーアイちゃん、今日も相変わらずキレーなお顔だね」
肩に腕を回そうとしてくるスヴァローネの手は、すぐに叩き落とされた。言っておくが、僕ではない。
側に控えていたルークは、瞬時に僕を背後に隠してスヴァローネから引き離す。ちらりと見えたその表情は、言い表すならば般若だ。
「出ましたね、スヴァローネ……今日も懲りずに無礼な呼び方を! 身の程を知りなさい! 馴れ馴れしくアイデルト様に触れるな!」
「わお、ルークちゃん。今日も相変わらず怖いお顔だね……」
「怖くさせてるのはどいつだ。ルーク、お前も落ち着け」
果敢に僕を守ろうとするルークの肩に手を置いて諌める。何もできない姫君扱いするのはやめてほしいし、スヴァローネを見る度に逆賊扱いするのもやめてほしい。止めるこちらも何かと面倒だ。
森で出会ったスヴァローネを、獣との意思疎通のための通訳として連れ帰ってから一ヶ月。ルークはいつまでたっても、スヴァローネと遭遇する度に突っかかっている。
今までの冷戦沈着さは何処に行ったと言いたいくらいの豹変に、最初はそれはもう驚いた。しかし、こうして怒鳴りかかるルークの方が、以前よりも人間味があって面白いというのも、また事実であった。
僕に止められたルークはすっかり恐縮し、深々と頭を下げて取り乱したことを詫びた。横から「そうだぞー、ルークちゃん生理かなー?」と茶々を入れるスヴァローネを軽く睨む。ルークのこめかみが震えたのが見えたからだ。
一通り今日の連絡事項を伝えたルークは、自分の仕事に向かうために去って行った。その際に恐ろしい顔でスヴァローネに釘を刺すのも忘れない。といっても、スヴァローネはどこ吹く風であるが。
「あは、やっと二人きりになれたねぇ」
「何が二人きりだ。さっきから通りすがる使用人たちが見えないなら、お前の目玉は飾りだな」
「別にいいじゃーん? そういう気分でいた方が楽しいんだもん」
頰を膨らませて窓の淵に止まった小鳥に、「ねぇ?」と同意を求めるスヴァローネ。小鳥は一鳴きしてそれに応じた。
そんな遣り取りを、横でじっと眺める。俄かに信じがたいことだが、やはりスヴァローネは本当に獣の言葉を理解できていた。城に連れてきた当初、いくつかのテストも行ったのだが、彼は全て突破してみせた。城で飼っている犬を十匹並べて、何のヒントも与えずに尋ねたというのに、スヴァローネは全ての犬の名前と好んで食べる餌を答えて見せた。
「森に住む民はみな、そういったことが可能なのか?」
「そういったこと?」
「獣との意思疎通だ」
そもそも森の民という存在自体、スヴァローネに出会うまでは知らなかった。もちろん、我が国の領土は広大な森を有している。そこに住む者がいても不思議ではないが、独特の文化を持つ少数民族などの話は聞いたことがなかった。
「いや、そんなことはないんじゃない? 俺は自分以外に話せる人見たことないしなぁ」
スヴァローネは指の止まり木に小鳥を休ませながら、気の無い返事をする。
「てゆうか、やっぱり俺が特別なんでしょ。なんたって代弁者だしねぇ」
「ならば、その代弁者というのは誰が定めた?」
今日はなんとなく更に質問を重ねて、食らいついてみた。他意はないが、久しぶりにスヴァローネと二人で話す機会を得たので、聞いてみたかったのだ。ここのところ忙しくて、解明しておきたいことを放置したままだった。意思疎通できる理由。その能力をいかに手に入れたのか。怒り狂う野生の獣も、スヴァローネが説得をすれば従順になるのは何故なのか。
不意に、小鳥が逃げるように羽ばたいていった。急にこちらを見つめた青い眼に、どくんと心臓が鳴る。出会ったあの日と変わらない、静かな目。
「アイは、そんなに俺のことが気になる?」
「……当然だ。お前の力の源泉はぜひ知りたいところだ、スヴァローネ」
「知ったところでどうにもならないと思うけどねぇ」
ゆっくりとこちらに歩み寄ってくるスヴァローネ。僕はメデューサに睨まれたような気がして何も答えられず、かといって逃げるのはプライドが許さなかったので、その場に立ち尽くしていた。
目の前まで来たスヴァローネが、至近距離から顔を覗き込んでくる。いつの間にか、廊下からは人気が消えて、本当に二人きりになっていた。
「アイは、あれこれ俺に訊きすぎだよ。そんなに知りたいなら、アイも俺の質問に答えてね」
「お前の、質問」
「そう」
白く冷たいスヴァローネの指が、僕の頰に触れた。にやりと笑う。犬歯が鋭く光って、お前の喉笛を噛み切るぞと脅されている気がした。
「アイは、どうして今までたくさん獣を殺してきたの?」
――やはり、そう来たか。
普段は飄々と振る舞い、我が物顔で楽しげに城を闊歩するスヴァローネ。いつもの彼なら、にやにやと笑いながらもっとおちゃらけた質問を投げかけてきてもおかしくなかったかもしれない。
でも、今のスヴァローネは笑っていない。笑みを浮かべてはいるものの、いつになく真剣だと見ればわかる。
そうだ。スヴァローネは獣の代弁者を名乗って僕の目の前に現れた。獣を駆除することに憤りを覚えているのだ。ここで僕がふざけた答えを返したら、彼の怒りを買うことになるだろう。
――だが。
「…………わからない」
それらが、国民に害をもたらすから。だから王子たる僕はそれを駆逐せねばならない。そう答えても良かった。いつもはそう答える。でも、スヴァローネが求めているのは、そういった答えではないはずだ。
彼は表情一つ変えずに、「どうして?」と続きを促した。
何かを得るには、対価を支払わねばならない。僕は正直に全てを語ることにした。
「それがなんだったかは思い出せないが、幼い頃、ある時から獣を殺さねばならないという気持ちが降って湧いた。城で守られて育てられてきて、獣とろくに接したこともなかったくせに、急に思ったんだ。僕は殺さねばならない。殺したい、殺したいと」
「……ふぅん」
きちんとした動機にはなっていないが、スヴァローネは納得したらしい。するりと頰をひと撫でしながら、手を引いた。その擽ったさにぴくりと反応してしまったことを誤魔化すため、大きく後ろに飛び退いた。
「おい、僕は話したぞ。次はお前の番だ」
「あー、うん。まあそうだね。答えなきゃいけないんだけどさ……」
スヴァローネは困ったように銀髪を掻き上げた。
「俺も実は、似たようなもんなんだよね。特別に何かしてこの力を得たってわけでもない」
「どういうことだ?」
「俺もね、ある日急に言葉が伝わるようになったんだ。ああ、この力は神か天使かはたまた悪魔か、誰かが与えてくれたものなんだ、って思ったね。そして強く感じた」
在りし日を思い出しているらしい、再び窓の外に目をやるスヴァローネは、ひどく遠い目をしていた。
「……何を、感じた?」
「――許さない、と」
憎悪に歪んだスヴァローネの顔というものを、僕はこの日初めて見た。彼からは喜怒哀楽のうちの怒が欠陥していると思っていたが、普段は見せない者の怒りこそ、腹の底に深く溜まって燻っているものなのかもしれない。彼の言葉には、ドロリとした怨嗟が入り混じっていた。
しかし、それは一瞬のこと。すぐにいつもの顔に戻り、「この後も予定があるんでしょ? いってらっしゃいアイちゃん」とにっこりと微笑む。あっという間に仕舞い込んで、その片鱗すら見せない。
だが、暗い目をしたスヴァローネの横顔は、くっきりと脳裏に刻まれて、衣装調整の時間も、剣の稽古の時間も、ずっと忘れられないままだった。