プロローグ1
父の姿で覚えているのは書斎にこもって研究をしている背中だけだ。
母は自分を産んだ時に死んだ。
幼少の自分は父と話をしたかったけど、書斎で研究だけに心血を捧げている姿は犯しがたい聖人のようで話しかける事を躊躇われた。
「お父様はお忙しいようなので、私と遊びましょうか」
父の書斎をこっそりと覗いている僕に声を掛けてくれたのはいつも家にいる女性だった。
メイド姿でもなく、使用人の服装でもなく、裕福な貴族の服装でもなく。
普通の平民のような恰好をしたその女性は僕の手を取ると中庭に連れて行ってくれた。
「お父様は領主様だからきっと考える事がたくさんあるんですよ」
僕の小さな手を握ってそう笑ってくれた女性が何者だったのか、僕は知ることができなかった。
使用人やメイドに「あの人は誰?」と聞いても曖昧に笑って答えてくれなかったのだ。
周りの人達は彼女を腫物でも触れるかのように扱っていた。
それでも、彼女は僕に優しかった。
彼女が何者であったのか当時の僕が知る事はできなかった。
まるで母か姉のようだった。
そう、幼かった僕には感じられた。
父と話したり遊んだりすることができなかったけれど、
彼女の存在が僕の孤独をどれだけ癒しただろう。
今振り返って見たところで、僕は僕自身の過去を「寂しい幼少期だった」とは思えなかった。
まるで、春の木漏れ日のような毎日だった。
そんな生活は父が領主としての仕事を放棄し、あまつさえ資金を研究に使い込んだ事がシルメール国に露見し処刑される日まで続いた。
夢を見た。
とても懐かしい夢だったように思う。
「ミル、起きたか」
「あ、義父さん。ごめんなさい」
「いいさ。昨日は夜遅くまで話し込んだからな」
そう言って笑ったアルヴァニス家の当主リチャード・アルヴァニスは穏やかな笑みを浮かべた。
「昔の夢でも見てたかい?」
「あ、えーと、その――――」
まさか引き取られる前の夢を見ていました、と口にするのもなんだか今まで育ててくれた義父さんに悪い気がして言い淀むと、リチャードは笑ってミルディンの頭を撫でた。
「昔の事を思い出せるなら思い出してやってくれ。アーウィンもそのほうが喜ぶし、君の母のサキは――――そうだな、思い出話ぐらいしかしてやれないが」
アーウィンという名前は自分の実父の名前であり、サキというのは実母の名である。
2人とももう亡くなっている。母はミルディンを産んだ際に亡くなり、父は領地の資金を研究に使い込んでシルメール国の政府に処刑された。
リチャードとミルディンは今馬車に乗っている。
義父であるリチャードはシルメール国の中でも5本の指に入る魔術の使い手だ。
今日は王都で開かれた魔術師の講演会に参加した帰り道である。
リチャードが治める領地は比較的王都から近いので馬車による日帰りが可能だ。
とはいえ、それでも片道半日は掛かるので一泊する必要があったのだが。
「――――義父さん、あれ」
ミルが何気なく馬車の前方を眺めていると、リチャードの領地へ続く街道の脇で馬車が横転していた。
「――――ありゃ、事故ですかね」
その姿を確認した御者がのんびりと呟く。
「――――止めてくれ」
「ですが領主様――――」
領主であるリチャードの判断に異を唱えようと御者が口を開いたが、振り返った御者が見たのは心配そうな目で横転している馬車を見ているミルディンの幼い顔と真剣な目をした領主である。
普通なら、領主を乗せた馬車が平民や商人の馬車の為に止まることは無い。暗殺の為の罠の可能性だってあるからだ。
だが、
「息子の前だ。少しは格好いいところ見せたいだろう?」
と、茶目っ気を含ませた顔で片目を瞑ってみせた。
仕方が無いですな、と肩を竦めて御者は横転した馬車の近くで馬車を止めた。
「おい、どうしたんだ?」
「それが、脇のくぼみに車輪を取られてそのまま横転しちまって! 家族で押してるんだが持ちあがらないんだ!」
御者が「お二人はそのままで」と言って横転した馬車に近づくのをミルは窓からひょっこりと顔を出して観た。
馬車の装丁は平民や商人が使うような普通の幌馬車で、その近くには男性が1人と女性が1人、そしてミルディンと同じぐらいの年頃の子供が3人いた。
「どうにかなりそうか?」
「それが全然だめで! このままじゃ魔獣か魔物に襲われちまう! なあ、あんたの馬車に乗せて――――」
と、父親らしき男が此方を見てから目を丸くした。
どうやら距離が近くなったところでその馬車の装丁を見て「貴族の馬車」とわかったのだろう。
諦めを多分に含んだ顔をした事から、シルメール王国の貴族が平民の為に協力する事は無いだろうことがうかがえた。
「やれやれ、息子に格好いいところを見せたいのだと言ったんだがな」
溜息半分呆れ半分、と言った様子でリチャードが馬車から降りると平民の家族は悲鳴をあげそうな顔でその場で平伏した。
ぽかんとした顔の子供達を母親が慌てて頭を下げさせる姿がなんだか喜劇みたいだった。
「頭をあげてくれ。そんな真似をしなくていい。君たちはこの先のアルヴァニス領に用事かい?」
ひらひらと手を振ったリチャードはそう言ってステッキの杖先を地面で叩くとその地面がゆっくりと持ち上がり始めた。
それが徐々にずんぐりとした人に似た姿を取るのを見て取った家族は大慌てで説明し始めた。
どうやらリチャードが怒っているように見えたようだった。貴族が他人にはわからない理由で怒ることはよくある話ではある。
「ええ! これからアルヴァニス領に引っ越すところで! お金を貯めてやっと店を持てるっていうんで一家で出てきたんです!」
「アルヴァニスで店を持てるとなると――――嗚呼、もしかして先日の区域整理で出た空家などの物件かな?」
「はい! そうです! よくご存じで――――」
ミルディンが馬車から降りてリチャードに近づくと家族達はミルディンにも挨拶するべきか一瞬悩んだようだったが、とりあえず目の前の貴族の機嫌を損ねては悪いと思ったのかミルディンに声を掛ける事は無かった。
「――――矢先に馬車の横転とは運が悪かったね」
リチャードがそう言って杖の先端で地面をもう一度叩くと作り出された土ゴーレム達が馬車を持ち上げ始める。
数人の人間が力を合わせても持ち上がらなかった馬車が土ゴーレム達の力によって軽々と持ち上がった。
「おお」と歓声の声が上がるのをミルディンは見ながら、近くの森へと視線を向けた。
「車軸は大丈夫かい?」
「ええ、なんとか! ありがとうございます!」
「いいさ、自分の領民の為に働くのは貴族として当然の行いだよ。ノブレス・オブリージュって奴さ」
「へ?」
茶目っ気を込めて片目を瞑ってみせたリチャードだったが、相手が領主である事を知ればさらに委縮するだろうなと思って早めに切り上げようと振り返った瞬間、
「義父さん!」
「むっ!」
ミルディンの鋭い声に反応したリチャードは自身の前方と御者、平民の家族の前にゴーレム達を回させた。
同時にミルディンも自身の魔力を使って土魔法を使って壁を作る。と同時に数本の矢が全員を狙って飛来してきた。
それらの矢はミルディンの土壁かゴーレム達に刺さるに止まり、誰かが怪我をすることを防いだ。
「ひぃ!」
「頭を下げて! 伏せていなさい!」
リチャードの声を半ば条件反射で従った家族達を確認した後、リチャードは息子のほうを見る。
ミルディンは自分で作り出した土壁の魔法の後ろで地面に耳をつけていた。
「何かわかったか?」
「2足歩行。足音は軽い。たぶんゴブリン」
「数は?」
「3――――いや4。接近してる」
「魔術師が相手と知って接近戦に持ち込むつもりか」
そう言って苦い笑みを浮かべたリチャードはゴーレムに刺さった矢を抜いてから、ふと思いついたようにミルディンへとひらひらと手を振ってミルディンの視線を自分へ向けさせた。
「なに? 義父さん」
「矢だけに矢先――――」
「――――はいはい」
駄洒落になって無い、と視線を森に戻したミルディンの様子に落ち込むリチャード。
「あ、あの貴族様――――」
「君達はそこで大人しくしていなさい」
平民の男が恐る恐るといった様子でリチャードに声を掛けたが、リチャードは笑っていた。
その男の後ろから青い瞳の素朴な少女がリチャードを見た後、ミルディンのほうを見るとミルディンもまた笑っていた。
なんでもない、これぐらいの事はよくあることだ、と言わんばかりの余裕の笑み。
「貴族は義務を負う」
そんな少女の視線に気づいたミルディンは笑う。
「ノブレス・オブリージュ。貴族は民の為に働かなくちゃいけないっていう意味。だから大丈夫だよ」
ミルディンの言葉の意味を少女は理解できなかったが、目の前のミルディンと言う少年が気楽に笑っているのを見て「何でもない事なのだ」と感じて身体から力を抜いた。
「それじゃあここは私が一つ格好いいところを――――」
「いや、義父さんは此処で待っててよ。領主でしょ?」
「お前が前に出るとか言わないよな?」
「むしろ領主が先に前に出るとか――――」
「子供を前に出す親がいるか!?」
などと安心しかけたのに目の前の貴族親子は口喧嘩を始めてしまった。
目を点にする家族と「やれやれまた始まった」という顔で肩を竦める御者。
そんな風にぎゃーぎゃ騒ぎ始めた2人だったが、森から4体の緑色の小人――――低級位の魔物ゴブリンが現れたところで、
「我は請う! 火精の貫き! 我が意を持って敵を貫け!」
「我は請う! 土精の貫き! 我が意を持って敵を貫け!」
リチャードの詠唱とミルディンの詠唱が重なる。
「<フレイム・ランス!>」
「<ストーン・ランス!>」
リチャードが詠唱を終えると同時に空中で火花が起きたかと思うと流星のような輝きを伴って火の槍がゴブリンを2匹同時に串刺しにする。
同時にミルディンの詠唱に応えるかのように地面が隆起したと思った時には既にゴブリン2体を地面から現れた石の槍が貫いていた。
一瞬の出来事だった。
魔術としては低級位の魔術だったが、それ以前に完全な無詠唱でゴーレムを生成したり土壁を作ったりしている姿を目にしている事から本来なら必要ない詠唱だったのだろうことは一目瞭然だった。
だが、あえて魔術が使えると詠唱込みで行う事でその姿を平民の家族の頭の中に焼き付けたかったのだろう。
『私達がいる限り大丈夫』と示す為に。
「おいおい、ミル。術の構成が甘いぞ。ほれ、もう崩れてきてるじゃないか」
「――――だって慌てたし」
「それに比べて私のは2体同時貫通だぞ! はははは! まだ甘いなミル!」
「――――そんな義父さんに1つ伝えなきゃいけない事がある」
「ん?」
首を傾げたリチャードだったが、ミルが指さす方向を見て大慌てで呪文の詠唱を始めた。
「森、火が点いてる」
ぎゃーぎゃーと騒ぎながら水魔術を使って鎮火に入る魔術師の貴族とそれを冷めた目で見ている息子と思われるミルの姿を平民の家族達がぽかんとした表情で見ていた。
「こりゃ、帰りが遅くなりそうですねぇ」
慣れた様子の御者はそう言ってため息を吐いたのだった。