王子様の来襲。
王子が花嫁候補の集まる舞踏会を抜け出したことは、瞬く間に噂になった。だが、不思議なことに、誰と一緒だったということはさっぱり伝わってこない。お相手は誰なのか、今では、それが国一番の関心事となっていた。
フィーリアは、自分が矢面になってはいないことにほっとしつつも、内心は穏やかではなかった。
フィーリアが王子の花嫁に望まれたなどと、王宮の庭園での出来事は、すべて自分の妄想だったのではと疑いたくなってくる。
王宮からは、何の知らせもない。父にも、何も伝わっていないようだ。ツェズ伯爵は、フィーリアが王子に手を引かれて出ていったことは気づいていたようだが、後からも何も言わなかった。
すべては、夢の中のこと。フィーリアは、無理矢理にでもそう思い込んで、日常に戻ろうとしていた。
「フィーリア様」
いつものように窓辺で読書をしていたフィーリアは、侍女のティナの珍しく慌てた声に、振り向いた。
「...またその本ですか」
呆れたようにティナは言った。
「好きなんですもの、何度読もうと構わないでしょう?」
フィーリアは言った。ゼクストン建国当初の頃を舞台にした『沈黙の騎士』の物語は、フィーリアのお気に入りだった。
「そのわりには、頁が進んでいらっしゃらないようですけど」
ティナの言葉に、夢の中の出来事を反芻していた自分に気づき、フィーリアは顔を赤らめた。
ところが、いつもならそんなフィーリアの様子に突っ込んでくるティナが、
「いやだ、本のお話をしてる場合じゃなくて」
と、言葉を詰まらせた。
会話が途切れると、何やら扉の外が騒がしいのがわかる。
「フィーリア様、急いでお召し変えを...」
ティナが言い終わらないうちに、部屋の扉が開いた。
非常識にも、入って来たのはクライス王子その人だった。
「ごめんね、突然お邪魔して」
ちっとも悪いと思っていない様子で、王子は言った。
「でも、先触れとかすると、君に嫌がられるかと思って」
相変わらず爽やかで、完璧な王子ぶりに、お忍びだからと、押しきられた召し使い連中は役に立たない。
「どうしてここに...?」
フィーリアも呆然として、そんなことしか聞けなかった。
「君に考え直してもらうには、どうしたらいいか聞きに来たんだ」
「考え直す...?」
「そう、僕との結婚」
後ろに控えていたティナが、息を呑むのがわかった。
「あれは、夢の中のことじゃ...」
現状認識を無意識に拒むフィーリアに、クライスは穏やかに微笑みかけた。
「僕がここにいるのと、同じくらい本当のことだよ」
そう言って、フィーリアが抱えている本を覗きこんだ。
「『沈黙の騎士』だね。前に会ったときも、その本を見ていたっけ」
王子と面識があったなら、覚えているはずと、フィーリアは首を振った。
「...君は、覚えていないかもしれないけど」
王子があまりに寂しそうに言うので、思わず、
「きっと、王子様の人違いです!」
またも無礼に当たるようなことをフィーリアは口走った。
「わたくしではない、他の誰か、ですわ」
クライスは、ただ微笑んで、フィーリアの言葉を否定はしなかった。
「...どうしたら、信じてもらえるのかな?」
ささやくように、クライスはこぼした。その表情が、せつなげで、フィーリアも、どうしていいかわからなくなってくる。
「あんなに、綺麗で、賢くて、素晴らしい妹君がいらっしゃるのですもの」
フィーリアは、何か言わなくてはと無理に言葉を紡ぐ。
「アリシア様のようにとはいかなくても、王子様にふさわしい方がいらっしゃいますわ」
「アリシア...? 妹のせいなのか?」
クライスの言い方が棘を含む。
「だって王子様の奥様は、アリシア様のお義姉様になられるのですから...」
フィーリアがたどたどしく言い募ると、クライスは小さくため息をつき、
「わかったよ」
と、両手を上げて降参の意を示した。
そして、クライスは、「お茶を」と引き留める伯爵家の面々に角がたたない程度の厳しさで辞退すると、それ以上は長居は無用とツェズ伯爵邸を去っていったのだった。




