星浚い
森の奥から流れる風がスカートを揺らす。風に混じるこの生臭さは何だろう。においは気になるものの、何かに導かれるように私は森に足を踏み入れた。
月の無い夜だ。
星彩の美しくも心許無い明かりでは、樹々の影と空間すら区別がつかない。覆いかぶさるような樹冠によって星明りすら遮られ、いよいよの暗闇の中、
ざくっ
ざくっ
ざくり
落葉を踏みしめるたび、僅かな湿り気を帯びた黴臭さが立ち上る。あちこちの幹から跳ね返る自分の足音は、ぼんやりと籠って聴こえる。
迷いはない。ただ、このまま進まなければいけないという想いが私を突き動かす。
これは屹度、夢だ。明晰夢というやつ。
――ふいに足音の籠りが消え、空気の生臭さが強まった。密だった樹々が途切れ、小さな淵が姿を現す。漣一つ立っていないどろりとした水面には、空に浮かんでいない筈の月が映っている。水面を覆う程に大きな真円は僅かに赤味を帯び、生臭さはそこから立ち昇っているんじゃないかと思えた。
そのまま数歩進み、足が止まる。
思いの外明るい虚像の月に照らされた水際で、茣蓙の上で片膝を立てた小柄な老人が、水面に浮かぶ木の葉を見詰めている。何だか随分と古臭い服を着ているけど、あれって道士服ってやつ?
老人は細い竹を手にしていた。撓る竹の先には糸が垂れ、糸は水に浮かぶ葉に繋がっている。木の葉を浮き代わりに、釣りをしているようだ。
まだ私の気配に気付いていないのかしら。鼻から下を真っ白な髭に覆われた横顔は、表情がよく分からない。
ふいに、老人は胸まで垂れた髭をゆらゆらと揺らし、
「やっと来たのか。儂があんたを呼んだんだよ」
水面に浮かぶ木の葉に顔を向けたまま呟く。なんだ、気が付いてたのね。呼ばれた覚えなんてないけど。
私は淵に向け一歩、二歩と下草を踏みしめる。老人の隣に立ち止まり、水面を見下ろす。
「ここが何処だかわかるかね」
「いいえ」
「あんた、星浚いって知ってるかい? 地に生じた星を見つけて、空に送るお勤めでな」
やっぱりこれは夢なのね。この老人の言っていることはまるで要領を得ない。
「星浚いなんて言ったって、実際には糞浚いみたいなもんさ。どうせ在りゃしないものを探す羽目になるんだ。臭くて汚いものを浚ったところで無駄だろうに。後片しも面倒だし、お役目とはいえうんざりだ。あんたもそう思わんか?」
星が何を指してるのか分からないけど、この老人は滅多に見つからないらしいものを、その粗末な竿で釣り上げるつもりなのだろうか。出来ない人間の典型ね、効率が悪すぎる。
「網でも使ったらいいんじゃないんですか?」
私の言葉に老人は黙り込み、暫くして、
「ああ、何の事かと思った。まさか星を釣ってると思ったのかね。違うよ、星浚いを楽にするためのものを釣ってるだけだ。言っただろう、汚いところを浚うのが嫌だって……ふん、あんた、本当に何も分からないんだな」
折角のアドバイスを鼻で笑われ、頭に血が上る。紛らわしい言い方をしたのはそっちじゃない! 苛立つ私に、
「やっぱりはずれか……偶に居るんだよ、あんたみたいな人間が。ここに来たら、大抵は何かしらを感じるもんだが……ああ、持ってないから分らんのか」
呆れを隠そうともしない目が向けられる。
はずれ? 持ってない? 何の事? ただこれだけは理解した。
――このジジイは、敵だ。
「無駄だと分かってても、一応は確かめないとならんのは億劫だな。どうせ、持たざる者なのに……」
心底辟易していることが伝わる声音に怒りが湧く。何を持ってないって? 頭脳も、美貌も、名声もあるこの私が? 本当に世の中は敵だらけ。人や物の価値の分からない馬鹿ばかりだ。そのくせ、どいつもこいつも噛みつくことだけは一人前。
例え夢の中でも許せない。
大体――したのは、あいつ等が私の足を引っ張るからだわ。
?
私は何かしたの?
「――」って、何だっけ?
「どいつもこいつも」って、誰の事だろう?
考えは纏まらないけど、いつも通り敵は排除しなくちゃ。私の目が、足下に落ちている子供の頭くらいの大きさの石に留まる。
嫉みで人の人生を邪魔するような敵には、それなりの措置を施さないとね。
「ああ、いいんだよ、無理に思い出さなくて。儂はただ役目を熟すだけだから。あんたの……」
素早く石を拾い上げ、喋り続ける老人の頭を思い切り殴りつけた。その勢いが伝わったのだろう、老人が握った釣竿の先で釣り糸が跳ね、バシャンと水面を叩く。月光がざわざわと揺れて、淡い光の乱舞が微動だにしない老人の身体に踊る。
……どうして普通に座ったままなの。硬直しちゃったのかしら。早く倒れなさいよ、あいつらみたいに。
あら? あいつらって誰だっけ?
バシャン
まだなの?
バシャン
もう一度。
バシャン
もう一度。
バシャン
息が上がる。運動は嫌いなのよ。なんでまだ倒れないのよ、手間を掛けさせないで。
「いい加減に……!」
思い切り石を振り被ると、くく……と、耳障りな忍び笑いが聴こえた。
「おお、怖や。あんたのような者は、ここでも滅多に見掛けんよ」
当たり前に喋る姿にぞっとする。白髪頭は何処も陥没したりしてない。血も流れていない。
「年寄りにはもっと優しくしておくれ。そんなに殴られたら、いくら儂が丈夫だって多少は痛いんだよ……お、漸く掛かったか」
老人の手にした竿が激しく撓り、木の葉が勢いよく水中に沈む。老人がそら、と掛け声をかけ、釣竿を勢いよく引く。糸の先には、淵に浮かぶ月ほどもある、いくつもの生首で出来た塊が下がっていた。よく見ればどこか見覚えのある顔もちらほら混じっている。
宙に浮いたまま、生首達の血走った目が一斉に此方を見た。その悍ましさに、喉の奥に悲鳴が張り付く。
老人が嬉しそうに立ち上がった。
「おお、こりゃあ見事な首玉だ! それ、お前達をそんな姿にした者は此処に居るぞ」
『すごく痛かったのよぉおォ』
『あの子を返してぇ』
『お前のせいで』
口々に喚く首玉に背を向け、走り出す。
がつんという衝撃に、勢いを殺しきれず顔から転倒する。右腿に感じた焼けるような痛みに悲鳴をあげる。
上体を起こし、右脚に目を遣る。
無い。捲れあがったスカートからすらりと伸びる左脚……だけ……? 私の右脚は……?
泥の様な粘液が右太腿のあった辺りから噴き出す。すぐそこで首玉の何十もの目がそれを見下ろしている。何かをくちゃくちゃと咀嚼している首の口の端から、見慣れたパンプスを穿いた足首が覗く。他の首達がそれに目を向け、羨ましそうによだれを垂らす。
「やめなさい……やめろって言ってるでしょ……やめて!」
震える声で叫ぶ私目掛けて、首玉が落ちてきた。
老人はさっきまで女がいた辺りに屈み込んだ。僅かに残る汚泥を掻き分け、
「ほれ、やっぱりはずれだ。無いと分かってるものを探すのは面倒なもんだ。ああ、汚らしい……ま、お前さん方のお陰で少し楽させて貰ったよ。ありがとさん、これからはゆっくりお休み」
溜息を吐き、満足気に淵に映る月へと還る首玉を見送った。




