間違ったドア
その日、玉田悠良は街の端にある小さなアパートへ引っ越してきた。
建物は少し古く、外壁の色もところどころ剥げている。だが、廊下は清潔で、人の気配も少ない。家賃が安い。それだけで、悠良にとっては十分だった。
段ボールを一つずつ開けながら、悠良は特に考えずに荷物を片付けていく。本は適当に棚へ、服は軽く畳んでクローゼットへ押し込む。机の上には、細々した物がそのまま残された。
一通り終えると、悠良はそのままベッドに倒れ込んだ。
体が空っぽのように感じる。空腹ではない。ただ、ずっと溜まっていた疲れが、ようやく表に出てきただけだった。
悠良は一人暮らしだ。
父親は数年前、病気で亡くなった。急でもなく、派手でもない。少しずつ弱っていき、ある朝、家が静かになっただけだ。母親はそれよりも前に離婚している。悠良が中学生になる前のことだった。
それからは父と二人で暮らしていた。
そして今は、本当に一人だ。
だから引っ越した。
だからアパートを選んだ。
思い出の詰まった家に残るより、そのほうが楽だった。
引っ越したその日は、何もしなかった。
眠って、起きて、また眠る。
翌日、日常が戻ってくる。
悠良は高校二年生。同じ学校、同じ教室、同じ顔ぶれ。窓際の席で、今日も一人。必要最低限だけ話し、必要最低限だけ頷く。
春の暖かさが教室を包み、授業はいくつか、半分夢の中で過ぎていった。
放課後、悠良は眠そうな顔のまま校舎を出る。シャツは少し汗で湿り、足取りは重い。
アパートに着き、鍵を開ける。
中へ入る。
目は半分閉じたまま、壁や机に手を伸ばしながら、記憶だけを頼りに歩く。そのまま寝室へ行き、ベッドに倒れた。
「……柔らかい」
いつもより、少しだけ。
数秒後――
「きゃああああっ!!」
悲鳴で、悠良は飛び起きた。
ドアの前に、タオル一枚の女性が立っている。顔は真っ青で、目を大きく見開いていた。
「ど、泥棒!!」
「ど、泥棒!?」
「はぁ!?なんで泥棒が泥棒って叫ぶのよ!ここ、私の部屋なんだけど!!」
「いや、ここ俺の部屋だろ!?クローゼットの色まで違うし!」
「それ全部、私の物だから!!」
言葉を失った悠良は、部屋を見回す。
壁の色、カーテンの柄、違和感。
「……部屋、間違えた?」
悠良はそのまま外へ出て、廊下で部屋番号を確認する。
違う。
「……すみません」
「いいから、早く出て」
夜。
コンビニのアルバイトを終えた悠良は、意識が朦朧としたまま帰宅し、ソファに倒れた。
翌朝――
「はあああっ!?」
「……おはよう」
「おはようじゃないでしょ!今すぐ出て!!」
また追い出された。
その日の放課後。
「……邪魔」
「隣!!」
「……あ」
「なんでそんなに間違えるのよ!」
「夜、バイトして……ゲームして……」
「睡眠時間は?」
「三時間……四時間……」
少しの沈黙。
「……水野セラ」
「……玉田悠良」
夜。
ホラー映画を観ていたセラの部屋に、また音が響く。
電気をつけると、そこには――
「またあんた!?」
「……間違えた」
その日から、水野セラの日常は、玉田悠良に侵食され始めた。
原因は一つ。
彼女が、鍵を閉め忘れるからだった。




