神様が生まれた日
彼が最後に理解した真実は、音も匂いも伴わず、ただ思考の底に沈殿するように訪れた。
研究室の床に座り込んだまま、彼は自分のノートを一冊ずつめくっていく。
犬の遺伝子配列。
マウスの神経回路。
昆虫の集合行動。
菌類の異常な増殖速度。
どれも正しい。どれも成功している。
数値も、映像も、解剖結果も、すべて彼の仮説を肯定していた。
だが、肯定されていたのは「神」ではなかった。
培養槽の中にあったもの。
彼が神の胎動だと信じていたそれは、臓器も、意志も、個体性も持たなかった。
ただの菌だった。
だが、その菌は人類がこれまで知っていたどの菌とも違っていた。
それは増殖しない。
正確には、増殖の痕跡が観測できない。
培養槽の中で数が増えているはずなのに、計測値は常に一定だった。
代わりに増えていたのは、人間側の「知覚」だった。
彼は気づくのが遅すぎた。
菌は生命を変異させていたのではない。
知覚そのものを書き換えていた。
神の声。
神の姿。
神の意思。
それらはすべて、菌が脳内で作り上げた幻覚だった。
彼が見た「神」は、彼自身の欲望と恐怖と万能感が混ざり合った投影に過ぎなかった。
だが、理解した瞬間でさえ、その神は彼の前に立っていた。
白く、形を持たず、しかし圧倒的な存在感だけを伴って。
「完成した」
神がそう告げたとき、彼は安堵した。
自分は間違っていなかった。
神は確かに存在している。
次の瞬間、神は彼に手を伸ばした。
爪も歯もない。
触れられた感覚すらない。
それでも彼は、確信した。
殺される、と。
心臓が止まり、視界が暗転し、呼吸ができなくなる。
彼は床に倒れ、必死に空気を求めた。
だが実際には、神は何もしていなかった。
彼の死因は、外傷でも中毒でもなかった。
極度の恐怖と幻覚による心因性ショックだった。
死の直前、彼は微笑んでいた。
神に殺された。
それは、彼にとって最高の結末だった。
研究室には、誰にも気づかれないまま菌が残された。
空調に乗り、排水に混じり、研究者の靴底に付着し、街へ、国へ、世界へと広がっていく。
だが、誰も異変に気づかなかった。
なぜなら、気づくための知覚そのものが、すでに狂わされていたからだ。
人々は幻覚を現実だと信じ、現実を幻覚だと笑った。
神を見た者も、何も見なかった者も、区別がつかなくなった。
やがて社会は崩れた。
理由は誰にも説明できなかった。
ただ「そうなった」としか言えなかった。
人類は、静かに、混乱の中で滅びていった。
その後に残ったのは、森だった。
海だった。
動物たちの、争いの少ない世界だった。
人間だけが消えた地球は、皮肉なほど穏やかだった。
かつて神を作ろうとした男は、
結果的に、人類を終わらせる菌を生み出した。
それは偶然だったのか。
必然だったのか。
誰にも分からない。
だが一つだけ確かなことがある。
人間を滅ぼし、地球を解放した存在を「神」と呼ぶなら。
彼は、ある意味で本当に神を作り上げてしまったのかもしれない。
この作品を書こうと思ったきっかけは、『雨と君と』というアニメを観ていたときに、主人公の飼っている犬(?)が雑種だという話題が出てきたことでした。
二種類を交配させて生まれる雑種は当たり前のように存在しますが、では理論上、どこまで多くの種類を混ぜ合わせた生命体が作れるのか。そもそも「種」とはどこで線を引かれるものなのか。
そんな素朴な疑問を調べていくうちに、考えは次第に生命そのものや、人間の傲慢さ、そして「神を作ろうとする行為」へと逸れていき、この物語が形になりました。
科学的な興味から始まった思考が、どこまで歪み、どこまで行き着いてしまうのか。
その過程を楽しんでいただけたなら幸いです。




