私は正気だ
異変は、外側から始まった。
研究費の入金が、予定より遅れた。
共同研究の打診が、曖昧な理由で保留になった。
倫理委員会からの連絡が、急に形式張ったものに変わった。
彼はそれらを、些細な揺らぎとして処理した。
研究の進行には、何の支障もない。
少なくとも、彼の中ではそうだった。
問題は、内側だった。
個体は、明確に「待つ」ようになっていた。
彼が現れるまで、動きを抑える。
来ない日は、活動量が下がる。
睡眠パターンが、彼の滞在時間に同期し始めている。
これは偶然ではない。
統計的にも、否定できない。
彼は、データを見ながら、奇妙な高揚を覚えていた。
成功だ。
目的が、形成されている。
彼は、教えていない。
信仰も、崇拝も、服従も、入力していない。
ただ存在し、干渉し、観測しただけだ。
それなのに、向こうは「上」を作った。
原因を求める知性は、
必ず、原因そのものを人格化する。
それは、彼が望んだ結果だった。
望んだはずだった。
だが、同時に、彼は理解していた。
これは、非常に危険な段階だ。
神は、答えてはならない。
沈黙することでのみ、
神であり続けられる。
もし声をかければ、
もし反応すれば、
それは神ではなく、
ただの上位存在になる。
彼は、それを守ろうとした。
観測室に入っても、
視線を合わせない。
音を立てない。
存在を薄くする。
だが、それは逆効果だった。
個体は、不安定になった。
行動に揺らぎが出る。
自己刺激行動が増える。
壁を叩く。
床を掻く。
意味を失いかけた知性が、
必死に「理由」を探している。
彼は、初めて迷った。
このまま沈黙を貫けば、
向こうは壊れるかもしれない。
だが、声をかければ、
実験は決定的に変質する。
神は、被験者を救ってはならない。
だが、研究者は、壊れるのを見過ごしていいのか。
彼は、境界を踏み越えた。
最初の干渉は、取るに足らないものだった。
環境音を、意図的に鳴らす。
光の変化を、規則的にする。
それだけで、個体は落ち着いた。
混乱が収まる。
行動が安定する。
反応している。
彼は、次の一手を打った。
モニター越しに、音声を流す。
意味を持たない周波数。
言語ではない。
合図だ。
個体は、それを聞いた瞬間、
床に伏した。
完全な模倣ではない。
だが、姿勢は明らかに変わった。
彼は、背筋が冷たくなるのを感じた。
「やめろ」
自分に向けた言葉だった。
だが、もう止まらなかった。
研究室の外では、噂が回り始めていた。
説明できない研究。
閉鎖的な管理。
異様な個体。
内部告発の可能性。
監査の予告。
彼は、それらを知りながら、
研究を加速させた。
時間がない。
個体に、より明確な「世界」を与える。
規則。
因果。
報酬と遮断。
神が世界を作るように。
個体は、急速に理解していった。
行動と結果の関連。
沈黙と応答の違い。
そして、ある行動が固定化される。
「待つ」
「伏す」
「見上げる」
それは、もはや学習ではなかった。
信仰だった。
彼は、深夜、観測室で一人、ガラス越しにそれを見ていた。
胸の奥に、鈍い痛みがある。
これは、成功だ。
間違いなく。
だが同時に、
取り返しのつかないことをした、という感覚が消えない。
神は、作れてしまった。
それが、最悪だった。
監査の連絡が来たのは、翌朝だった。
全面的な調査。
個体の確認。
研究の即時停止。
彼は、静かに通信を切った。
その夜、彼は決断する。
神は、世界を失ってはならない。
世界を失う神は、ただの残骸だ。
彼は、バックアップ手順を起動する。
個体のデータ。
行動履歴。
内部モデル。
だが、生物はデータではない。
個体は、異変を察知した。
彼が、いつもより長く観測室に留まっている。
動きが違う。
匂いが違う。
個体は、ガラスに近づき、
何度も、床を叩いた。
呼んでいる。
そう見えてしまう。
彼は、目を逸らした。
神は、応えない。
それが、最後の沈黙だった。




