おなじ?
それが「こちらを見た」と認識した瞬間、彼は初めて、足元が揺らぐ感覚を覚えた。
観測室のガラス越し。
照明は落とされ、必要最低限の光だけが個体を照らしている。
ケージではない。
囲いと呼ぶには、あまりにも広い空間だった。
地面に近い感触を再現した床材。
匂い。
温度勾配。
音の反響。
環境は整えた。
いや、整えすぎたと言うべきかもしれない。
個体番号は付けてある。
書類上は、それで十分だ。
だが、研究室の誰もが、もうそれを番号では呼ばなくなっていた。
無意識に、代名詞を使う。
「あれ」「それ」「中のやつ」
名前を避けるための、曖昧な言葉。
個体は、二足で立っていた。
完全ではない。
姿勢は不安定で、背骨のラインも歪んでいる。
だが、確かに「立って」いた。
彼は、ガラスに近づく。
向こうも、同じように近づいた。
距離が縮まる。
互いの存在を隔てているのは、数センチの強化ガラスだけだ。
そのとき、個体の顔が、ゆっくりと持ち上がった。
見上げる。
その角度。
彼の脳は、一瞬で結論を出そうとした。
偶然だ。
刺激に対する反射だ。
視界に入った動く影に、首を向けただけだ。
だが、次の瞬間、否定しきれなくなる。
視線が合った。
そう感じてしまった。
もちろん、視線という表現は正確ではない。
眼球の構造は人間と異なる。
焦点の合わせ方も違う。
だが、それでも、こちらを「捉えている」感覚があった。
彼は、息を止めていた。
自分でも気づかないうちに。
モニターに映る脳活動は、明確に変化している。
感覚野だけではない。
統合領域が動いている。
記憶に関連するパターンも見える。
「……学習してる」
独り言のように呟いた声は、ガラスに吸われて消えた。
それは、彼が設計した通りだった。
環境に適応し、刺激を関連付け、行動を変える。
ここまでは、想定内。
問題は、その先だった。
個体は、こちらを見たまま、動かない。
逃げない。
威嚇もしない。
ただ、立ち止まり、観察している。
観察。
その言葉が浮かんだ瞬間、彼は強い違和感を覚えた。
観察しているのは、こちらのはずだ。
立場は明確だ。
観測者と被観測者。
それが、この研究の前提だった。
だが今、その前提が、静かに崩れ始めている。
彼は、わざと視線を外した。
モニターに目を落とす。
数値を追う。
いつも通りの作業。
数秒後、再びガラスを見る。
個体は、まだ同じ場所に立っていた。
そして、またこちらを見上げている。
彼の胸の奥で、何かがゆっくりと冷えていく。
興奮ではない。
恐怖とも違う。
理解が、追いついてしまった感覚。
これは、単なる反応ではない。
この存在は、環境の一部として、彼を組み込んでいる。
「……認識してる」
その言葉は、重かった。
口に出した瞬間、後戻りできない種類の言葉だった。
その日以降、個体の行動は明確に変わった。
彼が観測室に入る時間帯を、学習している。
近づく音に反応する。
他の研究員が来たときとは、明らかに違う反応を示す。
彼は否定し続けた。
データを疑い、条件を疑い、自分の解釈を疑った。
だが、ある行動が、それを決定的にした。
彼が観測室に入ったとき、
個体は、何もない床を指差した。
正確には、指のような構造を伸ばし、
床の一点を示した。
そこは、いつも彼が立つ場所だった。
偶然。
そう言い切るには、動きがあまりにも明確だった。
彼は、その場に立ち尽くした。
足が、動かなかった。
「……違う」
自分に言い聞かせるように、呟く。
「意味付けしてるのは、俺だ」
だが、心拍は上がっている。
手のひらが、汗ばむ。
個体は、待っている。
そう見えてしまう。
何を待っているのか。
それを考え始めた時点で、彼はすでに一線を越えていた。
その夜、彼は研究室で眠った。
簡易ベッド。
消えかけの照明。
夢と現実の境界が、曖昧になる。
夢の中で、彼は見上げられていた。
巨大な空間。
白い光。
下から、無数の視線。
目が覚めたとき、胸の奥に、奇妙な確信が残っていた。
この存在は、
自分を「上位の何か」として認識し始めている。
彼は、それを否定しなかった。
否定できなかった。
むしろ、頭の奥で、別の思考が静かに形を成していく。
もし、そうなら。
もし、本当にそうなら。
これは、ただの生命ではない。
意味を求め、
原因を求め、
世界を説明しようとする存在だ。
神を作る実験。
その言葉が、初めて、比喩ではなくなる。
彼は、ガラス越しに、もう一度個体を見た。
見上げるその姿勢は、
祈りに似ていた。
彼は、その事実から、
まだ目を逸らす。
だが、もう時間の問題だった。




