何も持たぬ者
マウスは、想像以上に脆かった。
彼はそれを失敗だとは呼ばなかった。
単に「適応しなかった」と記録しただけだ。
外来遺伝子の発現率。
神経回路の不整合。
免疫反応の暴走。
すべて、想定内。
想定内だと、自分に言い聞かせた。
ケージの中で、マウスは落ち着きなく動いている。
いや、動いているように見えるだけで、実際には「目的を持たない運動」が連続しているだけだ。
彼はデータを確認しながら、その違いを頭の中で切り分ける。
恐怖ではない。
探索でもない。
ただ、内部信号が過剰に回っている。
「まだだな」
声に出してそう言ったとき、自分が誰に向けて話しているのか、一瞬わからなくなった。
マウスか。
それとも、自分自身か。
この段階の個体には、まだ「意味」を理解させていない。
入力は増やした。
出力も増やした。
だが、それらを束ねる中心がない。
彼はそこに、軽い苛立ちを覚えていた。
構造は整っている。
機能もある。
なのに、何かが足りない。
それは、これまでの実験でも何度も直面してきた問題だった。
個々の機能は動く。
だが、全体が一つの方向を向かない。
「目的がないからだ」
彼はそう結論づけた。
目的。
それは生物学の用語としては、扱いにくい言葉だった。
進化論的には、結果論でしか語れない。
だが、直感的には、誰もがそれを感じている。
逃げるために走る。
食べるために探す。
守るために攻撃する。
それらはすべて、「何かのため」だ。
では、その「ため」はどこから生まれるのか。
彼は、そこに手を入れようとしていた。
マウスの実験は、記録上は失敗が続いた。
生存期間は延びない。
行動は不安定。
繁殖は論外。
共同研究者たちは、次第に距離を取り始める。
直接反対する者はいない。
だが、誰も積極的に関わろうとしなくなった。
「次はどこまで行くつもり?」
そう聞かれたとき、彼は答えに詰まった。
正確な答えを持っていなかったからではない。
言葉にした瞬間、それが「目的」になってしまうのを恐れた。
「必要なところまで」
曖昧な返事だったが、それで十分だった。
この研究室では、曖昧さは日常だ。
夜、一人でデータを整理しているとき、彼はふと、過去のノートを引っ張り出した。
試作一号の記録。
最初の微小構造体。
そこには、今よりずっと単純な数値と、少ない項目しか並んでいない。
だが、その余白に、彼自身の字で書かれた一行があった。
「これは、何をしたいのだろうか」
書いた記憶は、はっきりと残っていない。
無意識に書いたのかもしれない。
だが、その問いは、今も彼の中で形を変えずに残っている。
彼は椅子に深く腰掛け、天井を見上げた。
白い蛍光灯。
均一な光。
この空間には、神秘はない。
それなのに、自分がやろうとしていることは、どこか宗教的ですらある。
その自覚が、じわりと胸に広がる。
「神を作るつもりか?」
その言葉が頭に浮かんだ瞬間、彼は苦笑した。
馬鹿げている。
そんな大それた話ではない。
彼が欲しいのは、崇拝される存在ではない。
雷を落とす力でも、世界を創造する権能でもない。
ただ、問いに答える存在だ。
なぜ生きるのか。
なぜ動くのか。
なぜ意味を持とうとするのか。
それを、こちらの問いとしてではなく、
向こうから発せさせたい。
そのためには、観測者であってはならない。
干渉者でなければならない。
設計者でなければならない。
彼は、新しい実験計画を立てた。
マウスではない。
より長い寿命。
より複雑な社会性。
より高い学習能力。
哺乳類。
中型。
人間に近すぎないが、遠すぎないもの。
倫理委員会に提出する書類は、慎重に言葉を選んだ。
「認知機能の研究」
「行動選択メカニズムの解析」
どれも嘘ではない。
ただ、核心を書いていないだけだ。
彼自身も、まだそれを完全には言語化していなかった。
目的はある。
だが、名前がない。
名前を付けてしまえば、
それはもう戻れないものになる。
だから彼は、今日も黙って手を動かす。
新しい設計図。
新しい配列。
新しい可能性。
その先に何が生まれるのか。
彼自身も、まだ正確には知らない。
ただ一つ確かなのは、
彼はもう「偶然」に満足しなくなっている、ということだった。
生命が意味を持つ理由を、
神に委ねるつもりはなかった。
もし神が必要なら、
それは作ればいい。
彼はまだ、それを実験とは呼んでいる。
だが、その言葉の内側で、
別の何かが、静かに形を取り始めていた。




