名前の力
最初に違和感を示したのは、装置ではなく、人だった。
共同研究者の一人が、培養槽の前で足を止めた。
彼女はしばらく黙って中を見つめ、眉をひそめたまま、視線をこちらに向ける。
「これ、サイズ上げすぎじゃない?」
声は低く、責めるというより、確認に近かった。
彼はすぐには答えなかった。
代わりに、数値を示すモニターを指差す。
「代謝も安定してる。神経活動も想定内。マウス胚より単純だ」
「でも、もう“胚”って呼び方、無理があるでしょ」
彼女の言葉は、妙に正確だった。
彼は一瞬だけ、言い返す言葉を探したが、結局見つからなかった。
確かに、無理がある。
培養槽の中のそれは、もはや「途中」ではなかった。
完成していないが、未完成とも言えない。
器官は不揃いで、左右差もある。
だが、拍動があり、刺激に反応し、内部で信号が行き交っている。
「名称の問題だよ」
彼はそう言った。
それ以上の意味を持たせないために。
彼女は何か言いかけて、やめた。
研究室には他にも人がいたし、この話題は長くなる。
それに、彼女自身もわかっていた。
ここで止められる段階は、もう過ぎている。
その日の夜、彼は一人で研究室に残った。
誰もいない時間帯の方が、集中できる。
それは昔から変わらない。
照明を落とし、培養槽の前に立つ。
中の液体は、微かに揺れている。
ポンプの振動に合わせて、規則正しく。
その中央で、それは丸まっていた。
外界からの刺激が少ないとき、そういう姿勢を取るよう設計した。
エネルギー消費を抑えるため。
無駄な動きをしないため。
「……」
彼は無意識に、声を落とす。
名前を呼ぶつもりはなかった。
呼べる名前など、まだない。
それでも、視線が合った気がした。
もちろん、視線というほど明確なものではない。
眼球は未発達で、光を感知しているかどうかも怪しい。
だが、反応はあった。
彼が近づくと、内部の神経活動がわずかに変化する。
数値が跳ねる。
毎回ではないが、確率的に有意な変動。
彼はそれを、ただの刺激応答だと整理した。
こちらの動きによる水流の変化。
温度差。
電磁ノイズ。
そうでなければ困る。
もしこれが「こちらを認識している」反応だとしたら、
話は変わってしまう。
彼は手袋を外し、素手で培養槽の外壁に触れた。
冷たい。
ガラス越しに伝わる振動は、規則正しい。
「問題ない」
誰に向けた言葉か、自分でもわからなかった。
数日後、倫理審査の中間報告が戻ってきた。
赤字が増えている。
質問が増えている。
曖昧な部分を突かれている。
想定される最終的な利用目的は。
この個体における「苦痛」の定義は。
自律的行動の兆候が出た場合の対応。
彼は苛立ちを覚えた。
まだそこまで行っていない。
仮定の話だ。
今はデータを集めている段階にすぎない。
だが同時に、彼の中で、別の声が囁いていた。
行っていない、ではなく。
行けていない、だけではないのか。
彼は返信を書きながら、無意識に設計図を更新していた。
神経束を少し太く。
感覚入力の種類を増やす。
外界とのやり取りを、もう一段階増やす。
それは、研究としては自然な流れだった。
機能を確認するには、入力と出力が必要だ。
閉じた系では、限界がある。
彼は、そう理屈を付けた。
数週間後、それは「動いた」。
偶発的な痙攣ではない。
反射でもない。
刺激を与えない状態で、
自発的に、体を伸ばした。
培養液の中で、ゆっくりと。
確かめるように。
記録装置が、確実にそれを捉えている。
複数回。
再現性あり。
その瞬間、彼は笑った。
声を出して。
成功だ。
疑いようがなかった。
だが、笑いが引いたあと、
奇妙な感覚が残った。
これは、もう「試料」なのか。
その問いが浮かんだ瞬間、
彼は慌ててそれを打ち消した。
違う。
まだ違う。
これは途中だ。
過程だ。
だが、頭のどこかで、
別の事実が静かに形を成していく。
小さなものは、嘘をつかない。
だが、大きくなり始めたものは、
こちらに問いを投げ返してくる。
彼はそれを、まだ直視しない。
直視するには、
自分がどこまで来てしまったかを
認めなければならないからだ。
そして彼は、次の段階を考え始めていた。
「このサイズで可能なら、
哺乳類個体でもいけるのではないか」
マウス。
最初は、それでいい。
彼は、もう戻らない設計を、
静かに引き始めていた。




