声にならなかった言葉〜出会い編〜
第一話 忘れられない出会い
八月八日、午前十一時。
湿った空気と蝉の鳴き声が、全身にまとわりつくような夏の日。
学校終わりに立ち寄った神社の境内には、木陰のベンチが一つだけ。
「あつ……」
僕は制服の上着を脱ぎながら、そこに腰を下ろした。
さっきまでの数学の授業の関数が、まだ頭の中をぐるぐる回っている。
「……お疲れさまです」
声をかけられて、僕は反射的に顔を上げた。
そこには、白いワンピースを着た女の子が立っていた。
年は……たぶん、同い年くらいだろう。
大きな麦わら帽子の影から、つぶらな瞳がまっすぐ僕を見ていた。
「すみません、人違い……」と言いかけた僕に、彼女は少しだけ笑って言った。
「ううん、人違いじゃないよ。君で合ってる」
その一言で、暑さも、頭の中のノイズも、一瞬だけ静かになった。
彼女はそう言って、続けた。
「潤くん、でしょ?」
僕は驚いて目を瞬いた。
「……なんで僕の名前を?」
彼女は小さく笑って、「それは、今日が終わる頃に教えてあげる。名前はね、簡単に渡しちゃいけないんだよ」
まるで、それを知ってしまえば僕の世界が変わるとでも言うように。
それが僕と彼女の、最初の会話だった。
彼女は、まるで旧友に声をかけるみたいに自然な調子だった。
でも、僕には全く見覚えがなかった。
不思議な子だった。
突然話しかけてきたくせに、どこか懐かしさを感じさせる声と、
目を合わせると、なぜか断れないような静かな圧を持っていた。
彼女はポン、と僕の隣に座った。
「さあ行こっか」彼女の言葉に背中を押され、僕は立ち上がった。
初めて会ったはずなのに、僕の名前を知っている。
その理由を、僕はまだ知らない。
第二話 君と僕の距離
喧騒から少し離れた裏通りに、小さな喫茶店があった。
古びた看板には「トネリコ」と書かれている。
昭和の空気をそのまま閉じ込めたような、少し色褪せた店内。
木の床が、僕らの足音にきしむ。
「ここ、知ってたの?」
「うん。好きな場所。ひとりでよく来るの」
彼女はそう言って、窓際のテーブル席に座った。
木漏れ日が、彼女の髪をやさしく照らしている。
「アイスコーヒーと、ミックスサンド。潤くんは?」
「じゃあ、僕も同じで」
オーダーを終えると、しばらく沈黙が落ちた。
時計の音だけが静かに鳴っていた。
「ねえ、潤くんってどんな子どもだった?」
「子ども……?急だね」
「うん。だって気になる。たとえば、秘密基地とか作ってたタイプ?」
「……作ってたなぁ。近所の空き地にダンボール集めてさ」
彼女はくすっと笑った。
「やっぱり。そんな気がした」
「じゃあ君は?」
「んー……私は、秘密基地を『壊しに行く』側だったかも」
「まさかの敵役?」
「だって、男の子たちが『ここ女の子入っちゃダメ!』って言うんだもん」
「……ごめん、それたぶん僕だ」
2人で笑った。
コーヒーが運ばれてきた頃には、喉の奥にあった緊張も、少し溶けていた。
「潤くんって、誰かを忘れたいと思ったことある?」
急に、温度が変わった気がした。
「……あるよ。たぶん、今でも」
「どんな人?」
「大切な人。だけど、もう二度と会えない」
彼女は頷いた。
「わかる。忘れたくないけど、忘れなきゃいけない人っているよね」
僕は、彼女のその言葉にどこか違和感を覚えた。
「……もしかして、君も?」
彼女は答えなかった。ただ、ストローをくるくると回していた。
そしてぽつりと、
「……今日は、忘れたくない一日にしたいの」
僕は頷くことしかできなかった。
夏の午後の静けさと、アイスコーヒーの冷たさが、胸の奥にやさしく沁みた。
彼女の瞳に映る影が、僕の中の影と重なった瞬間、もう他人ではいられなくなっていた。
第三話 君との時間
喫茶店を出ると、空の色がほんの少しだけ濃くなっていた。
夏の午後の光は強くて、でもどこか懐かしい。
僕らは駅とは反対方向へ歩き、
住宅街を抜けて川沿いの土手にたどり着いた。
「……なんか、この風、好きかも」
彼女はそう言って、髪を手で押さえながら笑った。
土手に座ると、草の匂いと川の流れる音が心を落ち着かせてくれる。
遠くでセミが鳴いている。
「ここ、たまに来るんだ。ひとりでぼーっとしに」
彼女が空を見上げる。
「潤くんは?こういう場所、来る?」
「昔はよく来てた。……誰かと、だったけど」
その言葉に、彼女は何も言わなかった。
でも、静かに寄り添うように膝を抱えて、僕の方を見た。
「じゃあ、今日は“誰かと”じゃなくて“私と”来た日にしよう?」
僕は少しだけ笑った。
「そうだね。じゃあ……この風景、覚えておこう」
ふたり、言葉を交わさない時間が流れる。
空には、ぽつんと浮かんだ雲がひとつ。
「潤くん」
「ん?」
「あのね……」
彼女が言いかけて、視線を落としたその時。
遠くで子どもたちの笑い声が聞こえて、彼女はそれに気を取られたように口を閉じた。
「なんでもない」
「……そう?」
本当は、なんでもなくなかった。
でも、それを無理に聞くことができなかった。
「ねぇ、潤くん」
「うん?」
「今日のこと、忘れないでね」
その言葉が、風よりも静かに心に吹き抜けた。
あの時、風がなければ――彼女は何を言おうとしていたのだろう。今でも、その続きを探している。
第四話 お互いの1ページ
土手を離れて、僕らは駅のほうへ歩いた。
商店街の片隅に、古びた木製の看板がかかった本屋を見つけたのは偶然だった。
「あ、ここ……」
彼女が立ち止まり、ガラス戸の奥をのぞき込む。
「入ってみる?」
うなずいた彼女の横顔は、さっきより少し落ち着いて見えた。
本屋の中は、静かで涼しくて、少し埃っぽい紙の匂いがした。
年季の入った木の床が、きしりと小さく鳴く。
「うわ、懐かしい……」
彼女が文庫コーナーの前で立ち止まり、指で背表紙をなぞる。
「昔、この作家好きだったんだ。ちょっと切なくて、でも優しい話を書くの」
「へぇ……」
僕はその作家の名前を知らなかったけど、彼女がその作品を好きだということだけで少し興味が湧いた。
「潤くんは?好きな本とかある?」
「……あんまり人には言わないけど」
僕は少し離れた棚に歩き、ある一冊を手に取る。
彼女が近づいて、覗き込んだ。
「絵本?」
「うん。子どもの頃に何度も読んだやつ。今でもたまに思い出す」
ページを開くと、色褪せたイラストが現れる。
ふたりでひとつの本を覗き込んでいると、時間が止まったみたいだった。
「ねぇ潤くん」
彼女がぽつりと口にする。
「誰かと本の話するの、なんか久しぶり」
「……僕も」
そのあと、どちらからともなく「これもいいよ」「これ、知らない」なんて言いながら、棚の間をゆっくり歩いた。
最後に、彼女は一冊の文庫を手に取った。
表紙には、夕暮れの街と男女の背中が描かれていた。
「これ、好きなやつ。よかったら……貸す」
「え、いいの?」
「返さなくていいよ。忘れてもいいから。
でも、読んでくれたら、私はそれだけで嬉しいから」
“忘れてもいい”
その言葉が、さっきの土手での言葉と、どこか繋がっているような気がした。
僕は本を受け取って、うなずいた。
「ありがとう。……読むよ、ちゃんと」
忘れてもいいと言われた本を、僕は胸に抱えた。きっと、忘れられないまま。
第五話 彼女との別れ
その日の終わり、二人は夕暮れのホームに立っていた。
西の空は赤から紫へとゆっくりと溶けていく。
電車が来るまでのわずかな時間、潤は月の横顔を見つめた。
「……帰りたくないな」
気づけば声に出ていた。
彼女が驚いたように潤を見た。
「急にどうしたの?」
「だってさ、今日……ずっと楽しかったから」
言葉を選ぶ余裕はなかった。
彼女は一瞬、目を逸らしてから、少しだけ強い声で言った。
「じゃあ、また会えばいいじゃん。……何回でも」
その言葉は、夕暮れのホームに響いて、潤の心を深く貫いた。
彼女は続けてこう言った。
「また会えたら、そのときは名前教えるよ」
「3年後の今日、またここで、ね?」
潤「え、今教えてよ」
彼女「ダメ。今日は、今日だけの君でいて」
やがて電車が入ってくる音が近づき、風が二人の間を通り抜ける。
「3年後の今日またここにくるから!」潤は力一杯声を出した。
電車のドアが閉まるころ、彼女は頷いた。
最後に小さく彼女は「潤くん、ありがとう」と呟いた。
潤はその瞬間を、絶対に忘れないと決めた。
3年後の夏が来るのを、僕は今も待っている。あの日の約束を信じて。
あの日見た君を、ぼくは一生忘れない
をご覧くださった皆さまありがとうございます!
斉藤潤と言います!
今回この作品を書いたのは、私の過去の経験ともどかしい切ない想いをなんとか文章として残してみようと思って、書かせていただきました。
まだまだ拙い部分も多いのですが、暖かく見守っていただけますと幸いです。
これからも皆様の憩いの場がこの作品であれるよう、日々努力していきます。
よろしくお願いいたします!