私たちの傷
時計の針は、午後十時を指そうとしていた。カフェの店内には、すでに客の姿はまばらになり、店員が片付けを始める気配が、静かなプレッシャーとなって漂っていた。
二人の間のテーブルの上には、空になったカップと、無残な姿になったガトーショコラの皿だけが残されている。あれほど白熱した議論の後とは思えないほど、その光景は静かだった。
「……そろそろ、出ましょうか」
沈黙を破ったのは、沙月だった。彼女の声には、心地よい疲労の色が滲んでいた。
「そうね」
莉奈も、短く応じた。彼女もまた、知的なエネルギーを使い果たしたかのように、深く椅子に身を沈めていた。
二人の議論は、結局、何の結論にも達しなかった。
沙月は、あくまでも「歴史」という名の、積み重なった記憶の地層にこだわり、巨大な物語の枠組みを、内部から、その亀裂から、解体しようと試みた。彼女にとって、あのウェブ小説は、この国の近代史のねじれが産んだ、一つの痛ましいテクストだった。
一方、莉奈は、その「歴史」という物語自体が、ある特定の場所で生まれた、暴力的な発明品であると断じ、そこからの「切り離し」を主張した。彼女にとって、あの小説は、今なお世界を覆う巨大なシステムの、最も露骨な症状の一つだった。
二つの視点は、似ているようでいて、その根本的な立脚点において、決して交わることはない。それは、同じものを見ていながら、全く違う場所に立っている二人の、微妙で、しかし決定的な距離を、そのまま反映しているかのようだった。
会計を済ませ、カフェを出ると、ひやりとした夜気が、火照った二人の頬を撫でた。駅前の広場は、家路を急ぐ人々と、これから夜の街に繰り出す人々が交差し、昼間とは違う、ざわめきと喧騒に満ちていた。
「結局、平行線だったわね」
莉奈が、少しだけ楽しそうに言った。その声には、疲労よりも、むしろ満足感が滲んでいた。
「そうね。でも、面白かったわ」
沙月も、穏やかに微笑んで答えた。「あなたの言う、魂の殺害、という視点は、刺激的だった。リアンナの解放が、実は最も残酷な支配だった、という指摘は、認めざるを得ないわ。境界に立つ、というのも、考えさせられる言葉ね」
「あなたの『時間のずれ』の話も、なかなかだったわよ」莉奈も、素直に相手の論を評価した。「あの手の物語に、この国の帝国の記憶が無意識的に流れ込んでいる、という分析は、考えさせられた。あの戦争中の学者たちの話まで持ち出してくるとは思わなかったわ。私たちは、私たちが思う以上に、歴史の亡霊に憑りつかれているのかもしれないわね」
互いの健闘を称え合う、その短いやり取りの中にだけ、二人の間の緊張が、ふっと和らぐ瞬間があった。しかし、それも束の間だった。
「でもね、沙月」莉奈は、再び、あの挑戦的な光を瞳に宿して言った。「結局、あなたのやり方では、何も変えられない。古い建物の壁紙を剥がしたところで、その建物の構造そのものが温存されるなら、第二、第三のアレンが、違う服を着て現れるだけよ。必要なのは、分析じゃなくて、創造なの。全く新しい知恵を、外部から、忘れられた場所から、創造していくことなのよ」
「その『外部』が、本当に存在するのかしらね、莉奈」沙月は、静かに問い返した。「私たちは、近代という名の、この強力な引力圏から、完全に自由になることなんて、できるのかしら。無理に『切り離し』を試みることが、かえって新たな、より素朴な独善に陥る危険はないのかしら。私は、むしろ、この引き裂かれた内部に留まりながら、その矛盾を徹底的に生き抜くことの方に、可能性があると思うわ」
二人の視線が、夜空の下で交錯する。その視線は、互いの知性への敬意と、決して譲れない思想的信念の、両方を含んでいた。
「……また、やりましょう。次は、もっと手強いテクストを見つけてくるわ。今度は、あなたを論破してあげる」
莉奈は、そう言うと、くるりと背を向けた。
「ええ、望むところよ。いつでも受けて立つわ」
沙月も、彼女の背中にそう告げた。
二人は、それぞれ違う方向へと歩き出す。駅の改札へと向かう莉奈の足取りは、まるで次なる戦場へと向かう戦士のように、力強かった。(切り離し、境界に立つ……でも、その言葉自体が、すでに西洋の大学で交わされる言葉のゲームの一部じゃないのかしら?)。彼女の心に、自らの言葉さえもが跳ね返ってくる。
一方、バス停へと向かう沙月の歩みは、静かでありながら、その一歩一歩が、確かな思索の重みを持っているかのようだった。(矛盾を生き抜く、なんて、結局は現状を肯定する言い訳に過ぎないのかもしれない……莉奈の言うように、もっとラディカルな断絶が必要なのかも……)。彼女もまた、自らの立脚点の危うさを感じずにはいられなかった。
彼女たちの会話は、一つの大衆的な物語を解体し、その背後にある巨大な構造を暴き出した。しかし、同時に、彼女たちの会話そのものが、抗いがたい知の構造の中で、もがき、思考し、そして異なる仕方でそれを乗り越えようとする、二つの知性の軌跡を、鮮やかに描き出していた。
都市の夜景が、無数の光の点となって、彼女たちの行く先を照らしている。その光の一つ一つが、アレンが夢見たような、合理的で、均質な世界の象徴に見えなくもなかった。
しかし、その光の届かない闇の中に、あるいは、光と光の隙間に、リアンナが本来持っていたはずの、森の知恵や、精霊の囁きが、今も息づいているのかもしれない。
その声に耳を澄ませようとする莉奈と、光そのものの成り立ちを問い続けようとする沙月。
二人の戦いは、そして、私たちの時代の戦いは、まだ、始まったばかりなのである。
(了)