表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
優しい殺害  作者: みなもむし
4/5

鏡よ、鏡

窓の外は、すでに完全な夜の帳に包まれていた。カフェの照明が、二人の顔に、複雑な陰影を落としている。彼女たちの議論は、開始からすでに三時間が経過しようとしていたが、その熱量は、衰えるどころか、むしろ増していく一方だった。


沙月が投げかけた問い――なぜ、私たちは、このような物語を欲望するのか――は、二人の論争を、新たな、そしてより困難なフェーズへと移行させた。それは、もはや単なる文学批評ではなく、自己分析と社会批評の領域に踏み込むものだったからだ。


「なぜ、私たちがこれを欲望するのか、ですって?」莉奈は、腕を組み、挑むように問い返した。「答えは簡単よ。私たちは、程度の差こそあれ、みんなアレンだからよ。私たちは、自分たちが生きるこの社会が、世界中を覆っている目に見えない巨大な網の目の中で、どのような位置を占めているのか、絶望的に無自覚なの。そして、無自覚だからこそ、その構造を、異世界というファンタジーの舞台で、無邪気に、何度も何度も反復してしまうのよ」


「アレン、ね。確かに、主人公に自分を重ねる読者が多い、というのは、この手の物語の特徴だわ。でも、それを、その巨大な網の目とやらで一括りにしてしまうのは、少し乱暴じゃないかしら」沙月は、冷静に反論の糸口を探っていた。「もう少し、具体的に考えてみましょうよ。この物語を読む人、書く人の中心は、おそらく今の日本の、特に若い男の人たちでしょう。彼らが、なぜ、異世界で、圧倒的な知識と力を持って、現地の人々を『導き』、支配することに、快感を覚えるのか。そこには、もっとこの国に固有の、歴史の記憶が関係しているはずよ」


沙月は、再び、自らの土俵に議論を引き寄せた。


「かつて植民地だった国の知識人が抱えるジレンマについて、書かれたものを読んだことがあるわ。彼らは、西洋の言葉や考え方を学ばなければ、近代的な社会では生きていけない。でも、それは、かつて自分たちを支配した者たちの言葉であり、自分たちの文化を二流品へと追いやったものでもある。この引き裂かれた状況が、彼らの心に、複雑な影を落としている、と。私は、今の日本もまた、これと似た、しかし独自の『時間のずれ』の中にいると思うの」


「時間のずれ?」


「ええ。私たちは、かつて、西洋のように、世界の『中心』にいたわけではないわ。私たちは、十九世紀に、黒い船という名の『外部』からの衝撃によって、半ば強制的に、ある競争に参加させられた。その過程で、私たちは、西洋を『進んだ』『普遍的な』手本として、必死に真似し、その価値観を自分のものだと思い込もうとしてきた。『アジアを抜け出して、西洋の一員になる』という、あのスローガンがそれを象徴しているわね。この点では、私たちは、支配された側と、ある種の痛みを共有していると言えるかもしれない」


沙月は、一度言葉を切り、莉奈の反応を窺った。莉奈は、黙って続きを促している。


「でも、同時に、私たちは、完全に『支配された側』に留まり続けたわけでもない。私たちは、その競争の過程で、自らもまた、アジアの隣人たちに対して、支配者として振る舞った。台湾を、朝鮮を、そして満州を、自分たちのものにした。そこでは、私たちは、西洋が私たちに対して行ったのと同じように、自らを『文明的』で『進んだ』存在と位置づけ、現地の人々を『遅れた』『野蛮な』存在として、『導き』、『助けてやろう』とした。戦時中に、偉い学者たちが、西洋の真似事ではない、日本独自の新しい思想だとかなんとか言いながら、結果として、アジアを支配する、あの傲慢な夢を、哲学的に正当化しようとしたようにね。つまり、この国の近代史は、西洋に対する劣等感と、アジアに対する優越感が、ねじれた形で同居しているのよ」


「……なるほど。そのねじれが、あの物語への欲望の源泉だ、と?」莉奈は、ようやく口を開いた。


「そう。私はそう考えているわ」沙月は、確信を込めて頷いた。「あの物語の舞台が、中世ヨーロッパ風の世界なのは、偶然じゃない。それは、私たちが乗り越えようとし、同時に憧れてもいた、『西洋』のイメージの投影よ。主人公は、その『西洋』的な世界に対して、現代日本の知識という、より『進んだ』力を行使して、優位に立つ。これは、かつて西洋に圧倒された私たちが、その屈辱を、物語の中で反転させようとする、代わりの欲望の表れと言えるでしょう」


「でも、それだけじゃない。主人公が異世界で行うことは、土地の改革であり、奴隷の『解放』であり、新しい国の建設よ。これは、まさに、かつてこの国が『大東亜共栄圏』という美しい名の夢の中で、アジアに対して行おうとしたことの、無意識の反復ではないかしら。古い秩序を打ち破り、日本の指導の下で、アジアを西洋の支配から『解放』し、新しい『合理的な』秩序を築く、という、あの傲慢な夢。主人公が元々、日本のサラリーマンだったという設定も重要よ。今の社会で、組織の歯車として自分を見失い、無力感に苛まれている人々が、異世界では絶対的な権力と主体性を行使できるという構造は、極めて強力な心の埋め合わせとして機能する。この物語の構造は、この国が抱え込んだ、『西洋への劣等感』と『アジアへの優越感』、そして現代社会における『無力感』という、三つの矛盾した感情を、同時に満たしてくれる、非常に都合の良い装置として機能しているのよ」


沙月の分析は、壮大な歴史的スケールを持っていた。彼女は、一つの大衆的な物語から、この国の近代史の深層に横たわる、集合的な記憶の傷跡を読み解いてみせたのだ。


莉奈は、しばらくの間、沈黙していた。沙月の議論の射程の広さに、感心しているようにも見えた。しかし、やがて彼女は、ゆっくりと首を横に振った。


「面白い分析だわ、沙月。あなたの言う『時間のずれ』論は、確かに説得力がある。でもね、あなたは、またしても、問題を『日本』っていう小さな箱庭の中だけで完結させてしまっている。あなたの議論は、結局のところ、その箱庭から一歩も出ていないのよ」


「箱庭から出ていない?」


「そう。あなたは、この現象を、あくまで『日本』という特殊な歴史の記憶から説明しようとしている。でも、問題はもっとグローバルなものよ。あの目に見えない巨大な網の目は、地球全体を覆う、一つの巨大なシステムなの。そして、日本という場所も、そのシステムの中に、特定の位置を占めているに過ぎない。あなたが言う劣等感も優越感も、すべては、このグローバルなシステムの中で、日本が『西洋』になろうとしてなれず、かといって完全にその他大勢でもない、という、その宙吊りのポジションから生まれてくる症状なのよ」


莉奈は、議論のスケールを、さらに一段階、引き上げた。


「考えてもみて。この種の『異世界転生』物語は、日本だけじゃなく、韓国や中国でも、非常に人気があるわ。これは、単なる日本の特殊事情では説明できないでしょう。これは、東アジアという地域が、グローバルな経済競争の中で、急速な発展を遂げながらも、文化的には常に西洋の『周縁』に置かれ続けてきた、という共通の経験から来ているのよ。私たちは、経済的には世界の『中心』の一員であるかのように振る舞いながら、魂のレベルでは、常に西洋の価値観に従属させられている。この屈辱感と、そこから抜け出したいという欲望が、異世界で、西洋的な世界を、西洋的な知恵(の、さらに進んだバージョンである現代知識)で凌駕するという、ファンタジーを生み出すの。それは、一種の奇妙な鏡写しでもあるわ。かつて西洋が東洋を、神秘的で遅れた場所として描いたように、私たちは、ファンタジーの中の『中世ヨーロッパ』を、乗り越えられるべき、ある意味で滑稽な場所として描き出し、消費しているのよ」


「だから」と莉奈は続けた。「この物語を欲望する私たちは、単に『過去の帝国の亡霊』を背負っているだけじゃない。私たちは、今、この瞬間に、あの巨大なシステムに加担し、その恩恵を受け、そして同時に、その構造の中で抑圧されてもいる、という、極めて矛盾した存在なのよ。私たちがアレンに自分を重ねるのは、彼が、その矛盾を、最も都合の良い形で解決してくれるから。彼は、支配者の知恵を使いこなしながら、その支配者の頂点に立つことができる。彼は、支配される側にいたはずなのに、世界を支配する『普遍的』な主人公になれる。彼は、支配する側の快楽と、その行為を『解放』という善意で正当化できるという、道徳的な免罪符を、同時に与えてくれるの。これほど魅力的なヒーローはいないでしょう?」


莉奈の言葉は、沙月の歴史分析を、より大きなグローバルな構造の中に位置づけ直し、その現代的な意味を暴き出すものだった。それは、もはや過去の歴史の問題ではなく、今、ここにいる「私たち」自身の、存在のあり方の問題として、突きつけられていた。


「私たちのこの会話でさえもそうよ」莉奈は、ふと、自分たちの足元を見つめるように言った。「私たちが、こうして、小難しい外国の思想家の言葉を借りてきては、それを振り回して、知的な優越感に浸っている、この行為そのものが、すでにあの支配の構造の、見事なまでの再生産じゃないかしら。私たちは、本当に、このゲーム盤から降りることができるのかしらね……」


莉奈の最後の問いは、誰に向けられたものでもなかった。それは、カフェの静かな空間に、そして、夜の闇に沈む都市の上に、答えのない響きとなって、漂っていった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ