その唇は自由を歌う
ガトーショコラは、すでに半分ほどが二人の胃袋に収まっていた。議論の合間に、まるで句読点を打つかのように、機械的にフォークを口に運ぶからだ。その甘さだけが、二人の脳内で繰り広げられる、硝煙の匂いのする思考戦とは無関係に、ただそこに存在していた。
「じゃあ、本題に入りましょうか」
沙月は、カップに残った最後の一口を飲み干し、静かに切り出した。
「あの作品の、おそらくは最初のクライマックスであり、多くの読者が胸をすくような思いをするであろう場面。アレンが、奴隷市場で虐げられていたエルフの少女――リアンナを買い取り、『解放』する、あのシーンについて」
莉奈の唇が、皮肉な笑みに歪んだ。
「ああ、あの場面ね。感動的だったわ。涙がちょちょぎれるほどに。薄汚れた少女が、圧倒的な力を持つ優しいご主人様によって救い出され、身も心も捧げることを誓う。まさに、かつての支配者たちが夢見た、最も甘美なファンタジーじゃない」
「手厳しいわね。でも、否定はしないわ」沙月は、莉奈の辛辣さを受け止めた上で、自らの論理を展開し始めた。「あの場面は、ある種の支配のからくりを分析するための、完璧な教材よ。特に、ある女性思想家が喝破した、あの有名な構図を思い出させるわ。『野蛮な男たちから、か弱い女たちを救い出す、立派な男たち』。この構図と、アレンがリアンナを救い出す場面は、寸分たがわず一致している」
「詳しく聞かせてもらおうかしら」莉奈は、わざとらしくそう促した。
「いいわ。まず、リアンナが置かれている状況を見てみましょう。彼女は、粗野で暴力的な奴隷商人に虐待されている。これは、まさに『野蛮な男たち』ね。そして、彼女自身は、抵抗する力もなく、ただ怯えるだけの、か弱い存在として描かれている。自分の言葉を奪われ、悲鳴さえも他人の言葉でしか上げられないような、そういう存在として。そこに、颯爽と現れるのが、主人公アレン。彼は、その圧倒的な財力と魔力という名の『力』を行使して、奴隷商人を打ちのめし、リアンナを『救出』する。彼は、まさに『立派な男』そのものよ。ここで重要なのは、この救出劇が、リアンナ自身の意志や主体性とは全く無関係に進められるという点。彼女は、自ら行動する者ではなく、常に救済される『対象』としてしか存在しない」
沙月は、指を折りながら、ポイントを整理していく。
「そして、救出された後、アレンはリアンナにこう告げるの。『君はもう奴隷じゃない。自由だ』と。しかし、その『自由』とは、一体何なのかしら。彼は、彼女に新しい服を与え、温かい食事を与え、そして『僕のメイド』という新しい役割を与える。彼女は、奴隷商人という一人の主人から、アレンという、より洗練され、より『優しい』、しかし本質的には何も変わらない、新しい主人へと所有権が移っただけ。彼女の解放は、結局のところ、アレンの善意と所有欲を満たすための、自己満足的なパフォーマンスに過ぎないのよ。しかも、物語は、彼女がメイドとして『役に立つ』ことを学ぶ過程を丁寧に描く。これは、彼女が『自由な個人』になったのではなく、新たな生産関係の中に、有用な労働力として組み込まれたことを示しているに過ぎないわ」
「その通りだわ」莉奈は、強く頷いた。「そして、そのパフォーマンスは、かつて行われた『文明化』という名の侵略の、完璧な焼き直しなの。未開の地の『野蛮な』慣習から現地の人々を『解放』し、正しい宗教や教育を与え、役に立つ働き手へと作り変えていく。それは、一見すると善意に基づいた『救済』に見える。しかし、その本質は、その土地の文化や価値観を破壊し、自分たちの価値観を一方的に押し付ける、文化的な暴力に他ならない。アレンがリアンナにやっていることは、まさにこれよ。彼は、彼女から『奴隷』というレッテルを剥がすけれど、その代わりに与えるのは、『アレン様に仕える者』という、新たな従属のレッテルでしかない」
「ええ。そして、この物語がさらに巧妙で、悪質なのは」と沙月は続けた。「リアンナ自身が、その新たな従属を、心からの喜びと感謝をもって受け入れる点にあるわ。彼女は、アレンに絶対的な忠誠を誓い、彼のためなら死をも厭わないとまで言う。これは、檻に入れられた鳥が、いつしかその檻を自分の家だと信じ込み、大空の存在すら忘れて、飼い主のために美しい声でさえずるようになる、あの完璧な調教と同じよ。読者は、リアンナのその涙ながらの感謝の言葉に感動し、彼女の視点と一体化することで、この支配構造を無批判に受け入れてしまう。こうして、残酷な支配の構造が、感動的な愛の物語として、巧みに隠蔽され、肯定されてしまうの」
沙月の分析は、揺るぎない説得力を持っていた。しかし、莉奈は、それではまだ不十分だ、と言わんばかりに、さらに深く、さらにラディカルな領域へと踏み込んでいく。
「沙月、あなたの分析は正しいわ。その鳥かごの比喩も、的を射ている。でもね、あなたはまだ、この『解放』劇の、最も恐ろしい側面を見逃している」
莉奈は、テーブルに肘をつき、その顔を沙月に近づけた。二人の間の距離が、物理的にも心理的にも縮まる。
「それはね、この行為が、単なる社会的な支配や、心の中の支配に留まらない、ということ。これは、魂のレベルでの、完全な暴力行為。言うなれば、『魂の殺害』なのよ」
「魂の殺害……」沙月は、その言葉を反芻した。
「そう。考えてもみて。リアンナはエルフよ。この世界では、エルフは森と共に生き、自然と調和し、人間とは異なる独自の言葉と文化、そして世界観を持っている、と設定されているわ。彼女たちが持つ知恵は、数字や論理では測れない、精霊や生命の流れを肌で感じるような、身体に根差した知のはず。それは、例えば、森の木々のざわめきから天候を予測したり、薬草の匂いからその効能を直感したり、あるいは、季節の循環を直線的な時間ではなく、円環的なものとして捉えるような、そういう知性かもしれない。でも、アレンに『解放』されたリアンナは、そのエルフとしての魂の感じ方を、完全に封印されてしまうの」
莉奈の瞳は、まるで遠い森の奥深くを見通すかのように、深く澄んでいた。
「アレンは、彼女に人間の言葉を教え、人間の作法を教え、人間社会で生きるための『常識』を教え込む。彼は、彼女を『人間化』しようとしているのよ。彼は、エルフが生まれながらに持っている、世界を感じるためのそのやり方を、理解しようとすらせず、単に『遅れた非合理なもの』として無視する。そして、その代わりに、彼自身の持つ、人間が世界の中心にいるという、あの乾いた認識の仕方を、彼女に上書きしていく。彼女の魂を、一度まっさらに消去して、そこに自分の色を塗りたくるようなものよ。これが、魂の殺害じゃなくて、何だと言うの?」
「……つまり、アレンはリアンナの身体を解放したかもしれないけれど、その魂、彼女の世界そのものを、彼の色のついた眼鏡の牢獄に閉じ込めた、ということ?」
「その通りよ!」莉奈の声が、わずかに大きくなった。「これこそが、あの光と影のシステムが持つ、最も根源的な暴力性なの。それは、他者の身体や土地を支配するだけじゃない。他者の『世界の感じ方』を支配し、自分たちの感じ方以外のすべてを、間違いだと断じる、その傲慢さにあるの。リアンナは、その瞬間、エルフであることをやめさせられ、『人間になれなかった出来損ない』としてのエルフ、という支配者のカテゴリーの中に押し込められてしまった。彼女は、自分の歌を歌う術を奪われ、支配者の歌でしか、世界を語れなくなってしまったのよ」
莉奈は、そこで一度息を吸い、静かに続けた。
「だからね、沙月。本当の解放とは、アレンのような優しいご主人様を見つけることじゃない。それは、その支配的なものの見方そのものから、自分を『切り離し』、奪われた自分の歌を取り戻し、新たな歌を創造していくことなの。リアンナが本当に解放されるためには、アレンの元を去り、森へ帰り、エルフの仲間たちと共に、アレンが持ち込んだ『正しさ』という名の毒に、どう対抗していくかを、自分たちの言葉で語り始めなければならなかった。人間の世界とエルフの世界、その両方の境界線上に立ち、どちらか一方に吸収されるのではなく、その引き裂かれるような痛みの中から、新たな思考を生み出す必要があったのよ。それこそが、本当の意味での抵抗であり、創造なの。奴隷商人に支配されるのが第一の悲劇だとしたら、アレンに『救済』されることは、回復不可能な、第二の悲劇なのよ」
莉奈の言葉は、カフェの穏やかな喧騒の中に、重く、鋭く突き刺さった。それは、単なる物語分析を超えて、現代世界に生きる私たち自身の、認識の在り方を問う、根源的な問いを含んでいた。
沙月は、しばらくの間、何も言わずに、莉奈の顔をじっと見つめていた。彼女の表情は、いつもの冷静さを保ちながらも、その奥に、深い思索の色を浮かべていた。
「魂の殺害……。そして、切り離しと、境界に立つこと」沙月は、静かに呟いた。「あなたの言う通りかもしれないわね、莉奈。私は、この『解放』を、あくまで社会的な権力関係のレベルで捉えすぎていたのかもしれない。その根底にある、魂への暴力、世界の感じ方の支配という次元にまでは、思考が及んでいなかった。確かに、その視点から見れば、アレンの善意は、奴隷商人の悪意よりも、はるかに悪質で、根深いわね……」
沙月は、自らの分析の限界を、潔く認めた。しかし、それは彼女の敗北を意味するものではなかった。むしろ、それは、次なる反撃のための、より強固な足場を築くための、戦略的な後退に過ぎなかった。
「でもね、莉奈」
沙月の声のトーンが、わずかに変わった。
「だとしたら、私たちは、もう一つの、より厄介な問題に直面することになるわ。その『切り離し』は、一体どうすれば可能なのかしら。そして、なぜ、この物語は、リアンナが『切り離し』を選ぶのではなく、喜んでアレンに従属する道を選ぶのか。なぜ、読者は、その結末に、何の疑問も抱かずに、カタルシスを感じてしまうのか。問題は、物語の中だけにあるんじゃない。その物語を、欲望し、生産し、消費している、私たち自身の中にあるんじゃないの?」
沙月の問いは、戦いの舞台を、架空の異世界から、今、この瞬間、二人が生きる、この現実へと、引き戻すものだった。