透明男の正しい光
莉奈は、アイスコーヒーのグラスについた水滴を、まるで何かの儀式のように、指でなぞりながら口火を切った。
「まず、根本的なところから確認しておきましょうか。この物語の主人公、アレン。彼は何者?」
「何者、って……。日本の平凡なサラリーマンが、異世界に生まれ変わった姿、でしょ? これ以上ないくらい、ありふれた設定じゃない」
沙月は、紅茶を一口含み、その香りを鼻腔で味わってから答えた。
「そう、表面的にはね。でも、彼の本質はそこじゃない。彼は、生まれ変わったという皮を被った、ある『考え方』そのものなのよ」
「考え方?」
「ええ。それも、最も傲慢で、最も残酷な顔をした、あの『新しい光』の時代の亡霊。彼が異世界に持ち込んだもの、それは単なる便利な知識なんかじゃないわ。彼が持ち込んだのは、『観察し、分析し、分類し、支配する』という、世界をただのモノの集まりとして見る、あの冷たい視線そのものなの」
莉奈の言葉は熱を帯びていた。彼女の思考は、すでに物語の表層を突き抜け、その深層構造へと潜り始めている。
「彼が最初にやったことを思い出してみて。貧乏貴族の三男として目覚めた彼が、まず始めたのは、自分の置かれた状況の『客観的』な分析よ。家の財政、土地の生産性、周りの人間関係、そしてこの世界の仕組み――魔法の原理。彼は、この世界を、自分の理性が解剖し、理解し、そして最終的には思い通りに作り変えるべき『対象』として捉えている」
「確かに、彼の視線は徹底して『外部』からのものね」沙月は同意した。「まるで、未知の虫を観察する昆虫学者のようだわ」
「そうでしょう? これって、ある時から始まった、人間が世界の主人であるかのように振る舞い始めた、あの暴力的な態度そのものよ。彼は、自分だけが、この世界の誰とも違う、特別な場所に立っていると錯覚しているの。まるで、自分だけが透明なガラスの箱の中から、すべてを見下ろせる神様になったかのようにね」
「どこからでもない場所からの視点、というわけね」
「ええ。でも実際には、ある特定の時代に、ある特定の場所で生まれた、極めて偏った視点でしかない。彼が領地の森を歩きながら、木材として使える樹木の種類と量を計算したり、生息する魔獣を討伐対象と資源としてカタログ化したりする場面なんて、その最たるものだわ。森が持つ、生態系としての複雑さや、そこに住む人々にとっての文化的な意味なんて、彼の計算からは完全に抜け落ちている」
「それは、ある種の歴史家の傲慢さと同じじゃないかしら」沙月は、莉奈の議論を引き取って、自らの領域に引き込んだ。「自分だけが時間の流れの外にいて、過去のすべてを公平に裁けるかのように振る舞う、あの態度よ。この小説の異世界には、アレンが来るまで、まるで意味のある時間が流れていなかったかのように描かれているわ。何百年も続く王国の政治的な対立は、単なる『腐敗』の一言で片付けられ、民間に伝わる神話や伝承は、彼の『正しい』世界観に合わないという理由で、ただの『おとぎ話』として無視される。季節の祭りも、王家の系譜も、すべてはアレンという『本当の歴史を始める男』が登場するための、静的な背景としてしか機能していない。この異世界の人々の過去は、彼の物語に都合よく組み込まれることでしか、語られることを許されないのよ」
「だから、この世界は、彼が来るのを待つだけの、巨大な待合室に過ぎなかった、ということになるわね」沙月はそう結論づけた。
「違うわ、沙月。そこがあなたの甘さなの」莉奈は、沙月の言葉を鋭く遮った。「あなたは、その傲慢な視線が、ある特定の歴史が生んだものだと言う。でも、問題はもっと根深い。その視線を可能にしている『正しさ』や『合理性』という考え方そのものが、すでに何かを犠牲にすることで成り立っているのよ。光が強ければ影も濃くなるように、あの『新しい光』の時代は、その輝きの裏で、いくつもの大陸を闇に突き落とし、数え切れない人々をモノとして扱ってきた。この二つは、コインの裏表なの。切り離すことなんてできない」
莉奈は、一気にそこまで言うと、渇いた喉を潤すように、アイスコーヒーを勢いよく吸い込んだ。ストローが氷に当たる、からん、という乾いた音が、二人の間の沈黙を埋めた。
「だから」と莉奈は続けた。「アレンという主人公は、単に『新しい考え方』を持っている、というだけでは済まされない。彼は、その光と影のシステムそのものを、その身に宿して異世界に降り立った、いわば生ける権力装置なのよ。彼が『正しい』と信じて疑わない知識――例えば、効率的な農業や、帳簿のつけ方、物理法則に基づいた兵器の設計――それらすべてが、世界の他の場所にあった豊かな知恵を『間違った』『古い』ものとして貶め、破壊してきた、あの暴力的な知の体系の産物なの。彼は、善意で、無自覚に、異世界で再びあの暴力を繰り返している。彼が領民の健康のためにと導入する『衛生的』な食生活が、その土地で何百年も続いてきた食文化や、共同体での食事の意味を破壊していく場面なんて、その典型よ。これほどグロテスクなことがある?」
「グロテスク、ね。確かにその通りだわ」沙月は、莉奈の情熱的な語りを、冷静に受け止めていた。「その点については、私も完全に同意する。彼が持ち込む『正しい考え方』が、異世界固有の知恵を破壊していくプロセスは、この物語の最も重要な核の一つよ。例えば、彼が『非科学的だ』と一蹴する、土地の精霊への祈りや、季節の祭事。それらは、その世界の人々にとっては、自然との共存を図るための、長い時間をかけて培われた実践的な知恵であり、共同体を維持するための重要な文化装置だったはず。でも、アレンはそれを、自らの知識の対極にある、克服すべき『遅れた』慣習としか見なさない」
沙月は、ここで一度言葉を切り、窓の外に視線を移した。太陽が少し傾き、ビルのガラスがオレンジ色の光を反射している。
「ある哲学者が言っていたわ。近代の権力は、人の命を奪うことよりも、むしろ、人の命を管理し、より良く、より長く、より役に立つように育てることに、その本質がある、と。アレンがやっていることは、まさにそれよ。領民の健康を管理し、人口を調整し、生産性を向上させることで、彼は、一人一人の命を、彼の計画の駒として、より効率的に管理しようとしている。それは、王様が気まぐれに首をはねるような古い暴力とは、全く異質の、より包括的で、より静かに浸透していく、優しさの皮を被った暴力だわ」
「だから、この物語は、かつて多くの場所で起こった悲劇の、忠実な再演なのよ。ファンタジーという、安全な舞台の上でね」
「再演、ね」莉奈はフォークの先で、皿に残ったチョコレートの跡をなぞった。「具体的には?」
「外からやってきた『新しくて正しいもの』がもたらす、あの抗いがたい魅力と暴力。それを受け入れなければ生き残れないけれど、受け入れれば自分たちの魂を失ってしまう、というジレンマよ」
「……なるほど」
「主人公のアレンは、まさにその化身として、異世界に君臨する。彼は、あの世界を、まだ何も書かれていない、真っ白な紙のような場所だと見なしているの。そして、そこに自分の意志と知識を刻み込むことで、初めて『意味』を与えてやろう、と。この傲慢さ、どこかで聞いたことがない?」
「ええ。ある大陸には歴史がない、と断じた哲学者の声が聞こえるようだわ」莉奈は皮肉っぽく笑った。
「その通りよ。結局、この異世界は、アレンという名の救世主の到来を、ただひたすら待ち続けていた、巨大な待合室だった、ということになるの」
沙月の分析は、静かでありながら、莉奈のそれとは異なる射程を持っていた。彼女は、異世界と主人公の関係を、歴史の中で繰り返されてきた、ある出会いのパターンの中に位置づけてみせた。
莉奈は、満足げに、しかし、まだ何か言いたげに唇を尖らせた。
「まあ、そこまではいいわ。あなたの言う待合室の話も、優しさの皮を被った暴力の話も、一理ある。でもね、沙月。あなたはまだ、アレンという存在の、本当の邪悪さを見抜けていない。彼の問題は、単に彼が『新しい』ことじゃない。彼が、その新しさを『普遍的』で『中立的』なものだと信じ込んでいる、その一点にあるのよ。彼は、自分が持ち込んだ価値観が、特定の時代、特定の地域で生まれた、極めて偏ったものであるという事実に、絶望的なまでに無自覚なの。彼は、自分の『正しさ』を微塵も疑わない。だからこそ、彼は誰よりも危険な存在になれるのよ」
莉奈は身を乗り出し、テーブルの上で両手の指を組んだ。
「彼が領地を改革する場面を思い出して。彼は、昔ながらの村の決まり事を壊し、土地を個人のものにさせ、効率を最大化するために人々をただの働き手として再配置する。これは、かつて、ある国で人々を土地から追い出し、工場へと送り込んだ、あの歴史の完璧なミニチュア版よ。そして、その結果どうなるか。人々は、土地や仲間との有機的なつながりを断ち切られ、アレンという新たな主人に経済的に依存するしかない、バラバラの『個人』へと作り変えられていく。彼はこれを『古いしきたりからの解放』であり、『個人の自由の確立』だと嘯くでしょうね。でも、これは解放なんかじゃない。これは、古い支配の形から、より巧妙で、より抜け出しにくい、新しい支配の形への移行に過ぎない。あの光と影のシステムの、影の部分が、近代というきらびやかな衣装を着て現れたに過ぎないのよ」
「つまり、主人公は、異世界に新しい光をもたらしたヒーローなのではなく、新しい種類の疫病を撒き散らした、最悪の侵略者だ、と。そういうことかしら」
沙月は、莉奈の議論をそう要約し、静かに問い返した。
「侵略者? いいえ、もっとタチが悪いわ」
莉奈は、首を横に振った。その瞳には、冷たい怒りのような色が浮かんでいる。
「彼は、自分が侵略者であるという自覚すらない。彼は、心から自分を『救世主』だと信じている。その無邪気な善意こそが、何よりもおぞましいのよ。彼は、異世界の人々の魂を、彼の『正しさ』という名の檻の中に、丁寧に、一つ一つ閉じ込めていく。そして、人々は、その檻が『自由』で『快適』な住処なのだと、いつしか信じ込むようになる。これこそが、魂の支配の、最も完成された形じゃないかしら」
二人の間の空気は、再び張り詰めていた。窓の外では、夕暮れの気配が、都市の輪郭をゆっくりと溶かし始めている。彼女たちの戦いは、まだ始まったばかりだった。