硝子の上の戦端
その日の午後、駅ビルの最上階にあるカフェの、窓際の席は、まるで特権的な観覧席のように、眼下に広がる都市の幾何学模様を無感情に映し出していた。ガラス一枚を隔てた向こう側では、無数の人々が、それぞれの目的を持って、あるいは目的もなく、点として移動し、流れ、拡散していく。その運動は、巨大な生命体の代謝活動を思わせ、個々の意志や感情などは、高々度から眺める地上の景色のように、捨象されて見えた。その無機質なパノラマは、これから始まる二人の会話の性質を、予兆しているかのようだった。
「それで、沙月。読んだ?」
テーブルの向かい側から投げかけられた声は、この静謐な空間に、意図的に投げ込まれた小石のように、微かな、しかし明確な波紋を広げた。声の主は莉奈。彼女は、長い黒髪を無造作に片方の肩へ流し、挑むような、あるいは試すような光を宿した瞳で、目の前の女友達――沙月を見つめている。その唇の端には、これから始まるであろう知的遊戯への期待が、薄い笑みとなって浮かんでいた。その笑みは、獲物を見つけた肉食獣のそれに似て、優雅でありながら残酷な光を放っていた。
沙月は、カップに注がれたアールグレイの、琥珀色の液面に映る自分の顔から、ゆっくりと視線を上げた。彼女の動きは、莉奈のそれとは対照的に、計算されたような静けさと滑らかさを持っていた。まるで、莉奈の放つ鋭いエネルギーを、自らの静謐の領域に引き込み、無力化するかのように。
「ええ、読んだわよ、莉奈。あなたがわざわざ、ご丁寧にリンクまで送ってくださった、例の『叡智の泉』とやらを。通勤電車の中で読むには、少しばかり、精神的なカロリーが高すぎたけれど」
『叡智の泉』――正式な題名を『叡智の泉を独占した俺、奴隷少女を解放し、世界を作り変える』という、ウェブ上で連載されているその小説は、ありふれた、どこにでも転がっているような物語の一つに過ぎなかった。少なくとも、表面的には。
「どうだった? 感想を聞かせてもらおうかしら。あなたのその、古い洋館の、鍵のかかった部屋に自ら閉じこもって、内側から壁紙をカリカリと引っ掻いているような、その粘り強い性分から見て、何か面白いシミでも見つけたんじゃない?」
莉奈の言葉には、棘、というよりも、研ぎ澄まされたメスのような鋭利さがあった。二人は、同じ大学の、同じゼミに所属している。互いの知性の在り処を、その指先の震え一つで感じ取れるほどに知り尽くしているからこそ、その思考の道筋の違いに対しては、誰よりも辛辣になれるのだった。仲が悪いわけではない。ただ、プライドという、厄介で、しかし二人にとっては呼吸と同じくらい不可欠な器官が、互いに過剰に発達しているだけのことだ。
沙月は、莉奈の挑発を、柳に風と受け流すかのように、穏やかな微笑みを返した。
「感想、ね。そうね……一言で言うなら、これは一つの完璧な標本だわ。私たちが今、まさに覗き込んでいるものの」
「標本?」莉奈は、面白そうに眉を上げた。
「そう。ある種の病が、最も純粋な、最も無自覚な形で結晶化した、美しい標本よ。特に、自分たちの物語だけが本物で、他の人々の物語はまだ始まってすらいない、と信じ込んでいる人々の、その集団的な夢の産物として、これ以上のテクストはないかもしれない。まるで培養皿の中で、純粋培養された欲望を見ているようだったわ」
沙月のその言い方に、莉奈の瞳が、きらりと光を増した。待っていました、と言わんばかりに。
「あら、またその話? いつもそうね、あなたは。その古い建物の構造そのものを疑うのではなくて、壁のシミやひび割れを、丹念に、いつまでも調べている。そんな生ぬるいことをしているから、いつまで経っても問題の本当の姿に触れられないのよ」
「では、本当の姿とは何なのかしら」
「その物語が見せつけているのは、そんな過去の染み付いた歴史の問題なんかじゃない。もっと根源的な、光と影のように、決して切り離すことのできない、ある巨大な仕組みの見事なまでの再演よ。その美しい光が、どれだけ醜い影の上で輝いているか、という、あの構造そのものなの」
莉奈は、まるで秘密の恋人の名を囁くかのように、その「構造」という言葉を口の中で転がした。
二人の間に置かれたガトーショコラの、濃厚なチョコレートの香りが、にわかに立ち込めた緊張を和らげるかのように、ふわりと漂った。しかし、その甘い香りでさえ、これから始まる論争の、壮大な前口上に過ぎないことは、二人には分かっていた。
沙月は、銀のフォークを手に取ると、寸分の狂いもなく、ガトーショコラの角を切り取った。その完璧な切断面は、彼女の思考の明晰さを物語っているかのようだった。
「面白いわね、莉奈。じゃあ、あなたのそのやり方で、あの主人公――たしか、元の名前は佐藤健二、新しい名前はアレンだったかしら――の、あの忌まわしい『奴隷解放』の場面を、どう切り刻んでくれるのかしら。まずはそこから聞かせてもらおうじゃないの」
沙月の言葉は、宣戦布告だった。
こうして、現代日本のありふれたカフェの一角で、一見すると何の変哲もない二人の女子大生による、架空の物語を巡る、異常に高度で、どこまでも深く、そして果てしなく長い知的闘争の幕が、静かに切って落とされたのである。