心の隙間
それは、いつものように静かで退屈な朝だった。
神城学園の女子寮、A棟の三階――名家・黒瀬家の令嬢として与えられた個室の窓際で、澪は無言のまま空を見ていた。
戦いのない日。
それは、彼女にとって最も価値のない時間だ。
(……何もない)
戦うこと以外に興味がない。
友人も、娯楽も、未来も――澪には必要ない。
ただ刀を振り、ただ強い敵を打ち倒す。
それだけが、転生してきた彼女の「意味」だった。
しかし、伊勢涼との出会いが、その“意味”にわずかな疑念を残していった。
(……心、か)
澪は誰に語るでもなく、己の胸の内に問いを向けた。
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2.“普通”の少女たち
昼下がり、澪は教室で一人、窓際の席に座っていた。
教室内では、他の女子たちが笑い、冗談を交わし、昼食の準備をしていた。
その輪の中に入るつもりもないし、入れるとも思っていない。
けれど、そんな澪の隣に、不意に一人の少女が腰を下ろす。
「ねえ、澪さん」
声をかけてきたのは、如月紗夜という少女だった。
癖のない茶髪に柔らかい瞳、成績は常に上位で、誰にでも分け隔てなく接する性格。
「このお菓子、ちょっと作りすぎちゃって。よかったら食べる?」
紗夜は澪の机に、小さなクッキーの入った袋を置いた。
澪は一瞬、それを見つめた。
断る理由はいくらでもあったし、無視しても誰も責めない。
けれど――澪は小さく、ほんの僅かに、手を伸ばした。
「……もらう」
その言葉に、紗夜は花が咲いたように微笑んだ。
「やった。じゃあ、また作ってくるね!」
(どうして)
澪はその笑顔の意味が、理解できなかった。
⸻
3.突然の襲撃
その夜、神城学園の東門付近にて、未確認の呪霊反応が検知された。
「緊急事態発生。全戦闘対応生徒は即時、指定地点へ移動せよ」
放送と共に警報が鳴り響き、澪は迷わずその場に跳び出した。
刃はすでに鞘から抜かれている。
現場に到着すると、そこにはEランク呪霊が複数体出現していたが、問題はなかった。
(弱すぎる)
澪は軽やかに跳躍し、刀を一閃。
瞬く間に、呪霊たちの身体が煙のように崩れていく。
「……おしまいか」
しかし、その時だった。
周囲の空気が――震えた。
突如、重たい気配が襲いかかり、地面が波打つように歪んだ。
空間の裂け目から現れたのは、Aランク呪霊。
そしてその背後には、さらに重厚な気配――
「っ……!」
澪の目が、わずかに見開かれる。
(S……?)
現れたのは、人の姿に近い――だが明らかに異質な存在。
“禍纏”と呼ばれる特級呪霊だった。
その瞳が、真っ直ぐ澪を捉える。
「――見つけた」
声が届いた瞬間、空間ごと圧し潰されるような重圧が押し寄せる。
⸻
4.孤独な戦い
(まずい……これは一人では――)
そう思った瞬間だった。
別方向から走り込んできた数名の生徒たちが、澪の後方に到着する。
その中には、先ほどの如月紗夜の姿もあった。
「澪さん、支援します!」
「……お前が?」
予想外の行動に、澪は一瞬、判断を迷った。
だが次の瞬間、呪霊が腕を振り上げ、全員を吹き飛ばす衝撃波が発せられる。
澪はすぐに前へ出て、呪霊の腕を刀で受け止めた。
骨が軋み、足元の地面がひび割れる。
「さがってろ。邪魔になる」
「でも……!」
「いいから」
澪の声には、冷徹さと――微かな、焦りがあった。
その焦りがどこからくるものか、澪自身も分からなかった。
(なぜ、私は……あいつを“かばった”?)
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5.呪霊殲滅と、その後
戦いは熾烈だった。
澪は全力で呪霊に挑み、その力を次第に削ぎ落とし、最終的に首を一刀両断にする。
呪霊の身体が黒煙となって消え、地面に静寂が戻る。
だが、澪はすぐにその場を離れなかった。
彼女は、倒れ込んだ紗夜に近づき、その無事を確認するように見下ろした。
紗夜は苦笑しながら言った。
「助けに……来たつもりだったのに、結局、守られちゃったね」
「……戦いは、お前には向かない」
「でも……誰かのために何かできたなら、それだけで私は……」
その言葉を聞いた瞬間、澪の中で何かが――小さく、確かに揺れた。
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6.心の隙間に差し込む光
その夜、澪は一人、学園の屋上にいた。
冷たい風が吹き抜ける中、彼女は目を閉じて思い返していた。
(戦い以外のものに、価値があるのか?)
伊勢の言葉、結月の幻影、紗夜の微笑――
それらが、心の奥にゆっくりと沈んでいく。
(……退屈、か)
その言葉を口にしようとして、澪はふとやめた。
代わりに、空を見上げた。
そこには、雲一つない夜空が広がっていた。