黒髪の鬼、学園に降り立つ
煙が充満する夜の市街地は、もはや“戦場”と呼ぶのもおこがましい惨状だった。
街灯は引き千切られ、アスファルトは抉れ、コンクリートのビル群は骨のように折れ曲がっている。瓦礫と、肉と、血と、呪力の残滓。空気が腐っている。人が生きる空間ではなかった。
「ぜぇっ……ぜ、ぜぇっ……!」
その場に生き残ったのは、呪術師――国家認定の呪霊討伐部隊、Bチーム所属の呪術師・立花颯ただ一人。
いや、正確には“まだ死んでいない”というだけの話だ。
仲間の気配はない。部隊長も、補佐も、前衛も後衛も、全員が呪霊の一撃で塵にされた。
背後から響く「ズリッ、ズリッ」という音。
血と脂と腐敗臭を伴って、S級呪霊が迫っている。名も知らぬ、災害レベルの存在。
「く、くるな……こっちにくんなぁああッ!」
颯は呪符を放とうとする。が、震える手から滑り落ちた。拾えない。呪力も、脚も、もはや言うことを聞かない。
死――
その二文字が、ついに脳裏に降りたそのときだった。
“風”が吹いた。
どこからともなく、すっと、風が通り抜けた。
いや、違う。“殺気”だ。
濃密な“殺気”が、夜の空気を切り裂いて届いたのだ。
視界の向こう、ビルの屋上に、ひとりの人影が立っていた。
――黒髪の少女。
学生服のような黒いブレザーに、紅のリボンタイ。長く艶のある黒髪を風に揺らし、無表情で地上を見下ろしている。
その手には、刃。白鞘の刀。
ただそこに立っているだけなのに、圧倒的な“違和感”を放っていた。
呪霊も動きを止めた。いや、“止めさせられた”のだ。
「お、おい……なんで、こんなところに学生が……」
颯がそう言った瞬間、少女は音もなく、ビルの屋上から“飛んだ”。
重力を無視したように、ふわりと。だが着地の瞬間、地面が“めりっ”と沈む。
それが“質量”の証明だった。
少女は無言で刀を抜く。
呪霊が咆哮した。
次の瞬間――
ズバンッ!
音が遅れて届いた。
呪霊の片腕が、“ない”。
その断面からは、液体ではなく“呪気の塊”が漏れ出していた。
少女は静かに足を進める。呪霊が振り上げた残る腕ごと、胴体を縦に一閃。
断ち割られた呪霊は、悲鳴もなく、崩れ落ちた。
その姿は、まるで“祈るように”跪いているかのようだった。
少女は血を浴びた制服の袖を払う。
その目には、何の感情もなかった。
ただ、淡々と。つまらなそうに。
「……あれが、“黒瀬澪”?」
それが、黒瀬澪という“鬼”を見た最初の記録だった。呪霊の残骸が霧散するのを見届けたあと、澪は何の感慨もなく背を向けた。血塗れの現場、崩れかけた建物、命乞いをしていた人間――全部、どうでもいい。
戦いが終わった。それだけで、この場所にもう価値はなかった。
(やっぱり……)
澪は心の中で、静かにため息をついた。
(弱すぎる。これで“S級”?)
ただの“災害”ではなかった。あれは“呪い”であり“呪念”であり――確かに危険な存在ではあったのだろう。けれど、自分にとっては所詮、その程度だった。
戦いの興奮はなかった。心が踊る感触も、脈打つ鼓動もない。ただの作業。
その“退屈”こそが、彼女がこの世に戻ってきた理由だった。
脳裏に焼き付いている“あの日”の感覚。
肉が焼ける匂い。血飛沫。強者の呻き、断末魔。
それらを何千、何万と超えてきた。
――酒呑童子。
それが、かつての彼女の名前だった。
鬼の長。人を喰らい、討伐隊を返り討ちにし、数百年の間、戦いに身を投じてきた存在。
強者だけを喰らった。自らより弱い者には興味がなかった。
戦の中でしか自分を保てない。刃と呪と猛威だけが、生きる意味だった。
――だが、最後は。
全てを殺してしまった。
名のある武人も、術士も、神に仕えし僧も、全て。
戦えば勝ち、殺せば終わる。
かつては何十人がかりでしか近寄れなかった戦場が、やがて一人で蹂躙するだけの“無音の儀式”になっていった。
(……何も、残らなかった)
そしてある日、山の中で一人、彼女は刀を自分に向けた。
自決。
誰にも討たれることなく、誰にも看取られることなく、ただ、自ら命を絶った。
その瞬間に思ったのは、“敗北”でも“恐怖”でもなかった。
ただ、退屈だった。
(次は……もっと強いやつが、いるところで)
それが、最後の願いだった。
そうして彼女は、生まれ変わった。
この現代――“呪霊”が世界に蔓延し、人間と呪いの戦争が続く日本に。
⸻
気づいたとき、黒瀬澪は産声を上げていた。
名家“黒瀬家”の令嬢として、優雅な衣をまとわされ、温室のような屋敷で育てられた。
けれど、そんなものに興味はなかった。
玩具にも、教育にも、音楽にも、舞踏にも。
唯一興味を惹かれたのは、木刀だった。
握った瞬間、手が“歓喜”した。
刃を振るう感覚。骨を砕く手応え。自分が何者であったか、その瞬間すべてが戻った。
それ以降、澪はずっと戦っていた。
訓練場で、稽古相手と。
街の裏に巣くう呪霊と。
己の身体と。
そして――空虚と。
(この世界には、“まだ残っている”)
あの頃のように、歯応えのある敵が。
この身体で、もう一度。
戦いに生きる。生き直す。
そう決めたその瞬間から、“黒瀬澪”という少女はただの令嬢ではなくなった。神城学園。
日本全国に点在する“呪術学園”のひとつであり、関東随一の戦闘系エリート育成機関。通称、“討呪校”。
入学試験は実戦形式で行われ、Eランク以上の呪霊を単独で祓うことが最低条件。定員の1/3は毎年“死亡”または“精神汚染”で脱落する、命懸けの養成学校である。
「――では、これより新入生代表による、挨拶を」
壇上で教頭がマイクを掲げる。
体育館に整列した新入生の中で、ひときわ目立つ人物が一人。
黒髪の少女、黒瀬澪。
だが彼女は、壇上に上がろうとしなかった。
「……? 黒瀬さん? あなたが代表の――」
「やらない。めんどくさい」
「な……っ」
会場がどよめく。
だが澪は、気にしない。周囲の目も、教員の視線も、どうでもいい。
――興味がない。
彼女がこの学園に来た目的はひとつ。
強い敵を探すこと。
だからこそ、この学園の制度のひとつを見逃さなかった。
「入学初日のスパーリング戦」
新入生の実力把握のため、全員が1対1で模擬戦を行う試練。
「……さて、始めるぞ。お前ら、手加減はしなくていい。命を落としても知らん。俺らが止めるのは最悪の時だけだ」
教員がそう言って、戦場のゲートを開いた。
1試合目、2試合目――複数の生徒が激しい術式を用いて戦い、勝者が次々と決まっていく。
そして――
「第7試合。黒瀬澪 対 神代光」
注目カードだった。
神代光。元・関西の討伐部隊に所属、すでにDランク相当の呪霊2体を祓った実績のある実力者。
「へぇ、お前が黒瀬澪か。学力首席にして実技試験最速記録、ね。どんな術式を使うのか楽しみだな」
光は軽く笑って構える。
だが、澪は刀を抜きながら、ぼそりと呟いた。
「……術式? そんなもの、いらない」
その瞬間、教員が何かを察知して動こうとした。
だが――遅い。
澪の身体が、“霧”のように加速した。
抜刀術。斬撃。
一閃。
「……え?」
光が戸惑った表情のまま、両膝をついた。
頬から、肩から、細く赤い線が走る。
敗北。
圧倒的、即決、完膚なきまでの勝利。
観客席が静まり返る。
教員たちが言葉を失う。
ただ一人、澪だけが無表情のまま、刀を鞘に納めた。
(――まだだ。これじゃ、足りない)
もっと強いやつがいるはずだ。
それを探すために、ここに来たのだから。「なあ……見たか、あれ」
「いや、見えなかった……」
「術式、使ってねぇよな?」
スパーリング戦が終わったあと、生徒たちの間では明確な“境界線”が引かれていた。
黒瀬澪。
ただ一人、別格の存在。
術式も呪具も使わず、ほぼ“生身”で、討伐経験者を一瞬で斬り伏せた少女。
誰も、彼女の動きを正確に目視できていなかった。
「おい、澪ってさ……どこの家の子なんだ?」
「黒瀬って、確か旧華族の系譜。呪術の家系じゃなかった気がするけど……」
「いや、関係ないだろ。あれは“才能”とか“血筋”とか、そういう次元じゃねえ」
ざわめく生徒たちの声は、当の本人には届いていなかった。
澪は、誰とも目を合わせない。誰にも興味を示さない。ただ、静かに一人で立っている。
その姿はまるで、“戦場で孤立する神”のようだった。
⸻
そして、学園の監視室。
複数のモニターを前にして、教員たちが映像を巻き戻していた。
「……なんだこれは。映像が……飛んでる」
澪が刀を抜いた瞬間、録画映像にノイズが走り、フレームが数枚飛んでいた。
可視速度を超えている。
「これ、教えてくれ。今の1年に、黒瀬に対抗できるやつ……いるか?」
誰も、答えなかった。
だが――
その場にいた一人の老教師だけが、静かに立ち上がった。
「……“彼”を出すしかないな」
「“彼”? あの隔離棟の……?」
誰かが、息を呑んだ。
「暴れさせるつもりですか? あれはまだ……制御できてないはず――」
「だからこそだ。抑止力が必要だろう? 黒瀬澪という“戦鬼”を止められるのは、あれしかいない」
闇に隠された“もう一つの最強”。
学園はすでに、想定を超えた存在を迎えていた。
⸻
その夜、澪は屋上で一人、星を見ていた。
光も、風も、夜の音も、何もかもが遠い。
唯一近くにあるのは、刀の柄と、自分の呼吸だけ。
目を閉じると、懐かしい声が聞こえる。
――また戦いに来たのか?
――いいや、まだ飽きていないだけだ。
風が吹く。
澪の黒髪が揺れる。
静かな夜だった。
だが、その背には確かに“鬼”が宿っていた。
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