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亡蜀記  作者: コルシカ
8/23

馬超


        八


 建安十五年(二一〇)、曹操は求才令という能力発掘のための布告を行った。

 家柄等既存権益にこだわらず、優れた人材をもとめることが曹操の嗜好であったので、かれにとって特別目新しい布告ではなかったものの、漢の丞相という王朝の主宰者たる宣言をあらためて示したものである。

 そして冬には、銅雀台という巨大建造物を建てた。

 鄴から動かなかったこの年の曹操は、五十六歳という自身の苛烈な人生を振り返る年としたかったのかもしれない。

 赤壁の戦い、曹操政権では烏林の戦いとよばれる大戦に敗れ、国力の整備につとめた。

 とくに疫病によって多くの兵士を失ったことは痛恨事であったので、とうぶん南征を控える認識に至ったということである。

 (われはもう天下を統一したようなものではないか)

 と曹操は考えたのであろう。つまり中華の三分の二を平定し、献帝を擁立しているじぶんは周の文王になぞらえてもいい。

 むかし周の文王は天下の三分の二を得ながら、殷の天下を簒奪しなかった。

 しかし文王の子の武王は、殷を倒して周王朝を創設しているので、曹操もじぶんの子に独自の王朝をつくらせたいと考えているのではないか、と皆は容易に想像がつく。

 翌年建安十六年(二一一)には、曹操の長子である曹丕が五官中郎将に任命され、官界に初登用された。歳は二十五歳である。

 曹操は荊州と益州のうごきを注視している。

 劉備と魯粛とのあいだに荊州をめぐるあらそいが沈静化したことは、孫権が劉備に荊州を任せたということなのか。

 孫瑜が益州を征伐するのを劉備はさまたげたが、それは劉璋と孫権双方と手をにぎり、やがては益州をじぶんのものにしようとしているのではないか。

 曹操は、持病の頭痛が悪化する思いがした。

 気になるのは漢中郡である。

 いまは五斗米道の教祖である張魯が漢中を領有しているものの、劉備が劉璋を利用して漢中を手に入れたらどうなるか。

 漢中郡は、益州の最北端にある要衝である。

 その地理をみてみれば、右扶風、京兆尹、涼州の武都郡、荊州の南陽郡、南郡に接しており、漢の副都である長安に進出することもたやすいのである。

 そこにきて涼州の韓遂と馬超のうごきが活発化しているという報せも届いている。

 (もし劉備が漢中を手に入れたら……)

 劉備としては反曹操の韓遂と馬超と手をむすび、孫権軍をも北上させ、兵を東進させるであろう。

 曹操としては二正面作戦を強いられることとなり、これは看過できない苦境に陥る。

 じぶんの識っている劉備が、最大の敵になろうとは、曹操はいまでも信じられない。

 劉備は曹操を裏切って徐州から冀州、荊州と身ひとつで流浪してきただけの弱小勢力のはずであった。

 それが烏林の戦いを機に勢力を急拡大し、曹操を脅かすようになろうとは。

 これまで何もかも棄てて棄てて棄て尽くして生きてきた劉備が、突然自領を保持しはじめるという執着を見せたとはいかなることか。

 (あれは元直がいっていた、諸葛亮と龐統なるものたちのしわざか……)

 徐庶は長阪の戦いで曹操に身を投じてからは、曹操と劉備の二重間諜として暗躍している。

 諸葛亮と龐統とは同窓だった徐庶には、ふたりの辣腕が理解できる。

 (それにしても、あのなんの取り柄もない玄徳が……一郡を支配できずとも、天下を差配できる器量ということはあるまいな)

 曹操は、ふたりきりの宴会で雷が鳴り、それに驚いて箸を取り落とした劉備のことを思い出していた。

         ※

 「ここまで態勢が整ったということは、長安を陥落させるのもたやすいな」

 白銀のみごとな鎧に身をつつんだ馬超は、傍らの韓遂に話しかけた。

 「うむ。曹操は幷州の商曜を討伐したばかりで、軍備が整っていない。兵を神速で進ませれば対応しきれまい」

 韓遂も、馬超に同調した。

 韓遂は馬超の父である馬騰の時代から、馬超とは共闘して涼州を割拠してきた。年齢は六十をとうに過ぎているが、涼州の臣民の信を得ているのはいまや韓遂であろう。

 楊秋、李堪、成宜という豪族と誼を強め、候選、程銀、張横、梁興、馬玩らを従えた。

 かれらは馬超と韓遂を含め「関中十部」とよばれていた。兵は総勢十万である。

 馬超は字を孟起といい、扶風郡茂陵に生まれた。この年三十六歳で、生まれの司州のみならず、涼州や益州までもその勇名は響いている。

 父の馬騰は建安十三年(二〇八)に、都で衛尉となり宮中警護の役割を担っており、弟の馬休と馬鉄は、曹操の本拠である鄴に移住していた。

 馬超は一族でひとり、父の任地に留まり軍営を統率していたことになる。

 韓遂とは父の馬騰が異姓兄弟の契りを結ぶほど絆が深かったが、後に領地問題で馬騰と韓遂は仲違いし、馬騰の妻子は韓遂に殺害された過去がある。

 いまは馬超が曹操を打倒する野望を韓遂に謀ったところ、その心意気をかって意気投合している。

 建安十六年の二月になって、長安に駐屯している司隷校尉の鐘繇は、馬超と韓遂らの不穏なうごきを曹操に急報した。

 曹操からは、

 「馬超らと協議し、善処するように」

 という書簡がとどいたが、関中十部全員が鐘繇の交渉に聞く耳をもっていないので、鐘繇はふたたび曹操に書簡を送った。

 「関中十部は、長安を攻撃する意図を隠そうとしていません。もはや武力によってかれらを鎮圧すべきでしょう」

 曹操は、鐘繇のことを責められない。

 鐘繇は長年にわたって、司隷校尉として騒擾の巣であった西方を慰撫してきたのであり、その治績が否定されるものではないからである。

 「馬超は長安を陥落させたあとは、東進して洛陽を奪取するつもりだとかんがえられます」

 鐘繇の報告に、曹操は首をひねった。

 (馬超は長安と洛陽を得て、天子を擁して王国を樹てるつもりなのか……)

 野望家の馬超であれば、考えられないことではない。

 馬超の祖先は後漢の光武帝に仕えた名将軍の馬援である。父の馬騰も勤皇家であるがゆえ、いまは洛陽で天子の護衛たる衛尉になっている。

 (天子に不満があるとも思えぬ……)

 献帝はかつて董卓らの傀儡となっていたが、ふたたび西方の馬超の傀儡になろうという意志はあるまい。

 ならば、馬超を打倒するしかない。

 すでに夏侯淵を鐘繇のもとに救援としてむかわせているものの、かれの才覚では馬超と韓遂を駆逐することは不可能である。

 当時、曹操の陣営で名将として世間に認知されていたのは、

 張遼、楽進、張郃、徐晃、于禁

 の五人である。

 かれらは正史「三国志」でも五人ひとまとめの列伝が立てられている。

 蜀の関羽、張飛、馬超、黄忠、趙雲とおなじ扱いである。演義小説でかれらを「五虎将軍」と称したのであれば、魏の五虎将軍は張遼ら五人であろう。

 しかし、曹操が馬超討伐の総帥に選んだのは、従弟の曹仁であった。

 「行安西将軍に任ずる。馬超らを潼関内にいれてはならぬ」

 曹仁は、周瑜との三年にわたる江陵での死闘が記憶にあたらしい。

 結局曹操は江陵に援軍をおくることができなかったので、曹仁は江陵を放棄せざるをえなかったものの、その粘り強い戦いは人々に記憶され、曹操も評価するところとなった。

 なぜなら曹仁の奮闘により、周瑜は病み衰えて死に、呉軍の北進をくいとめたからである。

 しかし曹仁の心は、晴れなかった。

 撤退で武勇をみとめられるのは不本意で、曹操に再度呉軍と戦わせてほしい、と懇願したこともある。

 屈辱を晴らしたい曹仁の気性をよく知る曹操ではあったが、複雑な荊州戦線に兵力を投入している場合ではなくなった。

 いずれ曹仁には、北上してくるであろう劉備か孫権の軍と、全力で戦ってもらうことになる。

 だが今は、西方の馬超らを倒し、曹仁の自信と気力を満腔に満ちあふれさせることも必要である。

 曹仁にとっては、馬超や韓遂は、関羽や孫権にくらべると与しやすい相手と感じた。

 しかし、気を抜いて勝てる相手でもない。

 ひさしぶりに気魄の横溢した曹仁は、戦場に吹く風を想像し、馬上の人となった。

 河内郡を通過し、河水を渡って洛陽についた曹仁は、改めて鐘繇と夏侯淵から伝わった情報をもとに、軍を編成した。

 (馬超といえば騎馬戦となろうな……)

 曹仁は、騎馬と歩兵の連携が密にとれる軍に編成しなおした。

 やがて弘農郡に至り、潼関に到着した。

 潼関は弘農郡の西端にあり、河水が直角のように湾曲し、そこへ渭水が流れ込んでいる。

 西方の風を頬に感じた曹仁は、かつての鬱屈した日々をわすれるかのように、溌剌とした声でいった。

 「丞相(曹操)は、賊を潼関内に入れるなと仰せになった。潼関を出て、賊を追い返せとは仰せになっておらぬ。

 ゆえにみだりに出撃しようとした者は、軍法に照らして厳しく処断するぞ」

 専守防衛、ということである。

 鐘繇と夏侯淵もかしこまって軍令に服したので、滞陣はしばらくつづいた。

 (周瑜にくらべれば、馬超なぞ)

 江陵城の援軍のこない戦を三年つづけた曹仁にしては、潼関という堅固な関所に拠って兵糧の心配なく守備できるのは容易であった。

 (いずれは、水戦でも呉軍を圧倒できるようになりたい)

 江陵の戦では軍船を出して周瑜や程普と対戦したが、相手にならなかった。とはいえ今回の戦は、曹仁が得意な騎馬戦が主たるものになろう。

 四月と五月が経過した。六月になって、偵探が報告をもたらした。

 「大軍がこちらに向かって、砂塵をあげてきております。その数、およそ十万」

 「よし……」

 曹仁は鎧をつけながら、

 「馬超と韓遂らが潼関に襲来した。丞相にすばやく伝えよ」

 といった。曹操からは、関西の兵は剽悍なので、潼関から出て戦うべからず、と念をおされている。

 潼関は狭隘な路に建設されているので、馬超らの大軍は三千ほどの隊に先端を再編成せざるをえず、先細りした三千の兵をたたきつづければよい。

 それを承知しているのは戦上手の馬超も同様であり、両軍がにらみあったまま数日が過ぎ、七月になった。

 「どうした。兵をすすませぬのか」

 憔悴した韓遂も、いぶかしげに馬超にたずねた。

 「うむ……潼関の守将はだれか知っているかね」

 営所で浮かぬ顔をした馬超が、韓遂に問い返した。

 「曹仁であろう」

 「それよ……」

 馬超は立ち上がって、地図を指でなぞった。

 「曹仁は敗れたとはいえ、江陵で周瑜と一年も攻防しつづけた。われらは潼関を突破するのに一年も待てぬ」

 「それはそうだが……他の路を探すか」

 「引き返して南路から洛水を渡り、洛陽を攻撃するのはどうか」

 「時間がかかりすぎるな。大軍を移動させるには兵糧の消費が気にかかる」

 「ならば、潼関を突破するしかないか……」

 馬超はうなだれて、地図に両手をついた。

 「仕方あるまい。天下に正義を糺すためにここまでの軍勢をあつめ、潼関まできた。

 やってやれぬことはあるまいて」

 韓遂は、馬超の肩に手を置いた。

 そこで、はっとした馬超は、

 「まてよ……」

 と表情をかえた。

 「曹仁は、曹操の片腕ともいうべき股肱の臣だ。かれを潼関のような局地に置くのはおかしいとおもわないかね」

 曹仁は、征西将軍に任じられていると聞く。

 ならば五万近くの兵を、差配できるはずである。それなのに潼関から出て戦うことをせず、ひたすら守備に徹している。

 韓遂も腕を組んで、

 「それはそうだ。敵は戦える戦力を有しているのに、戦わない。これは何か策があるぞ」

 と馬超に同意した。

 「それに、まちがいあるまい。曹仁は援軍がくるのを待っている。待っているのだが……」

 馬超は、しばらく地図に目を落して潼関から長安への進路をなぞっていたが、ふいに大きく手をたたいた。

 「曹仁の策が、わかったぞ」

 「なんと。それはなにか」

 馬超は目をぎらつかせて、韓遂をみた。

 「曹仁に策などはない……曹仁が待っているのは曹操だ」

 「なるほど……それで曹仁が潼関から出撃せぬことに合点がいった。しかして、どうする」

 「われらも曹操が潼関に到着するのを待てばいいだけさ。潼関の外で決戦して曹操を殺せば、天下が掌中にはいる。

 長安と洛陽を落す手間が省けた、ということだ」

 「ははあ……」

 韓遂は、うなった。

 義侠心で馬超に味方し、勤皇思想の馬騰父子らを見限った韓遂は、曹操の権威にはびくともしない精神の強靱さがある。

 (曹操は赤壁の戦いで兵力を激減させたので、率いてくるのはせいぜい三万か)

 潼関で守備についている曹仁、夏侯淵、鐘繇らの三万余の兵力とあわせて六、七万になろう。

 とすれば、馬超と韓遂らの率いている十万の兵力と比すると、十万対七万となり、勝機は充分にありうる。

 「おもしろくなってきたな」

 馬超に笑いかけた韓遂に、

 「そうであろう。潼関は隘路にあるため、出撃した方が不利だ。

 曹操が到着したなら、かならず潼関から出て戦う。それをたたく」

 馬超は、胸をはって応じた。

 「官渡、赤壁に劣らぬ一大決戦になるぞ」

 老年にさしかかった韓遂は、かつてない心身の躍動をおぼえた。

 (己が乾坤一擲の大勝負となろう)

 馬超と韓遂は、曹操が潼関に到着するのを待つことにした。

 一方の曹操は日頃、

 「馬超を倒さねば、枕を高くして眠れぬ」

 と周囲にもらしており、ついに七月に至り、鄴において遠征軍を編成した。

 留守役は嫡男の曹丕である。参軍事には歴戦の参謀といえる程昱を任命して補佐させた。

 従軍させることにしたのは、曹植である。

 曹植は卞夫人が産んだ三男で、字は子建である。今年二十歳で、平原候に封ぜられている。

 曹植の学才は、尋常ではない。

十歳の少年にして「詩」と「論語」を暗唱することができた。作文や作詩も学者がつくったものと遜色なかったというので、周囲を驚かせた。

さきほど完成した銅雀台の落成式に曹植が詠んだ詩は、即興にしては見事な作品であった。

兄の曹丕は曹植にはおよばないものの文才があり、かつ六歳で弓を引き、八歳で馬に騎って、成長してからは曹操の先陣に随行した。

嫡子とはいえ、後継者がきまったわけではないので、鄴に留守して弟の曹植が父に従うことに不満であった。

やがて二人の間に後継争いが起きるが、それはのちの話である。

曹操は、曹植らに加え、参謀に賈詡を従えて潼関に出発した。

洛陽の郊外で軍の再編成をおこなった曹操が潼関に到着したのは、八月である。

西方諸将は、曹操到着の報に、ざわめいた。

その首領ともいえる馬超は、

「いよいよきたか」

と営塁から潼関を見据えた。

曹操とて、無策で潼関まで遠征してきたのではない。関中に散らばる関中十部を、この地で一網打尽にすることで、西方を転戦する必要がないと考えた。

曹操は河水を船で渡って、兵を西岸に上陸させたい。そこは河水の湾曲部の西岸であると同時に、西から流れ込んでいる渭水の北岸にあたるため、渭水の南岸に位置する馬超らの軍を、渭水の東に位置する曹仁らと挟撃できる。

潼関の隣にある蒲坂という県には津があり、そこから河水を渡ろうという策戦である。

徐晃と朱霊の二将に四千の歩兵と騎兵を率いさせ、夜間ひそかに蒲坂津から河水の西岸を渡った。

夜が明けるとすみやかに歩兵を使って、営塁を築かせた。

敵に対する橋頭堡が完成したことで、曹操軍主力と潼関の曹仁が、馬超らを挟撃する戦況をつくることができたのである。

「徐晃と朱霊が、河水の西岸にわたったのか」

馬超は曹操が先にしかけてきたと感じ、急遽韓遂と協議した。

「曹操は河水の西岸を渡ろうとしているので、兵を渭水の北へ移動させて渡河中の曹操軍を襲えばどうか」

曹操軍と曹仁軍の挟撃をおそれた馬超は、軍の移動をしてはどうかと韓遂に訊いた。

「それもよいが……」

韓遂は目をとじて、曹操のうごきをよんでみた。

「曹操に河を渡らせてしまっても、悪くない。曹操は河水を背後に陣を張ることになるので、やつらを強襲し、河水に叩き落してやってもいい」

「それは、痛快だな」

馬超も、韓遂の案にのった。

徐晃と朱霊は陽動作戦で、かれらを渡河させた後、曹操の主力が潼関を出てくることも考えられる。

曹操はいわば、馬超案と韓遂案のどちらでも対応できるような策戦をとったので、後手にまわった馬超と韓遂は緒戦で優位を保てなかった。

馬超は梁興を呼び、

「徐晃と朱霊を、河水に叩き落としてやれ」

と命じた。

梁興は渭水を渡河する途上であったが、

「おう。きやつらを、河の魚の餌にしてやろう」

と勇んで出撃していった。

梁興は五千の兵を対岸に上陸させ、徐晃と朱霊が急造した営塁を攻撃した。

徐晃と朱霊は、攻撃してきたのが西方諸侯軍の支隊であることを知り、これで曹操の渡河は成功したも同然であると胸をなで下ろした。

両軍は激しく激突し、ほぼ互角の兵力ながら徐晃と朱霊の軍が梁興を圧倒して、梁興はあっけなく敗退した。

敗報を聞いた馬超は、

(さすがは徐晃……)

とうなった。中原で戦塵にまみれ、激闘をくぐりぬけてきた徐晃と、西方で安穏とすごしてきた梁興とでは将兵の差があったということだ。

しかし、そこで弱気にならないのが馬超の猛将たるゆえんである。

「これで曹操は、渭水の北に渡ることがわかったぞ。われにつづけ」

もう韓遂に相談する必要はない。馬超は、大軍を率いて渭水を渡った。

すでに曹操と将兵は、船で河水を北上している。先鋒は、徐晃と朱霊が守る営塁に上陸しはじめた。

上陸を終えた曹操は、全軍が渭水を渡り終えるのを遠望していた。

やがて天地が翳るほどの大軍が、曹操軍先鋒にむけて押し寄せてきた。その数は一万をゆうに超えている。

(馬超が出てきたか)

曹操軍先鋒の将は、張郃である。

彼我の戦力と勢いを見るに、馬超が率いる兵の強靱さが伝わってくる。

その威風あたりを払う騎兵を主体とした軍は、戦場の空気を一変させた。

「はは、間に合ったぞ、曹操」

馬超は、曹操軍が渡河を終えていないのを確認すると、高笑いした。

(これは大勝できる)

馬超は、確信を強くして将兵をはげました。

「曹操は、背水の陣を敷いているも同然ぞ。

河水に叩き落としてやれ」

背水の陣、とは水を背後に陣を敷くことである。曹操が研究を重ねた孫子の兵法では、禁忌とされている。

唯一の成功例が、楚漢戦争時代の韓信であるが、その韓信ですらめずらしい地形を利用していたのであって、このような大軍が展開できる平坦な地形であれば、それを避けたであろう。

惜しむらくは馬超の進軍速度がはやすぎて、西方諸将同盟の十万の兵のうち、一万しか戦場に到着できなかったことである。

「曹操よ、ようやく会えたな。出てきて、われと戦え」

馬超の咆吼が、戦場にこだました。

それを合図に、騎兵が数千の矢を曹操軍に向けて発射する。

矢は上方に向けて発射するので、まさに戦場に矢の雨が降った。

盾や車を並べて張郃が矢を防ぎ、弩で応戦する。徐晃と朱霊も、負けじと馬超軍に向けて矢を発射した。

馬超の騎兵隊は、西方で鍛えられているのでいまや中華一の強さである。騎兵同士の戦いであれば張郃や徐晃といえども、馬超に歯が立たない。

さらに馬超の騎兵は馬上において弓矢が使えるだけでなく、長矛という柄の長い矛を自在に操ることができる。

参謀の賈詡は潼関に到着すると、

「関西の兵は、馬上にいながらにして長矛をつかいます。先鋒は精兵を選抜して、対峙すべきでしょう」

と進言した。曹操は笑って、

「戦いは、われに在り、賊には在らず、さ。

馬超が長矛に習熟していようとも、われはそれに刺されないように工夫をしている。

なんじらは、それを見ているだけでよい」

といった。

すなわち「鉄騎」とよばれる五千の騎兵のことで、かれらは鉄の甲を着用している。騎乗する馬にも革ではなく鉄の甲を着せているので、矢の攻撃や長矛の突きを跳ね返すという意味である。

しかしながら、鉄騎はまだ戦場に到着しておらず、渡河の最中であった。

それだけ馬超の急襲はすさまじく、曹操の発言をむなしくしてしまった。

馬超の騎兵はつぎつぎと、長矛で曹操軍の兵士を河水に叩き落としていく。

ようやく馬超の歩兵が戦場に到着することによって、さらに曹操軍の頽勢はあきらかになっていった。

(馬超は、往年の呂布をこえたか……)

曹操は慄然と、胡牀から立ち上がった。

となりにいる曹植も、顔面蒼白である。

(これでいい)

曹操は、曹植の反応に満足した。

いまや曹操軍を圧倒する敵は数少ない中で、強敵である馬超との死闘を見せておくことが、かならず曹植の役に立つと思ったからである。

ここが、我慢のしどころであった。

曹操が船に乗って水上に逃れると、馬超との戦力が逆転し、軍が崩壊する。曹操が岸に踏みとどまっているかぎり、渡河を終えた鉄騎および歩兵が増えて反撃の機会が訪れる。

ところが、曹操の理屈どおりに戦場は推移してくれない。

馬超の騎兵と歩兵の連動は完璧で、蝗の大群のように勢いがあり、渡河したばかりの曹操軍にまともに隊伍を組ませない。

やがて、曹操のいる本営近くに馬超軍の矢の雨が落ちてくるようになった。

「丞相……」

親衛隊長の許褚が、駆け寄ってきた。

ここにいては危険だという、緊急事態を報せにきたのである。

おりしも馬超は、おそるべき戦場の勘で、曹操の本営を探り当てた。

「そこか、曹操。逃げるなよ」

ふたたび吠えた馬超に呼応するように、曹操の本営に矢の豪雨が集中した。

曹操の護衛は左右に盾を何個も立てるが、たちまちその盾はハリネズミのようになった。

馬超の騎馬突撃が曹操本営にむけてはじまったとき、張郃は、

(これでは、丞相のお命があぶない)

と撤退の指示を出した。

張郃は盾を押しのけ、護衛の兵の間をぬって曹操をむりやりかかえるようにして、船に乗せた。

「仲康(許褚)、丞相をたのんだ」

むろん曹操を守衛する将は、豪傑の許褚である。

「ここで、船を出すな」

曹操の叫び声は、豪雨のような矢と兵馬の音にかき消された。

「丞相の命をお守りするのが、私の役目です。さまたげないでいただきます」

許褚は、聞き分けのない曹操をなだめながら、船をさかのぼらせた。

しかし、上陸したばかりの兵は曹操が逃亡するのを目のあたりにして、戦意を喪失し、曹操の船にしがみつく者が続出した。

「ええいっ、離せ。離さなければ斬るぞ」

曹操の船にしがみついて航行をさまたげる兵たちを、許褚は刀で斬り続けた。

斬られた兵の腕だけが、船の縁をつかんでいる。修羅場であった。

「曹操は、あの船にいるぞ」

馬超の先鋒隊の騎兵たちが、曹操の乗る船と併走し、騎馬したまま矢を放ってくる。

盾が矢の剣山のようになったので、許褚は曹操をかばいながら、馬の鞍で敵の矢を払い落としている。

「船頭が、矢で死にました」

許褚の部下が、必死の形相で報告した。

「わかった。丞相をたのむ。われが漕ぐ」

許褚は、左手の馬の鞍で矢を払いつつ、右手で船を漕いだ。

船はもはや、河をさかのぼれない。下流にむかって流されるだけであるが、敵側に向かわぬように許褚が船を右手のみで操縦した。

怪力の許褚にしかできぬ、荒技であった。

 五里も下流の川岸に、曹操と許褚らの船は漂着した。

 「是の日、褚微かりせば幾ど危うし」

 正史三国志では、曹操の危機をこう表現している。

 この日、許褚がいなければ、曹操の命は危なかった、という意味である。

 それだけ許褚の獅子奮迅のはたらきというものはすさまじく、対岸からそれを見ていた馬超も、

 「あれが、虎痴とよばれている許褚か……」

 と感心した。

 虎痴とは、ふだん力は強いが茫漠とした人柄をいい、戦以外は書を読み、法令を守る慎ましい人柄との差異をさしている。

 許褚は船中の曹操にむかって、

 「このあたりには、賊はおりません。ご安心ください」

 といって部下を守りにかためたまま、曹操を陸上に上げた。

 「馬超は、おそるべき将よな」

 「はい」

 曹操は、許褚に話しかけつつ、この上陸作戦がこのように困難をともなうものになろうとは、とうなだれた。

 戦場の千変万化を知り尽くし、敵を上回る策を立てたはずであったが、馬超の若さと超人的な軍事手腕が曹操を上回ったのである。

 (馬超は、ことし三十六か……)

 五十七歳の曹操より、二十一歳も若い敵である。子の曹丕や曹植に馬超を倒せるか、と想像しても心もとない。

 (この遠征でなんとか馬超を誅殺しておかねば)

 曹操は、目をすえて敵陣のある対岸を見つめていた。

 馬超軍が去ったあと、曹操軍の将士は思わぬ大敗に呆然としていたが、

 「丞相はいずこか」

 と曹操の姿を探し求めた。

 徐晃と張郃、賈詡がひそかに三人で集った。

 「丞相にもしものときがあったら、どうする」

 徐晃が、賈詡に訊いた。

 「いうまでもないことよ。鄴におられる嫡子の子恒さま(曹丕)を後継にたてる」

 賈詡は、感情を押し殺した声で答えた。

 「しかし……従軍されておられる子建さま(曹植)を後継に推す声も聞かれることは事実……ここはいちど鄴に還って事をはかるのが得策かもしれぬ」

 張郃は、声をひそめていった。

 曹操は曹丕より曹植を愛しているようにみえるので、水面下で曹植を後継に推す勢力が隠然と存在する。

 「長幼の序を乱して国を乱した例が、枚挙にいとまがないことを知らぬか。

 よいか。万一のときは子建さまに丞相の棺を守ってもらい、洛陽に撤退する。後継は子恒さまだ。このことは口外ならぬぞ」

 「よし……」

 三人は、覚悟を固めた。

 日没まで、長い時間が過ぎようとしている。

 「丞相のご帰還だ」

 物見の兵が、地平線のかなたから本営にむかってくる小隊を発見し、先頭に曹操と許褚をみとめたので、大きな歓声があがった。

 諸将が、曹操と許褚のまわりにあつまった。

 「今日は馬賊のために、あやうく危難を受けるところであったわ」

 賈詡と徐晃、張郃も顔を見合わせて、曹操の強運を感じた。

 馬超は、翌日曹操の生存を知った。

 「ええいっ、老賊を討ちもらしたわ」

 と地団駄を踏んでじぶんの運のなさを恨んだ。

 曹操を順当に討ち取っていれば、天下の形勢は一変したはずなのに、曹操を追うことばかりにかまけすぎて、徐晃と朱霊が築いた河水西岸の営塁を破壊できなかった。

 上陸してきた曹操軍を恐懼させたにもかかわらず、兵力を殺すこと半分にはるかおよばなかった。

 一万の兵しか連れず長躯したのはよいとしても、曹操軍の意外な粘りの前に糧食と矢が尽きてしまったのである。

 (営塁をつくらない軍は、長期間の戦闘には不利になる……)

 馬超は無念の臍を噛んで、撤退した。

 一方の馬超軍による猛攻にさらされた曹操軍は、甬道造りをはじめた。

 甬道とは、道の両側に防御壁を建てたもので、この道を通れば輜重兵が敵に襲われることはなくなる。

 その建造時に馬超軍から攻撃されることを恐れた曹操は、車を連ねて両側を壁ではなく柵を立てて簡易な甬道を造った。

 甬道は河水に沿って南に伸びて建造されてゆき、補給路を確保した。

 馬超も何度かこの甬道を攻撃したものの、守備に徹した曹操軍を撃破することができなかった。

 「渭水の南岸に、迎撃の陣を敷くぞ」

 馬超は、腰を据えて曹操と戦うことにした。

 「曹操は、慎重な戦い方に切り替えたな。

 よほどなんじの強襲に肝をひやしたのだろう」

 韓遂は、じりじりした馬超をなだめるようにいった。

 (こやつさえ、あのとき協力して曹操を攻めていれば……)

 馬超は、心の底のうらみごとを口に出せなかった。

 河岸の戦いで一万の馬超軍に続いて、数万を擁する韓遂が曹操に一撃をくらわせていれば、今頃馬超は長安と洛陽を陥落させていたのである。

 (しかし……)

 ここで韓遂を西方諸将の前で批難すれば、自尊心の高い韓遂は西に還ってしまう。

 かれに心服する諸将も多いので、大半の兵が西に去ってしまえば、戦うものも戦えない。

 (こやつには、頼れぬな)

 馬超は自軍に同調してくれない韓遂に、戦術の相談をすることをやめた。

 曹操軍は、油断すると潼関から曹仁が出撃することもありうるので、馬超は昼夜警戒をつづけた。

 やがて曹操軍は、馬超の対岸にあらわれた。

 しかし馬超がいつまで待っても、渡河するようすをみせない。

 (甬道をつくらせたのは、まずかったな……)

 馬超は、内心後悔した。

 曹操軍は渡河中に痛撃を受けるのを恐れて、容易には渡河して決戦はすまい。

 それより西方諸将軍の兵糧が尽きて、退却するところを追撃するかまえである。

 「曹操は策をほどこしているのではないか」

 韓遂に忠告された馬超は、

 (このような事態になったのは、なんじのせいぞ)

 と冷えた目でうなずいただけであった。

 ともあれ、十万の大軍は兵糧を減らしつづけている。諸将と合議した馬超は、

 「河水より西を割譲すれば、われらは兵を撤退させよう」

 と曹操に使者を送った。

 河水より西、とは左馮翊、京兆尹、右扶風を含む広大な土地である。

 これだけ領有できれば、曹操を討ちもらしたとて、馬超が大軍を動員して戦った甲斐はある。

 「それは、とても天子がお許しにならぬ。

 西の涯までが天子の土地である」

 曹操はやわらかく和議を断った。が、それは和議をするくらいなら曹操自身がここにはいない、という現実を馬超につきつけるきびしさがあった。

 両軍のにらみ合いは、しばらく続いた。

 そうなると、大軍の馬超軍の方に緩みが出てくる。曹操は兵を多く見せておいて、ひそかに兵を船に乗せ、浮橋をつくった。

 夜間に多くない兵に浮橋を渡らせ、営塁を築かせた。

 驚いた馬超は、西方諸将らと営塁を攻撃したが、即席のわりに営塁は堅固で、馬超らの攻撃を退けつづけた。

 曹操はのちにこの戦いは、長期化させることで馬超らを驕らせ油断させるための策戦をもちいてきたと語ったが、ほんとうにそうであったか。

 「兵は拙速を尊ぶ」というのは曹操が注まで付けて研究しつづけた、孫子にある最重要項目のひとつである。

 つまり戦争とは拙くても速決すべきものであり、巧遅であってはならないものだと曹操も承知していたはずである。

 その原理原則を放擲して馬超と戦いつづけた理由のひとつに、やはり馬超が西方諸将軍を手足のごとく連動できない弱点を見抜いていたのかと考えられる。

 九月に入り、曹操軍は渭水を渡河した。

 渭水は河水ほどの大河ではないにせよ、やすやすと馬超が曹操軍の渡河をゆるした背景には、潼関の曹仁による牽制があった。

 馬超はつねに曹操を攻撃しながらも、じりじりと陣を後退させてしまっている。

 「ようやく曹操をおびき出してやったぞ」

 馬超は、十万の大軍を滞陣させる不安をふりきっていった。

 それでも、曹操は動かない。ついにしびれをきらした馬超は、

 「先ほど提示した西方の土地を割譲してもらえれば、こちらから人質を出してもよい」

 とふたたび曹操に使者をおくった。

 「それにのってみても、よろしいですな」

 書簡を渡された賈詡が、意外な発言をした。

 「ふむ……文和(賈詡)には良策があるようだな」

 曹操に発言をうながされた賈詡は、

 「はい。ここまでの戦を振り返ってみますと、馬超の盟友といってよい韓遂が、まったく前線に出てきておりません。

 これを丞相はいかがお考えになりますか」

 韓遂は長年にわたって西方の梟雄といってよく、曹操とは若年のころ洛陽で出会い、知らぬ仲ではない。

 「たしかに今まで文約(韓遂)の軍とは矛を交えておらぬ……文約が馬超を嫌っているのか、馬超が文約を嫌っているのかはわからぬが、ふたりの間には溝があるのかな」

 「そこでございます」

 賈詡は曹操の思念を打ち切って、

 「丞相が和議をうける姿勢を見せれば、賊は営塁を堅固にすることをやめ、気勢は弛緩するでしょう。

 また馬超はかならず丞相に会見をもとめてきますので、そこで韓遂にも同席してもらい、丞相はあえて韓遂のみと親しげに話し、馬超を無視するのです。

 そうすれば馬超は韓遂を疑うにちがいありませんので、ふたりの間にある溝をさらに大きくし、間隙を突くことができます」

 と説得した。

 「なるほど……それは良策だ」

 曹操も、賈詡の策を実行することにきめた。

 (なんとしても、戦果がほしい。このままでは諸将の信用を失い、同盟が空中分解してしまう……)

 馬超は、この長すぎる曹操との戦いに焦躁をおぼえていた。

 西方諸将の兵糧は尽きかけており、後退して曹操を誘い出そうとしても、曹操はそのぶんだけ前進して堅固な営塁を築くだけであろう。

 (韓遂に頭を下げるか……)

 馬超は韓遂のもとへみずから出向き、辞を低くして頼んだ。

 「曹操は、持久戦を継続しようとしている。

 このままではこちらの兵糧が尽きてしまうので、文約どのの方から会見できぬか使者を曹操に送ってくれぬか。われの使者では、曹操は信用してくれぬらしい」

 「曹操に、西方の地を割譲する気はないであろう。時をかせがれているだけだ」

 韓遂は、馬超の若さをあわれむようにいった。なにしろ韓遂が辺章と後漢王朝にさからって挙兵したのは霊帝の時代で、馬超はまだ童子である。

 「それはわかっている。ゆえに曹操を交渉の場に引き出したい。

 われと文約どの、曹操ももう一人だれかを同席させて二対二ではどうか。武器をもたずに丸腰という条件もつけよう」

 「そこまでいうならば……曹操が出てきてくれるかはわからぬが、やってみよう」

 韓遂の使者は、意外にも曹操の書簡をもって帰ってきた。会談に応じるという。

 「それは、あやしいな……とりあえず、孟起(馬超)に報せてやれ」

 馬超は、それを聞くと呵々大笑した。

 「これで、曹操を殺せるぞ」

 曹操が、ただの一敗で西方の地をくれるはずがない。ならば、会見の地で曹操を殺害もしくは捕捉して、この戦をおわらせればよい。

 かねてからの手はずを左右の兵に指示している馬超に、従弟の馬岱が疑義をとなえた。

 「韓遂の使者にだけ即答するのは、あやしいと思いませんか。なにかの罠かも……」

 「罠とは」

 「はい。韓遂と曹操が逆に従兄上を捕らえようとしているとか」

 「それは……ありえぬことではないな」

 馬超からすれば、韓遂は曹操を攻めるというよりも、馬超の戦術を妨げているように見える。

 (韓遂め……曹操と通じておるな)

 馬超の懸念は、確信に変わろうとしていた。

 会見当日になった。

 馬超と韓遂が約束の場所まで馬を進めると、曹操が従者をつれてやってきた。

 (徐晃か張郃かと思っていたが……将軍ではないのか)

 武勇と馬術で馬超にかなう者は、曹操軍にはいない。

 (曹操を攫いやすくなったわ)

 かねての手はずどおり、おもむろに馬を急発進させようとした馬超は、曹操の従者を見てひるんだ。

 たぐいまれな巨漢である。しかもその目は皓々として馬超を見つめている。

 (もしや、あれが許褚か……)

 許褚は怪力で、牛を片手でひきずることができるという。馬の脚をつかまれて転倒すれば、組み合いとなり馬超の分が悪い。

 馬超は許褚をにらみつけて、曹操への突進をやめた。

 曹操と許褚は、馬超と韓遂に近すぎるほど近づいてきて馬を停止させた。

 「曹公には、虎候という者がいると聞く。となりの壮士がそうか」

 馬超は曹操に訊くと、

 「かれがそうだよ」

 と曹操はにこやかに答えた。

 (やはり、そうか……)

 許褚の眼光は、尋常のものではない。馬超の殺気を勘で察知している許褚は、馬超から視線をはずそうとしない。

 (逆に、われを殺そうとしているのではなかろうな)

 馬超は異様な空気を感じ、馬を後退させた。

 曹操はあえて馬超を無視し、韓遂に声をかけた。

 「文約どの、久しいな。おいくつになられた」

 「ふふ、もう六十六よ」

 「時が経つのは、早い。われも五十六になった」

 「大将軍(何進)がおられた頃の洛陽以来か……歳をとるはずよな」

 韓遂は何進に招かれて、洛陽で宮仕えしたことがある。若い頃の曹操と親しかったのも、その頃なので三十年余のむかしである。

 「当時朝廷に跋扈していた宦官を一掃するよう大将軍に進言したのは、文約どのが最初だった……大将軍が実行していれば、漢王朝も変わっていたであろう」

 「ふふ、そうなればわれが将軍となり、袁紹や袁術をのさばらせず、董卓を討ち、丞相になっていたさ。

 その後、孟徳どの(曹操)を起用して四方を平定していたであろうな」

 「はは、それはよい」

 曹操は韓遂の愉快な想像に、手を打って笑った。袁紹や袁術、董卓らが亡き今、西方の戦場でふたりが相まみえることに詩情を得た思いであった。

 「そうすると馬超討伐は、われが文約どのに命じられて行っていたであろうかな」

 曹操に乗せられるように、韓遂も笑った。

 「ふふ、馬超ごときに名将である孟徳どのを向かわせる必要はない。

 都を孟徳どのに留守させて、われがみずから馬超を討滅するであろう」

 曹操が後継者と目する曹丕と補佐の程昱を都に残し、みずから馬超討伐に出かけたことを暗に言い当てている。

 「そうか……むかし大将軍(何進)が宦官に殺害されたため、文約どのは都を去り、どういうめぐりあわせか、われが丞相になってしまった。

 この丞相は、文約どのに西方を鎮撫してもらいたいと願っているが、それはかなわぬであろうか」

 曹操は、会談の本質に斬り込んだ。

 馬超をともに討ち、むかしのように漢王朝の将軍として西方の守備にあたってくれないか、と頼んだ。

 「西方の空気にふれるとな、都の厳しい規律にはしばられたくなくなるものよ。

 安心せよ。もう馬超のような孺子とは結託せぬ。これは、われの過ちであった」

「さようか……今日は、会えてうれしかった」

 談笑している曹操と韓遂に、馬超は取り残された。

 相変わらず馬超を見つめている許褚に、馬超は興味をもった。

 「虎候のご姓名は……」

 と訊くと許褚は体軀にふさわしくない優しい声で、

 「許褚、字を仲康と申します」

 と礼儀正しく返答した。

 「そうか、仲康どのの八面六臂の働きは対岸で拝見していた。感心いたしたぞ」

 馬超は、慎み深い許褚に好感をもった。

 「ありがたきおことば……私も孟起どのの威風堂々、疾風怒濤の攻めには肝を冷やしました」

 ふだんの許褚は、けれんみのない好男子である。疑い深い馬超も、

 「われは、仲康どのに一万の軍勢を与えたならばいかような働きをされるのか、興味をもった。大軍を率いる気はないかね」

 と許褚を誘った。

 「私は丞相をお守りすることだけが、身の丈に合っております。願わくば孟起どのとふたたび戦場でお目にかかりたくないものです」

 「はは、仲康どののお立場ならばそうなろうな」

 「おそれいります」

 豪傑同士の会話は、爽やかな内容である。

 曹操の親衛隊長である許褚が、ふたたび馬超と戦場で出会うということは、曹操が馬超に負けて追いつめられることを意味する。

 韓遂と曹操が話を終えて帰陣してゆくので、馬超と許褚もそれに促されるように分かれた。

 韓遂が馬超に何も話さないので、営塁に還った後、

 「文約どのは、曹操と何を話したのか」

 とたまりかねた馬超は韓遂に訊いた。

 「実のある話はできなかった。ただの昔話だけよ」

 韓遂は馬超と目をあわすこともなく、陣営に帰っていった。

 さらに賈詡の謀略には、つづきがある。

 韓遂に、わざとところどころ改竄の跡が見られる書簡を送った。

 「韓遂の書状を、馬超はかならず見たがります。そのとき、馬超は改竄の跡を韓遂のしわざと疑うでしょう」

 賈詡はかつて、董卓や李傕に仕えたことがある。

 西方の兵がいかに強力であるかを知っているといえるであろう。

 南方の赤壁で孫権に敗れた曹操が、西方でも敗れるわけにはいかない。よって、念には念を入れ、馬超と韓遂の離間を謀った。

 さて、やはり馬超は曹操から韓遂に送られた書簡を知った。

 「その書簡を、われに見せてもらいたい」

 と使者を韓遂のもとに送った。

 (馬超は、これほど猜疑心の強い男だったか……)

 鼻白む思いをあらたにした韓遂は、その場で改竄だらけの書簡を馬超の使者に手渡した。

 内容は、政治や戦と関係ない昔話ばかりであった。

 「韓遂は、われを馬鹿にしている」

 馬超は、書簡を読むなり激怒した。

 右筆に書かせたにしてはあまりに字が下手で汚く、あちこち手直しをしているのを隠そうとしていない。

 「ところどころ、都合の悪い箇所は韓遂が墨で塗りつぶしてあるではないか」

 書簡を馬超から受け取った馬岱は首をかしげて、

 「はたして、このようなずさんなことを文約どのがされるでしょうか」

 といった。

 「どういうことだ」

 「曹操が、従兄上と文約どのの仲を裂く計略なのかもしれません」

 「なるほどな……」

 馬超は馬岱の進言にうなった。韓遂はいけすけない同盟者ではあるものの、かれが西に去ってしまえば、西方諸将の半数は韓遂について陣を払ってしまう。

 「そうだ。われら十人全員と曹操が会見できれば、われや曹操に会えなかった諸将も納得しよう。韓遂にとりはからってもらおう」

 馬超からの提案に、韓遂はさらに落胆した。

 (しょせんは戦に強いだけの、狭量の男か)

 あえて笑顔をみせた韓遂は、

 「曹操に取次いでやろう」

 といった。案の定曹操は、韓遂の提案を受諾した。

 馬超、韓遂、程銀、候選、李堪、成宜、馬玩、梁興、張横、楊秋と曹操ひとりの会見である。

 「風向きが、こちらにむいてきたな」

 曹操は会見に会心の笑みをみせた。

 「丞相に、危険がおよぶのではありませんか。せめて仲康(許褚)をお連れになられては」

 徐晃などは、曹操に直接不安を吐露した。

 「いや、考えてみよ。関中十部が広い西方の険峻に拠ってかれらを征伐するとなると、数年は要しよう。

 かれらは連合して大軍になったものの、たがいに狐疑しあって、それを馬超と韓遂がまとめることができていない。

 ならばこれを機会に一挙に殲滅できる。それをよろこんでいるのだよ」

 それでも徐晃と張郃は曹操の身を案じて、

 「せめて、互いを隔てる木の柵をつくらせてください」

 と懇願した。曹操はこれにうなずいた。

 会見の日が来た。

 馬超をはじめ十人の武将が、柵の前に馬をならべている。そこに曹操が一騎で悠々とやってきた。

 「ほんとうに、曹操が来たぞ」

 たがいに馬上で拝礼して、曹操が遠くを眺めると、関中の兵たちが曹操見たさに、ひしめいている。

 「諸君らは、それほど漢の丞相が見たいのか。この丞相とて、ただの人ぞ。四つの目がついているわけでも、二つの口があるわけではない。ただ、智慧が多いだけだ」

 曹操の気さくな声かけに、関中の兵たちは、どっと沸いた。

 もちろん曹操のうしろにも、自慢の鉄騎兵が五千騎整然と並んでいる。

 「いつまでも埒のないにらみ合いは、たがいに退屈であろう。決戦の日をきめようではないか」

 曹操の呼びかけに、西方諸将は口々に、

 「おう」

 「のぞむところよ」

 と応じた。しかし会見で、曹操の度量に圧倒された感はぬぐえない。

 決戦場は、華陰になった。

 「陣立ては、どうなさいますか」

 馬岱が馬超に訊くと、

 「韓遂は、いつわれを裏切るかわからぬ。

 先鋒は成宜と李堪、そのうしろにわれらと楊秋、韓遂を挟んで、残りの将を配置する」

 と答えた。

 「それでは……文約どの(韓遂)の、精強な兵が活かせぬのでは」

 「きやつが、曹操と通じているのはあきらかだ。逃げ場をなくして死んでもわれらの側で戦ってもらう」

 馬岱は唖然とした。疑心暗鬼の馬超は、曹操の策にはまっているのではあるまいか。

 (このような歪な陣では、曹操に勝てる見込みが立たない……)

 そう考えたのは、楊秋もおなじであった。

 みずからが全滅する前に、戦場を離脱する算段をはじめた。

 さて一大決戦にこぎつけた曹操陣営は、一枚岩の結束である。

 馬超軍は曹操軍より兵の数が多いので、包囲殲滅はできないものの、敵軍の先鋒および中軍にわざと負けて突出させ、退路を断つ策戦を全軍に浸透させている。

 わざと負ける、という至難の擬態をこなせるのは徐晃であろう。

 徐晃の後軍に潼関から出た曹仁を、左右に張郃と夏侯淵を配置した。

 (韓遂は、動かぬであろう)

 確信をもっている曹操は、目前の大軍を見据えている。

 馬超も、はやる気持ちを抑えきれず、前のめりになって馬上の人となっている。

 「曹操が、塁と柵から出てきたぞ」

 両軍が近づき、激突するとき、兵たちのうごきは急に早くなる。

 闘志が、戦場で火花を散らす。

 (騎馬戦で、われにかなう者はいまい)

 馬超の自信は、みせかけではない。この一戦で曹操の首をあげる意気込みは凄まじい。

 鼓がひびきわたり、馬超自慢の騎兵たちが突進をはじめた。

 「ははっ、この空気こそ戦場よ」

 馬超は矢の雨で戦場が昏くなり、その中で矛や刀がきらめく光を美しいと感じている。

 成宜と李堪は、馬超同様騎馬戦に長じており、曹操軍先鋒の徐晃をじりじりと押している。

 「押せや、押せ」

 馬超の督戦する声が、戦場にひびきわたる。

 徐晃の軍はこらえきれずとみて、あわてて後退をはじめた。

 「敵先鋒はくずれたぞ。進め」

 成宜と李堪の騎馬隊を主力とする軍は、優勢を得て突出していった。

 中軍の馬超と楊秋も、陣の隙間をうめるように進軍をはじめた。

 ところが、これは曹操の罠である。

 徐晃の軍が左右にわかれると、うしろから曹仁の軍があらわれた。陸兵で曹操軍最強の曹仁である。

 曹仁は周瑜に健闘ののち敗れた鬱積を払って、戦場に臨んでいる。江陵を棄てて逃げ帰った屈辱を忘れたことはない。

 成宜と李堪の軍が猛烈な勢いで曹仁の軍にぶつかってきたが、曹仁からすれば過酷な周瑜の攻めに比べればなんということもない、と感じた。

 鉄壁のような頑健さにさらされた成宜と李堪の軍は、突進を止めた。

 そこに馬超の率いる本隊がうしろから到着し、はげしく曹仁に挑んだので、やや曹仁の軍は動揺した。

 「やはり、馬超だけは別格だな……旗はまだか」

 曹仁の軍のほころびをみた曹操は、充分に敵の先鋒と中軍をひきつけたことを確認して、鵬の旗をあげた。

 「これで馬超の軍を分断して、包囲できるぞ」

 曹操は、会心の笑みをうかべた。

 「まだです。敵左翼が包囲陣に入っていません」

 「なんだと」

 曹操の計算に狂いが生じた。

 敵左翼、すなわち楊秋が馬超に連動して前進せず速度をゆるめて夏侯淵の軍と戦っているという。

 (やはり、そういうことか)

 楊秋は、徐晃軍がじわじわ退いてゆくさまを擬態とみた。

 この決戦に勝ち目がないとふんでいる楊秋からすれば、みずからの退路を確保しておく必要があり、馬超とともに進軍しなかったのである。

 結果として、楊秋の裏切りにちかい怠慢に、馬超は命を救われることになる。

 「よし、反転攻勢だ。馬超を生け捕るぞ」

 曹仁は曹操の旗を目視すると、軍をゆるやかに前進させはじめた。

 曹仁の右腕といえば牛金で、ここまで馬超軍の猛攻を耐えてきたが、劣勢をくつがえした。

 先鋒で曹仁軍と戦っていた成宜であったが、うしろから馬超軍の進軍に挟まれることになり、軍が圧縮し、制御を失ううちに混乱の中、討死した。

 もう一人の先鋒をつとめていた李堪は、退却しようとして前進する馬超軍ともみあっている。

 「なにをしている。われは死んでも退かぬぞ」

 馬超は督戦して、みずからも牛金の手勢を薙ぎ払っている。白兵戦が激化した。

 (それ見たことか……)

 韓遂は三万人ちかい後軍を率いているが、決戦に参戦していない。そのため韓遂を監視している残りの諸将も動けないでいる。

 「もうこらえきれぬ。退くぞ」

 馬超の左翼に位置している楊秋は、曹操の鉄騎兵に包囲されそうになったので、退却しはじめた。

 西方諸将軍の陣形がいびつに変化しはじめたのを、曹操は見逃さない。

 「全軍前進させよ」

 とはげしく鼓を叩き、旗をひるがえらせた。

 曹操軍の大攻勢を見るやいなや、韓遂がおもむろに撤退をはじめた。

 「韓遂が去ったぞ。われらも退却する」

 程銀や張横といった諸将も、われさきにと陣形をくずして退却してゆく。

 前軍に残された馬超と李堪の軍は、壊滅寸前である。退路が断たれた李堪が、曹仁軍との激戦に斃れた。

 「韓遂め。裏切る機会をうかがっていたな」

 馬超は悔しさのあまり馬の鞍を叩いたが、潰走する自軍を止めきれず、ついに退路をひらいて逃げた。退却路は、楊秋がいなくなっていた左翼からかろうじて確保することができたので、皮肉である。

 西方諸将軍の雪崩をうったような、大潰走がはじまった。

 曹操は曹仁を潼関の守備に残して、全軍による追撃に入った。

 「馬超に、伏兵をおくような余裕はない。ひたすら西へ追撃せよ」

 長安を過ぎても、馬超らの敗走は終わらない。おそらく馬超は本拠地の涼州、ひとまず安定郡に逃げ帰るつもりであろう。

 馬超に同調しなかった韓遂は、馬超とは別れて本拠地の金城郡に還った。

 (韓遂は、もはやわれに叛くまい)

 そう感じた曹操は、馬超について逃げた楊秋を味方にする策をとることにした。

 そこで安定郡に立て籠もっている楊秋の城を夏侯淵に囲ませた。

 「妙才(夏侯淵)よ。楊秋は馬超についたことを後悔している気配がある。

 なんじがねんごろに使者となり、降りやすくとりはからってやれ」

 曹操にそう命じられた夏侯淵は、

 「ほう、それは……なぜそうお感じになられましたか」

 と訊いた。

 「楊秋の戦い方よ。馬超の左翼として中軍を構成していたが、積極性は最後まで見られず、韓遂の退却とともに戦場を去った。かれの後悔を慰撫してやるがよい」

 百戦錬磨の将軍にして兵法の研究家である曹操からすれば、兵の進退で率いている将の心理を把握することができる。

 「そういうことでしたか。ならば、うけたまわりました」

 夏侯淵は得心して、みずから楊秋の城に使者として入った。

 夏侯淵と面会した楊秋は、いぶかしげな表情で、

 「城をこのように包囲されて、生きて降伏できるとは思えません。なぜ夏侯将軍みずからが、わが城中に来られたのか」

 と訊いた。夏侯淵の表情は、やわらかい。

 「私はあなたに、降伏を勧めに来たのではありません。

 あなたに安定の地一帯を鎮撫してもらい、その対価として爵位を与えたいと丞相は願っておられる」

 楊秋は、驚いた。

 「爵位……私は丞相に叛いたのですぞ」

 「やむをえぬ叛逆というものもあろう、と丞相はいっておられた。

 華陰の戦いで、あなたの迷いを見てとられた。この私も丞相の厚意に納得してあなたのもとに来たのです。

 もう王道にもどっても、よろしい時機ではありませんか。ご不安ならば私が人質としてこの城に残りましょう」

 夏侯淵のやさしさにふれた楊秋は、

 (馬超の狭量と、曹操の度量の広さには天地の違いがある)

 と感じた。

 「そこまで私のことを慮ってくださるのであれば、開城し爵位をつつしんでお受けいたします」

 と容儀をただして頭をさげた。

 夏侯淵は城中にのこり、張郃にともなわれて曹操の本営に至った楊秋に、

 「やあ、これでわれは人と民を活かすことができた。安定の地も万全よ」

 とふくよかな声をかけた。

 楊秋は亡くなるまで、安定の地の治安につとめたため、討寇将軍に任じられ、位は特進となり臨涇候に封ぜられた。候選も楊秋に従い、夏侯淵に降った。

 「いらぬ戦をせず、よく楊秋を改心させた」

 さらに曹操は諸将の前で、夏侯淵と張郃に褒詞を授けた。

 このふたりは西方にまだ健在の馬超、漢中の張魯、益州の劉璋らの抑えになる要であると、皆に周知させたのである。

 馬超の父の馬騰、兄弟の馬休、馬鉄は、馬超の罪に連座して刑死した。

 「曹操め……この恨みはかならず晴らしてやるぞ」

 馬超は涼州で歯噛みして曹操を罵ったが、親兄弟が王朝に仕えているにもかかわらず、叛乱を起こしたじぶんにも責を負わせるべきであろう。

 馬岱と一族の遠縁である馬玩を連れて、各地を転戦してゆく馬超は、このあと長い冬の時代を迎えることになる。

 梁興は翌年、夏侯淵の討伐を受けて戦死、程銀と張横は建安二十年(二一五)張魯が曹操に降るのと時を同じくして曹操に降伏し、もとの爵位を授けられた。

 敗れたとはいえ、隠然たる勢力を西涼にもつ馬超に対して、曹操は夏侯淵を長安に駐屯させて行護軍将軍に任命し、徐晃と張郃を副将とした。

 一方で曹操がみずから軍を率いて関中十部を撃破し、涼州まで進撃したことに衝撃を受けた人物がいる。

 のちに劉備と縁が深くなる、益州刺史である劉璋であった。


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