龐統
七
龐統が劉備のために孫権にしたためた書簡の内容は、こうである。
「車騎将軍と益州を討つことはやぶさかではありませんが、いま私は荊州四郡を統治しはじめたばかりで、とてもともに起って動くことがかないません。
どうか車騎将軍におかれましては、時機を見定め、天の時を待ち、益州討伐を図られるよう進言いたします」
劉備がいまの兵力で、益州を討つことはできない。だが孫権も、劉備が領有する荊州南部を横断して益州にむかうこともできない。
まさに、孫権のほしい答えとはこれであった。
「こうきたか……なあ子敬(魯粛)よ、士元(龐統)はうまくやってくれたと思わぬか」
孫権は劉備からの使者を迎えて書簡を読むと、それを魯粛にも手渡した。
「われらの立場と劉備の現状を、率直にのべています。これであとは奮威将軍をどう説得するかですが……」
孫瑜は単独でも益州を攻め取る気魄で、軍を編成している。
南郡は程普が周瑜に代わって統治しているが、孫瑜を上将軍として益州に向かわせるには役不足はいなめない。
「車騎将軍も劉備もこぞって腰抜けよ。
われの兵だけで荊州を横断し、益州を攻め取ってやる」
孫瑜も、孫堅や孫策の激越な気性を受け継いでいる。
孫権の制止もきかず、周瑜の死以来待機させていた大船団を出発させた。
夏口に到着し劉備に、
「益州討伐へむかう。左将軍におかれては、わが軍をさまたげないでもらおう」
と高圧的な書簡を送った。
劉備も、だまってはいない。
「なんじが蜀を侵略するならば、われは髪をふりみだして山に入り、天下の信を問うであろう」
と荊州の通過を認めない旨を返答した。
はげしさを内にともした劉備は、武陵から関羽を召した。
ひとしきり事情を説明された関羽は、
「許で曹操と過ごしていたころ、主は曹操と二人で狩りをなさいました。あのとき、私は主に曹操を殺すのはいまだ、と申し上げたではありませんか。しかし、主はその言に従われなかった。もしあのとき私の言に従っておられれば、今日の禍はなかったのですぞ」
とめずらしく愚痴をこぼした。
「あのときは、国家のために曹操を惜しんだのだ。もしも天が正義をわれにすすめるのならば、なぜこの労苦がのちの福となるとわかってくれぬのか」
劉備は、関羽を諭した。関羽は熅然とした。
関羽の愚痴の裏には、
(最近の主は孔明の言のみをとりあげて、われや益徳の言をとりあげようとしない)
という妬心がある。
長阪でぶざまに敗走したときも、関羽は水軍で別行動をとっていたが、
「孔明などなすすべなく逃げ回っただけで、戦ったのはなんじと子龍(趙雲)だけではないか」
と張飛に不満をぶちまけたこともある。
(とはいえ……)
諸葛亮の玄謀によって、荊州四郡を領有し、武陵をまかされた関羽は、諸葛亮を見直しているのも事実である。
劉備は、関羽に主命をくだした。
「呉軍の孫瑜が、水軍を率いて夏口まで下っている。なんじは兵を率いて江水の北岸にわたり、呉兵を蹴散らして水軍を通さないようにせよ」
いいかたはまわりくどいが、南郡を占領せよ、という意味である。
「おう」
関羽の両目に、気魄がともった。ようやくおのが武力を示威することができると、うでをさすった。
「では、江陵はいかがいたしましょうか」
「ふむ……」
江陵は周瑜の死後、程普が守備している。
あなどりがたい敵とはいえまい。
「兵を使ってよい。立ち退いてもらおう」
孫権を刺激しないように、江陵を奪取せよ、という命令である。
「うけたまわった」
だれよりも軍を手足のごとく指揮できる自負がある関羽は、即答した。
孫瑜に荊州を通過させぬといった時点で、それは呉への宣戦と同意義である。周瑜のいない呉軍で関羽に太刀打ちできる将はいないであろう。
今の劉備は、関羽に数千の兵をあずけることができる。兵や兵糧も、三郡を統括する諸葛亮が滞りなく関羽に調達するはずである。
「では、さっそく参ります」
勇敢さをみなぎらせて、出てゆこうする関羽に、
「雲長よ……」
と劉備は声をかけた。
「なにか……」
「いや、期待している。おおいにあばれてくれ」
「ははっ」
関羽はみごとな鬚をゆらして大笑し、退出していった。
これが、劉備と関羽の今生の別れであった。
そのことをのちの歴史を識るものは感傷をもつかもしれないが、いまの劉備と関羽は充実感のさなかにあり、前進するのみであった。
劉備はさらに、江水北岸で関羽を孤立させないために張飛を呼んだ。
「柹帰へ行き、呉軍を蹴散らし、一兵たりとも通してはならぬ」
「おう、それでなければならぬ」
柹帰は江水のほとりであるが、益州との境に近い。
張飛は義兄と敬う関羽が公安を出発し、呉軍と戦うことを知っているので、扼腕して劉備の命を受けた。
張飛は劉備と関羽にくらべると三十八歳と若く、将として円熟をましてきている年齢といえる。
黄巾の乱から劉備と関羽に従い、苦難の道を歩いてきた。かの長阪での大敗のときも、敗走する劉備軍の後拒をたった十数騎でおこない、橋の上で、
「われは燕人張益徳なり。死にたいものだけがかかってくるがよい」
と見得を張り、追撃する曹操軍はだれも張飛に挑む者はいなかった。
この逆境での勇気が、張飛の驍名を世間に知らしめたのである。
(これまでの苦境が、われをおおきくした)
張飛は柄にもなく過去をふりかえり、大きく息を吸った。
「これで、準備は整ったな……」
公安に劉備、江陵に関羽、柹帰に張飛と、万全の態勢で孫瑜を迎え撃つことができた劉備は、かつてない自信のなかにあった。
夏口に駐屯している孫瑜は、あからさまに劉備が反撃の姿勢を見せてきたことに、内心戸惑った。しかしそこは、孫堅の弟である。
「まずは、劉備の公安を攻め潰してくれようぞ」
と闘志を新たにした。一騎当千と評される関羽と張飛よりは、逃げ回ってばかりの劉備を相手にした方がくみやすし、と見た。
巴丘に停泊し、いよいよ劉備との交戦に入ろうかとしたとき、関羽が南郡に侵攻したとの急報がもたらされた。
「劉備め、狡猾な手をつかいおって……」
孫瑜を通さぬ、としかいわなかった劉備が、呉の占領地である南郡に先手をとって侵略したのである。
報告の書簡を地に叩きつけた孫瑜に、追い打ちをかけるようにとどいた書簡は、なんと孫権からの召還命令である。
「いったい、われのあずかり知らぬところで、なにがおこっておるのだ」
孫瑜は混乱し、頭をかかえた。
孫権のもとに劉備からの使者が来て、書簡をさしだしたのである。
「私と劉璋はともに漢の皇室に連枝するものであり、先帝の英霊をたのみにして、漢王朝を支えようとしてまいりました。
今劉璋は車騎将軍の討伐を受けるにおよび、恐懼しており、私もかれに同情するばかりです。
ことばを尽くすことはできませんが、どうか劉璋の罪をお許しになり、寛容をお示しくださいますようお願い申し上げます。
おききとりくださらない場合は、私は冠をなげうち、髪を振り乱して山林に隠居する所存です」
孫権と魯粛は、劉備からの書簡を読んで、顔をみあわせた。
「劉備は、外交が巧くなったな」
「はい。これで奮威将軍(孫瑜)を召還する言い訳ができます」
周瑜をしまつしたのに、孫瑜が独断で劉備と戦闘をはじめれば、呉は国力を培養する時間を失い、曹操につけこまれることになる。
孫瑜は、呉都に帰還した。
周瑜より二歳年少の孫瑜は、おのれの才を誇らない美質があり、古典をはじめとする教養に長けている。
憤然とした内心を面に出すことなく、
「なぜ、ここにきて帰還命令をお出しになったのか」
と孫権に詰め寄ることもしなかった。
しかし孫権は、劉備に疑念をもっている。
劉備が今回のどさくさに乗じて、南郡に兵馬を侵入させたからである。孫権は益州討伐をやめるとは龐統をつうじて内密に通告していたが、南郡を劉備に貸与するとはいっていない。
「劉備にしてやられましたかな……」
魯粛が眉をひそめて、孫権にいった。
「今、われと劉備は婚姻をむすび、同盟を強化したところだ。たがいに兵を戦わせることはできぬ。北に曹操という巨人がいることを忘れてはなるまい」
やがて、荊州総督の程普から急報が届いた。
江陵を、関羽が占拠したという。
程普は江夏郡に撤退し、周瑜配下だった四千人の兵は関羽に殺されたり、捕虜にされたりすることはなかったものの、呉都にむかって引き上げている途上だという。
「劉備は盗人のごとき所業をする」
ここにきて孫権は、周瑜が劉備を嫌っていた一因にふれたような気がした。
孫権が南郡と江夏郡のどちらかをすみやかに本拠に定めなかったことで、程普は兵力を集中させることができず、そこを関羽がつけこんだのである。
「子敬、行ってくれるか」
「はい、荊州の混乱を収拾してまいります」
孫権と魯粛には阿吽の呼吸があり、魯粛をただちに陸口に向かわせることにした。
陸口は水軍で夏口から巴丘にむかう途上にある軍事基地である。そこで魯粛は、周瑜の配下四千人の兵をじぶんの配下に吸収した。
孫権は、周瑜の領地四県も魯粛に与えた。周瑜の子が幼すぎるので、経営をまかせるわけにはいかなかったからだ。
これで、魯粛は名実ともに周瑜の後継者であることを認められたといっていい。
(しかし、劉備には失望した……)
魯粛の本音である。
劉璋とともに漢皇室の連枝と自称し、勤皇思想をひけらかしながら、漢王朝のためになにもせず、周瑜の死のどさくさで孫権の領地を掠め取る行為は、どうであろう。
ところで、陸口にむかう途上に尋陽という県があり、その県令は呂蒙に交代していた。
「子明(呂蒙)の治める県か」
そのまま通過しようとした魯粛であったが、周瑜と程普のそばにいた呂蒙から、多少の情報が得られると思い直し、面会を求めた。
「子敬がここにくるのか。それはもてなさなければなるまいな」
呂蒙は、魯粛を歓迎する宴会を催すことにした。
(酒など呑んでいる場合ではないのだがな……)
とはいえ周瑜の後継者として、軍事の有力指揮官である呂蒙に会おうと立ち寄ったのは魯粛自身である。
(しょせん、子明はこの程度の男よな)
退屈を面に出さず、呂蒙の歓待を受けていた魯粛に、呂蒙は意外なことを問いかけた。
「君は重任を受けて、関羽と境を接することになったわけだが……どのような計略をもって関羽との不慮の事態に備えるつもりかな」
魯粛は不意を衝かれたおもいがして、
「そ、そうよな……時機に応じて適宜策を講じるつもりではあるが……」
と呂蒙の鋭い指摘には、答えることができなかった。
「そうか。孫氏と劉氏は婚姻をむすび、ひとつの家となっているが、関羽は違う。
あれは、熊虎のごとき将よ。かれに対する具体策を講じないでどうする」
魯粛は、いっぺんに酔いが覚めたおもいがした。
(あの子明が、この子明か……)
「そこで、子敬に策を献じたい。劉備の荊州を掠め取った計略を考案したのは、すべて諸葛亮の嚢中から出ている。
ところが、関羽は諸葛亮のことをよくおもっていない。かれらの連携を断ち、関羽を孤立させることさ。
関羽は諸葛亮のような、込み入った策は好まない。そこに子敬がつけいる隙があるのではないのかな」
魯粛は、思わず立ち上がった。
「われは、なんじのことを今日までただの武人とおもってきた。
それがどうだ。いまのなんじは博学で視野はわれよりもひろい。もう呉下の阿蒙ではない」
呉下の阿蒙、とは呉の蒙ちゃん、という意味である。阿とは、親しい人につける接頭語になる。
呂蒙は、微笑んでいった。
「男子たるもの三日会わなければ、どのように変わっているか刮目しなければならない」
「呉下の阿蒙、男子三日会わざれば、刮目して相待つべし」という故事である。
「関羽は武勇一辺倒の人物ではなく、長じてから春秋左氏伝を暗唱し、学問を好むようになった。
独善の人ではなく、その英気は溌剌としており、あなどりがたい人物です。
ただし、自負心があまりに高く、人をあなどる癖がある。策は多くもっておいたほうがよろしい」
魯粛は、感動した。
(あの子明から、われが策をさずかろうとは……)
劉備が諸葛亮を得て大きく変わったように、呂蒙も人知れず軍事のかたわらで学問を重ね、儒者に匹敵する知識を身につけたのである。
(そうだ、人は変わる。これまでの偏見は棄てなければならぬ)
そう自覚した魯粛はおもむろに呂蒙の手をとって、
「子明よ、これからなんじの母上に会わせてはくれまいか」
といった。家族付き合いをして、盟友になりたいという意味である。
「おお、なぜ拒もうか」
よろこんだ呂蒙は、その足で母親のもとに魯粛を連れて行き、友情を深めた。
のちに孫権は、
「人は年齢を重ねてからも、みずからの能力を高めなくてはならない。
その点に関しては、呂蒙と蔣欽に及ぶ者はいない。
富貴を保ち、栄誉を賞される身分となろうとも、学問を好み、その所行が人々の規範となるのは喜ばしいことだ」
と呂蒙と蔣欽を激賞している。蔣欽も、孫権のすすめに応じて学問にはげみ、武辺一辺倒の将から文武両道の将へと成長をとげた。
ともあれ魯粛は陸口に到着し、江陵から関羽に追い出された四千の兵を配下におさめ、兵の総数は一万人を超えた。
軍事をおこなわず行政に巧みさを発揮した魯粛は、漢昌太守となり、周瑜の後を襲って偏将軍に任じられることになる。
一方の関羽は、やすやすと江陵を占拠し、郡内を平定していった。
関羽の思想というものは、諸葛亮と乖離している。漢の皇帝を扶けて王朝を復興させようという大義を劉備に掲げさせた諸葛亮に対し、関羽は世を乱れさせた漢の皇帝にこそ非があるとかんがえている。いわゆる勤皇思想と対極にあるといっていい。
関羽の愛読する「春秋左氏伝」は、勤皇思想をおしつけず、歴史を編年体で記した奥ゆきの深い書物である。そこにある正義と悪は、読者の判断に任され、きっと関羽も中華や人民にとってなにが善で、なにが悪かを黙考しつづけたことだろう。
黄巾の乱における義勇兵のころから劉備に付き従ってきた関羽だが、
(劉備には、ほんとうの正義を実行する思想をもたない)
と断定するようになった。
なぜなら劉備は諸葛亮の入れ知恵で、腐敗し枯死寸前の漢王朝を復興させるという方針をとるようになったからである。
(いずれは劉備から独立して、みずからの国を建て、ほんとうの正義を実行してやる……)
関羽ははじめて自由に大兵を駆使できるようになり、その決意をかためた。
独善の思想をもたない関羽ではあるが、劉備を含め、ほとんどの人間が中華の人民のために正義を実行しない偽善者であるとみえる。
呂蒙が関羽は人をあなどる癖があると魯粛に助言したが、その理由はかれが正義をもとめて誰にも与せず戦おうとしているところにあるであろう。
南郡に侵攻した関羽は、たちまちその地を占拠した。もはや呉軍には、関羽の猛威に対抗できる武将はいない。
周瑜に仕えていた官吏も、関羽に従った。
荊州の吏民はいまだ劉表統治時代を懐かしんでいるので、呉の孫権に仕えるよりは、劉表の賓客であった劉備に仕えたい、とおもったのであろう。
さて、劉備に仕えることになった龐統である。
龐統には、忠誠心というものがこれまでない。諸葛亮のように、劉備を帝王におしあげたいという他人のために能力を尽くす、という志望を龐統はもっていない。
あえていえば、龐統は抜群の能力をもつが、それを自己顕示欲のためにつかう男である。
龐統も人物鑑定にすぐれていて、劉備の未来を予感して仕えたものの、劉備も独自の人物鑑定眼をもっている。
(士元は、なにを考えているかわからぬ)
劉備は主を次々に変えてきた龐統を、いきなり重用しようとしなかった。
「耒陽の県令をやらせてみるか……」
耒陽は荊州の最南端の桂陽郡に属する小さな県で、そこで龐統の事務能力を試してみようとおもったのである。
(なんだ、劉備もその程度の男か)
傲慢な龐統は、ふてくされて耒陽に赴任したものの、毎日何もせず、酒をのんで寝てばかりいた。
耒陽で何の治績もあげぬどころか、飲んだくれて事務を放棄している龐統に、劉備は熅度の表情で、
「士元を罷免する。南郡に帰還せよ」
と命じた。
南郡に召された龐統は、またも自宅で酒をのみ、何もしなかった。
龐統の行状には、親友の諸葛亮でさえなにも劉備に助言していない。誠実を旨とする諸葛亮としては、龐統がささいな事務をなおざりにする態度を、嫌悪したのであろう。
ところが、龐統の罷免を劉備に抗議した人物がいた。
呉の魯粛である。
龐統は呉に知り合いが多いので、魯粛にも現状を憂う書簡を送ったのであろうか。とにかく、龐統の実力を知る魯粛は、劉備に書簡をおくってたしなめた。
「龐士元は、たった百里の才能ではありません。治中もしくは別駕の職に就かせてこそ、驥足をのばすことができる大才です」
百里の才、とは県令を指す。魯粛は険悪な劉備との関係を度外視してでも、龐統の才能を惜しんだとも取れるが、実際は周瑜の件を龐統が劉備に密告することを恐れたのである。
魯粛はそれだけにとどまらず、諸葛亮にも龐統を劉備にとりなす書簡をおくった。
やがて諸葛亮からも、
「いちど士元と会って、お話していただけませんか」
と劉備に依頼があった。
(魯粛のみならず孔明までがいうのならば……)
熟考した劉備は、公安に龐統を召して面会することにした。
実際に対面してみると、劉備と龐統は意気投合したのだからふしぎである。
贅言を弄さず、将来の展望を持説として披見した龐統に劉備は、
(たしかに、龐統の才は県令にとどまらぬ……中央政府で仕事をさせてみたい)
と感じた。
「鳳雛はとっくに雛から成鳥していたようだ。治中として公安で勤めてみぬか」
劉備にそう打診された龐統は、
(さすがは梟雄として知られた劉備、それでこそよ)
と満足をおぼえた。龐統にとっては、劉備の近くに関羽と張飛、諸葛亮という三人がおないのが好都合である。
(劉備を善導して、益州をとらせてやろうではないか)
と扼腕した。
龐統が任命された治中という職は、政権中枢で大きな役割を任されており、周瑜が龐統に与えていた功曹とは差がある。
公安の政府が発行する文書は、原案をすべて龐統が作成した。
(さすがは孔明とならび称される逸材……士元はさすがだ)
劉備も、龐統の才能に満足した。
日々龐統と接するうちに、劉備は龐統を信用するようになり、かつて諸葛亮がいっていたことを龐統にさりげなく訊いてみた。
「周瑜が生前、われが呉に婚姻で出かけていたとき、呉にとどめて軟禁してしまえと孫権に献策したという。
なんじは周瑜のそばにいたゆえ、それがほんとうかどうかしっているかな」
「それは、まことです」
龐統は、即答した。
周瑜に仕えていた恩は過去のものであり、今の主は劉備である。龐統に湿り気のある忠誠心はない。
劉備は、ため息をついた。
「そうか……われはあのとき孫権から婚姻をもちかけられ、是が非でも呉に行かねばならなかった。
それにしても知謀の主というのは、おなじことを考えるとみえる。孔明も孫権には陰謀があるといって、つよく呉にいくのをやめるようにすすめていた。
われは知らぬうちに危ない橋をわたっていたわけだ。そう考えればあれは万全の策ではなかった」
龐統は笑って、
「主がもしそのような危難に遭うようなことが今後起これば、私が全力で阻止してみせます。過去のことはわすれてください」
といった。孔明なら止められなかった危険でも、じぶんなら阻止できると誇示したのである。
謙譲の美徳がある諸葛亮に対して、歯に衣着せぬものいいをする龐統を、劉備は軍師として新鮮に感じた。
やがて龐統を、軍師中郎将に昇格させた。
治中の後任は、藩濬、字を承明という人物を抜擢した。
武陵郡漢寿県出身の藩濬は、能吏として抜群であり、劉備は賢臣を発掘したといえるだろう。
藩濬は清潔な吏員であり、劉表に仕えてわずかな悪も見逃さなかった。湘郷県の県令としてその治績は有名であったので、劉備は龐統の後任で治中として中央に招聘したということである。
建安十五年(二一〇)が暮れ、十六年となった。
荊州における呉との境界線では、小さないさかいがたえずおこっていたが、魯粛がすべて調停して解決した。
(ここで劉備と戦になって、利を得るのは曹操だ。呉と劉備はたがいに協力して国力を養うことこそが大計よ……)
魯粛は現実主義者で、劉備に恩を売ることが呉にとって長期的な利益になると考えている。劉備は、あいかわらず人の恩に報いるという儒教的観念からは無縁であった。
ここで、のちに劉備と縁を深くする馬超という豪族のうごきに、目を転じたい。