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亡蜀記  作者: コルシカ
5/22

放たれた虎


        五


劉巴は、劉備に降った四郡のなかでも曹操にうしろめたさをもっている勢力を糾合し、零陵郡、ひいては残り三郡を奪還しようともくろんでいる。

(諸葛亮などという若僧に、してやられてたまるか)

もはや、意地である。

ところが泉陵の城門をくぐったところで、烝陽県の県令の使いがさりげなく近づいてきた。

「おや、どうなさった」

「どうか、お声を低く……」

蒼白な表情の使いは、建物の陰に劉巴とともに身を隠した。

「臨烝の諸葛亮が、あなたをさがしています。騎兵数十をもって探索し、手配書も各県に配られています」

「なんだと」

劉巴は、絶句した。じぶんの嚢中よりも諸葛亮は先回りしているということか。

あわてて泉陵から出て、従者と野宿しているところを、十騎ほどの騎馬が走り抜けて行ったこともあった。

それほど、諸葛亮の捜索は執拗で徹底していた。

劉巴主従は、ついに零陵郡を駆逐され、南下し、交州に逃げ込んだ。

ここにいたって、ようやく諸葛亮の探索の影はみえなくなった。

「ここまでか……」

劉巴に零陵郡へふたたびもどって、反劉備勢力を糾合する気力は失せていた。

「この書簡を諸葛亮にわたしてくれるか」

従者に臨烝へむかわせ、諸葛亮への書簡をわたすように依頼した。

「なんども危険にさらされ、多くの難所も越えてきました。そうして義に篤い同志と会ってきましたが、天意に沿わない場合、じぶんが思うように物事をうごかせないと知りました。

これから私の命運が窮まれば、ふたたび荊州のことを顧みることはありません」

劉巴の、敗北宣言である。

しかし、その書簡を受け取った諸葛亮は、侮蔑の色をみせずに返書をしたためた。

「劉備の英才は蓋世のもので、荊州を統治するにふさわしいものです。ここでは、その徳に従わないものはおりません。

天意と人の去就について、あなたはよくご存じのはずです。劉備のもとでお力を尽くしてくださいませんか」

劉巴は返書を受け取ると、怒りを目にともしたが、すぐに諸葛亮のいうとおりだと怒気をおさめた。

(今や、われの思いがつうじるのは諸葛亮だけか……)

かといって、劉備に降るのをよしとしない劉巴は、曹操のもとにも還ることができないじぶんを恨んだ。

交趾郡の士爕のもとを訪ねたが、赤壁の戦いで敗れた曹操をせせら嗤うだけで、厄介払いされた。

(曹操にも劉備にも属さない勢力といえば……)

益州しかない、と劉巴は顔をあげた。交趾郡から益州の犍威郡を通過して、州府がある成都にむかった。

益州の太守は、劉璋である。

名君である、とは誰からも聞かないが、益州の豊かな自然と険阻な要害のような地形を毎日ながめているうちに、

(劉璋ごときでも、天府の地といわれている益州をかたく守れば、なんとかなるのではないか)

という発想を劉巴はもつようになった。

劉巴は成都に着くまえに犍威郡の太守に捕らえられた。

得体の知れぬ、二人組である。氏名と出身を述べたが、まさか曹操からの使いであったとはいえず、益州に来た目的をにごしていたので、

「どこぞの密偵かもしれぬ。斬れ」

と犍威郡の太守が命じた。

「おまちください」

太守の主簿は、劉巴の容貌が並外れてすぐれてみえたので、

「この人は尋常の人ではありません。成都に送還した方がいいと存じます」

といった。はたして劉巴主従は、成都に送還されることになった。

「烝陽の劉巴……もしや」

成都の主である劉璋は、さっそく劉巴と接見した。

「なんじの父上は、江夏太守だった劉祥ではないのか」

「はい……そうです。父は孫堅を支援したために南陽の民に殺害されました」

いぶかしげに劉璋を見た劉巴に、

「やはりそうか。父上の名はわが父(劉焉)から聞いたことがあるぞ。

わが父もなんじの父上も勤皇の士であった。

よくぞはるばる益州まできてくれた。なんじは天子の密使ではないであろうな」

と劉璋は、あたたかく声をかけてくれた。

「数ヶ月前までは、曹操の掾でした。

劉備が横領する荊州を鎮撫する役目を与えられたのですが、完遂できず、交州で使命をあきらめました。

余命は、益州ですごすことができれば幸いです」

劉璋は、気の毒そうに劉巴を見やった。

「それは思いもかけぬ困難に遭われたな。

これからは安心して、われに仕えてくだされよ」

劉巴の運命の変転は、これで終わらなかった。やがて益州の主になった劉備が劉巴を探し出し、尚書令という高位に抜擢したのである。その推薦は諸葛亮がおこなったことは、いうまでもない。

好敵手こそ、たがいの能力を識るということなのであろう。

劉備は、荊州南部を平定した。

周瑜には呉のためといったが、自己の所領を得るためであることは自明の理である。

たった二千の兵で、時を誤らなければ広大な領地を得ることができる。

むろん、その時を明確に報せてくれたのは諸葛亮である。その戦略戦術は、まさに奇術とでも形容するものであった。

諸葛亮は荊州四郡に適切な賦税を課したので、劉備が武陵郡にもどった頃には、兵力が万を超えていた。諸葛亮は。まるで漢の高祖劉邦の右腕だった蕭何とおなじである。

蕭何は中原で項羽と戦い続けた劉邦に、兵糧を送りつづけた。

諸葛亮への信頼をさらに深めた劉備は、生まれて初めて大規模な行政力を発揮することができた。

関羽、張飛、趙雲、諸葛亮らを適材適所に配置し、その能力を活用できるようになった。

また廖立や黄忠など武と文にすぐれた人材を発掘できるようになったのもこの頃からである。

しかし、その人事に不満をもつ者が一人だけいた。

関羽である。

「主の任命なさる太守や吏員は、すべて孔明軍師がきめたものではないか」

そういって、みごとな鬚を撫でた。

関羽はみずからが天下第一の武将であろうとこころがけ、春秋左氏伝を愛読するように、正義を遂行しようと考えている。

「孔明軍師にいいつけられてたまるか」

自尊心のかたまりである関羽は、不機嫌であった。

諸葛亮も関羽の感情の機微を、むろん知っている。劉備に献言して、関羽だけは劉備の直轄として諸葛亮の監督下におかないようにした。

このことが蹉跌を生むことになるのだが、それはのちの話である。

「四郡を呉に返還すべきかどうか」

劉備は、関羽ら重臣をあつめて討議した。

諸葛亮の意見は腹蔵してある。それでも、古くからの重臣に意見をもとめるところが劉備らしい。

「この四郡はわれらの血と汗で得たものです。周瑜に返すくらいならば、初めから戦った方がよい」

自信家の関羽は、立ち上がって主張した。

「われも、そうおもっている」

劉備の答えを聞くと、関羽と張飛は、

「周瑜の鼻をへし折ってやろうぞ」

とおおいによろこんだ。

孫乾が不審に思い、同僚の簡雍に訊いた。

「主は本当に周瑜と戦うのかな。わが兵力は周瑜の半分に満たぬ。孔明軍師もここにはいない。軽率な策ではないか」

すると簡雍は飄々とした口調で、

「周瑜は主と戦いたくても、目前に曹仁がいる。孫権も曹操が合肥まで進出しているので、主の機嫌を損じたくない。

要するに主は堂々とかまえているだけで、周瑜や孫権と戦わずにすむわけさ」

といった。

「なるほど……」

孫乾は簡雍の意見に感心した。

しかしよく考えてみれば、簡雍はいつも劉備の話相手になっており、諸葛亮の策も聞かされていることだろう。

この局面では、劉備はあくまで諸葛亮の決定ではなく、関羽と張飛の決定にしたかったというのが実情なのである。

劉備がこのように大きな土地と家臣を得たのは、生涯ではじめてのことである。

以前徐州の太守をしていたときは、病死する前の陶謙に譲られ、家臣はあくまで仮の者たちであった。

今のように天の時、地と人の利を得て、確固とした領土をもったことに、劉備は手ごたえを感じている。

まずは、四郡を統括する府をどこに置くかである。

劉備は武陵郡と南郡の境、江水の南岸がそれにふさわしいとかんがえた。油江口という土地である。

「この邑が、あたらしい荊州四郡の郡府だ。

名を公安と名付けよう」

公安は、一万をこえる兵たちが塁塹をつくったため、県に匹敵する城府となった。

その頃、江陵に対陣中の周瑜は、焦躁のさなかにあった。

(劉備は南部四郡を平定したときく……なぜ自身で報告に来ないのか)

あいかわらず、この一年間で周瑜は江陵で曹仁と対峙していただけである。

対戦中に周瑜自身が矢傷を負い、ふせっていた時期もあった。それでもようやく大軍で攻めた甲斐あって、曹仁を江陵から駆逐するための総攻撃ができる態勢が整った。

劉備が広大な荊州四郡を手に入れたのとくらべると、著しく精彩を欠いた軍事であるといっていい。

「すでに油江口に劉備は到着しているはずだ。われはまもなく江陵を陥落させる。

はやく兵をよこすように伝えよ」

いらいらと本営を歩き回りながら、周瑜は属官に命じた。赤壁の戦いで堂々としていた周瑜とくらべると見る影もなくやつれている。

やがて、劉備から孫乾が使者として派遣されてきた。

「わが軍の兵は、ようやく四郡の慰撫を終えたばかりで、疲弊しており、派兵できません」

孫乾は口調こそ丁寧で物腰もやわらかいが、周瑜の命をきっぱりと断った。

「……なぜ劉豫州ご自身が、こちらに来られぬ」

周瑜は湧き上がる憤怒の感情をおさえるようにいった。ここで劉備との関係をこじらせるわけにはいかない。

「劉備はさきほどももうしあげましたとおり、四郡の慰撫で多忙です。よって、私が派遣されたということです。それでは」

孫乾は恐縮する色さえみせず、そそくさと退出した。

周瑜の本営に、冷えた空気がただよった。

「劉備は、呉軍のために荊州四郡の鎮撫をしてきた。違うか」

程普や呂蒙も、うつむいて無言である。

「われは、劉備に騙されたということか……荊州四郡を劉備に横領されたのではあるまいな」

(思ったとおりだ)

周囲を驚かすほどの大声で怒った周瑜を尻目に、呂蒙は唇を噛んだ。

(われらの陸戦のまずさを、劉備につけこまれた)

では、荊州四郡を周瑜が戦で取り戻すことができるのか。

(できまいな……)

呂蒙は、じっとおのれの履先をみつめていた。

しかし目前の江陵城は、陥落目前であった。

故郷に還りたい呉兵たちの戦意は決して高いものではなかったが、救援を放棄され独力で戦ってきた曹仁が、江陵城から撤退したのである。

(ようやく落したか)

周瑜は数騎で逃げ去った曹仁を捕斬できなかったものの、なんとか勝ちの形でこの戦を終えられたことに安堵した。

孫権が豊富な武器と兵糧を周瑜に送ってくれたのに対し、曹仁はそれがなかったので、武器兵糧が枯渇し、撤退したのが現実である。

(それにしても、劉備よ……)

多大な軍資と軍勢をつかって、ようやく得たのは江陵ひとつである。

それに対して、劉備はたった二千の兵と謀略を駆使して荊州四郡を手中におさめたのだ。

腹立たしさがおさまらぬ周瑜だが、江陵の占領政策を実施しなければならない。

曹仁が悪政を行っていたのであれば、それを取り除くだけで住民の支持をうけるのであるが、曹仁は善政を行っていた。

ゆえに呉軍に占領された江陵の民は、息を殺して周瑜の行政を見守っている。

しかし、事態はそれだけでおさまらなかった。

「官民が、江陵を出て南岸に移っているとは本当か」

周瑜は、驚いた。

南岸といえば、劉備があらたに造った公安という城府である。あいかわらず荊州の人民に、劉備は人気が高い。

「もはや公安の人口は七万を超えているとのことです」

「なんだと……なんじは見間違えたのではないか。わずかの間にそのように人口が増えるか」

偵探に、周瑜は青ざめて訊きかえした。

「それが本当です……廬江の雷緒らが数万人を率いて劉備に従属したのです」

雷緒は荊州の賊であったが、合肥まですすんだ曹操が梅成や陳蘭といった賊を于禁、張遼らに討伐させたため、逃げ場を失い、劉備に保護をもとめたのである。

「劉備軍はすでに三万はいるのではないか、という換算になります」

「なんということだ……」

周瑜は曹仁と対峙しているあいだに、劉備を荊州南部四郡の鎮撫に赴かせたことを、今さらながら後悔した。劉備はなんとしてでも、江陵の陣に縛りつけておかねばならなかったのだ。

周瑜は孫権から偏将軍に任命され、南郡太守に封じられたが、その表情に冴えはみられなかった。

同時に劉備は上表して、孫権を行車騎将軍とし、徐州の牧とした。孫権は返礼のために、劉備に左将軍を贈った。

孫権は赤壁の戦いの前に身を寄せてきた劉備と、いまの劉備の違いをわかっていない、と周瑜は歯噛みした。

事実、まだ公安への人口流入は続いているという。孫権は荊州南部を劉備という友好勢力が鎮撫したと安心しているのかもしれないが、無意識に劉備を忌憚しはじめている。

そんなとき、かねてから病気だった劉表の長子である劉琦が死去した。

劉琦が有していた江夏郡は、裨将軍の程普にあたえられた。

そこで空位になったのが、荊州刺史の地位である。実権はないにせよ、劉備が劉琦を上表していたので、その跡をじぶんが継ぐべきだと劉備は考えた。

むろん関羽、張飛や諸葛亮らの重臣の意見もそうである。

孫権とて江夏郡を劉備に譲ってもらったという負い目がある。

「荊州刺史の名目を劉備にあたえれば、曹操との荊州をめぐる戦いで、劉備と連携できよう」

孫権は、そのように決断した。

劉備は孫権の上表により、荊州牧となった。

これで公安は正式な荊州の州府である。

「車騎将軍(孫権)と会見しよう。荊州四郡を、正式にわが領土とする了解を得たい」

「それはよい」

「わが主が荊州牧なった祝賀じゃ」

関羽と張飛らも、賛成した、ただし簡雍だけが、

「孔明軍師の意見をきいてからでも、出かけるのはおそくない」

と慎重な意見をのべた。

「おやめになったほうが、よろしいです」

簡雍の意を察したかのように、公安に来た諸葛亮は劉備と孫権の会見に反対した。

「ほう、なぜそれはよくないのかな」

劉備は、拍子抜けしたような表情をした。

「孫権は、主の力を恐れて気を遣っているにすぎません。

よろしいですか、主は孫権の兵力を借りて、荊州の南部四郡を平定されたのではありません。あくまで独力で、事を成されたのです。

それなのに、四郡の領有をするにあたり孫権に了解をとるようなことをすれば、世間は主が孫権に四郡を借用しているように誤解されますぞ」

諸葛亮は、劉備の人の良さに内心呆れている。これでは劉備が孫権の一属将のようではないか。

劉備が孫権と行う外交としては、荊州四郡の領有を孫権が認めなければ戦う、というくらい毅然としたものでなければならず、辞を低くして孫権に会いに行く必要はないのである。

「楚の懐王のように、和睦先の秦で監禁され殺害された例も過去にはあるのです」

これを聞いた劉備、関羽と張飛は表情を硬くした。

「主が孫権めに呉の地で引き留められたら、われらの手は出せなくなる……」

「考えなおされたほうがよいかもな」

関羽と張飛も、諸葛亮の説得に応じた。

「わかった。今回の会見は見送ろう」

配下の意見を聞く耳をもつ劉備が、孫権との会見をやめたのはいうまでもない。

ところが、今度は孫権の方から使者がやってきた。

要件は、劉備と孫権の妹との婚儀である。

「左将軍(劉備)どのは、ご正室がおられないと聞きました。ぜひわが妹を正室に迎えていただきたい」

断りにくい申し出である。いや、むしろ孫権と姻戚関係をもてば、劉備は孫権の義弟となり、荊州四郡を安定統治できるという好条件ともいえた。

荊州南部を劉備と周瑜で統治しているとはいえ、北部はいまだ曹操が領有しており、軍事力を回復させた曹操が周瑜を一掃すれば、劉備の荊州四郡は独力で曹操と戦わなければならなくなる。

周瑜との気まずい関係を仲裁してくれるのも孫権しかいない。その孫権と親族になれば、敵対勢力は曹操のみになり、荊州四郡の実力を培養することができ、次の段階に劉備は進めるのである。

「婚姻に関しましては、お受けいたします。婚儀のため、車騎将軍(孫権)にお目にかかりにまいります」

劉備は、孫権にそう返答した。

漢の高祖劉邦を尊崇している劉備だが、この年建安十四年(二〇九)に、ようやく漂泊の半生を脱し、基盤とする領土を得た。

劉備は、

「曹操は漢の皇帝の親政を阻む、悪である」

との主張のみで、曹操と戦ってきた。

根拠が薄い、漢の中山靖王劉勝の末裔という血筋を主張してもきた。

しかし、漢の皇帝親政が今の戦乱の世をつくったことは否定できない。曹操は董卓のように悪辣ではなく、世の秩序をつくった革命者の側面を、曹操とともに過ごしてきた劉備は知っている。

(われは、みずからの存在意義を世に問わねばならない)

劉備は、そのような人生の岐路に立っているのである。

春になり、公安に諸葛亮を呼び寄せた劉備は、

「四郡はなんじに任せる。われは孫権の妹との婚儀にでかけねばならぬ」

といった。諸葛亮は、あいかわらず呉への訪問には難色をしめしている。

「孫権がここまで主に譲歩しているならば、止めはいたしません」

「はは、孔明は孫権を疑義しすぎていよう。杞憂だよ」

劉備は、諸葛亮の肩に手を置いた。

「わかりました。若君とともに、公安で無事のお帰りをお待ちしています」

諸葛亮は、あえて若君と劉禅の名を出した。

(私の忠告を聞かず、お斃れになったときは、若君を立てて補佐いたします)

という意思表示であった。

諸葛亮は、まだ四歳の劉禅の手をとって公安の港まで劉備を見送った。

「若君……」

「なに」

「いつか私が、若君が王の国をつくり、おささえいたします」

劉禅は、晩年までこの風景をおぼえていた。

のちの歴史からみれば、諸葛亮はそれを実現してみせるのだが、幼い劉禅には小さくなってゆく父の劉備を乗せた船を見つめる、諸葛亮の澄んだ表情だけが印象にのこった。

劉備は、無事に呉の都に着いた。

そこで待っていたのは、孫権とその重臣たちの大歓迎であった。

(孔明はやはり、心配しすぎであった)

劉備は、孫権に対する懸念の情を解いた。

その頃、周瑜は孫権からの報せを受け取り、

「これで横領された荊州四郡を、とりかえせるぞ」

と周囲が驚くほどの声で大笑した。

孫権が劉備との宴会中に、周瑜から受け取った書簡には、こう書かれていた。

「劉備は梟雄です。しかも配下には関羽、張飛といった熊虎の将がいます。

曹操のもとで優遇されながら、後ろ足で砂をかけるように裏切ったように、いつまでも主に屈し使用されはしないでしょう。

そこで愚考いたしますに、劉備をいつまでも呉にとどめることです。

豪華な宮室を築き、美女や財宝を与え、劉備の耳目を楽しませれば、それは可能です。

また関羽と張飛を引き離して、別の土地に置き、私がかれらを挟んで戦をしかければ、荊州四郡を取り戻すことができます。

いま劉備に荊州四郡を与え、その事業をたすけるようなことをなされば、いつかこの三人は龍が水を得て天に昇るように、取り返しがつかない事態になることでしょう」

周瑜は会ったこともない諸葛亮が、荊州四郡を掠め取る策を生み出したとは夢にも思っていない。

ゆえに劉備、関羽、張飛が連携できないように取り計らい、悪運の強い劉備を呉に軟禁すべきだと強く孫権に勧めたのである。

(そのようなことが可能なのか……)

宴会中、孫権は人の良さそうな劉備をみつめてそう考えた。

劉備も関羽も、曹操に厚遇されたが、結局強い絆で再会を果たしたではないか。

その三人をどのように分離させればよいのか。それならばむしろ、三人を結束させ、荊州四郡を任せておいた方が、曹操に対する防波堤になってくれるのではないか。

翌朝になって、孫権は重臣たちに劉備の対応を図った。

周瑜の策に賛成したのは、呂範である。

呂範は孫策創業時代からの重鎮で、孫家の親戚同様の扱いをうけている。

「毒草をはびこらせないためには、今根を枯らしてしまえばよろしい」

呂範の劉備評は、周瑜と一致している。

狡猾な梟雄で、いずれ荊州をめぐって呉といさかいが起きるといった。

しかし、親劉備の気持ちをもつ魯粛が、それに反対した。

「それはよろしくありません。車騎将軍(孫権)は神のごとく武に秀でたお方であるのに、そのような薄汚い策をもちいては品格を疑われます。

そもそも現状は荊州北部に曹操の勢力が割拠しており、車騎将軍は荊州における政治をはじめられたばかりなのです。

どうか荊州南部を劉備にお任せになり、ともに曹操と対抗すべきです」

魯粛は長阪からの逃避行で劉備に同行してから、かれらの精神に卑しいものを感じていない。

荊州が劉表の盤石の支配から一朝にして崩壊したのは、劉備という才能を活用できなかったからだ、と魯粛は考えている。

孫権には呉の人材の活用ではなく、外部の勢力との連携など広い戦略的視野をもってもらいたい。

「それも、そうだな……」

孫権は、魯粛の意見に魅力を感じ取った。

このまま劉備を呉に監禁してしまえば、公安での劉備のように、新しい人材の呉への流入はついで起こらないであろう。

魯粛の意見は、周瑜や呂範の小手先の策よりも数段規模が大きく、計というべきものである。

この年に孫権はまだ二十九歳、諸葛亮よりも二歳若い。兄を暗殺された以外は、挫折を知らず、王道を征くことにより天下に覇をとなえたいという志望がつよかった。

「よし、劉備と姻戚になったこともあり、荊州四郡を任せてみよう」

と決断した。

劉備を荊州牧兼都督、すなわち軍政長官としたのである。これは姻戚関係になった祝儀であるとともに、魯粛の意見を採用したということで、劉備は知らぬうちに魯粛のおかげで虎口を逃れることができた。

一方。曹操のもとに、

「孫権が荊州の四郡を劉備に与え、かれを補助するそうです」

という報せが届いた。

曹操はちょうど書状をしたためていた途中だったのだが、蒼白になり、その筆を落したという。

「やはり、劉備め……」

はやくから劉備の危険性を説いていた程昱は、絶句して天を仰いだ。


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