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亡蜀記  作者: コルシカ
32/33

蜀と呉


         三十二


 諸葛亮は、今回の北伐は斜谷道をつかうと決めていた。

 この道を通って渭水のほとりに出ると、陳倉よりはるか東で郿に近く、長安を陥落させるにはもっとも利便性の高い道である。

 第一次北伐の際、諸葛亮は趙雲と鄧芝をおとりとして斜谷道をつかったことはあった。

 じぶんで蜀軍の主力を率いて、この道をつかうのは初めてである。

 (もはや、魏軍は恐るるに足らず。司馬懿が出てこようが、わが軍は負けはせぬ)

 諸葛亮のつちかった自信が、斜谷道をえらばせたといっていい。

 おそらくいまの蜀軍は、どのような戦局にあっても魏軍に劣ってはおらず、順調に軍を進めれば長安を奪取できるであろう。

 雪がとけるのを待ち、春になって、諸葛亮は十万の大軍を進発させた。

 満を持しての出師である。

 大軍の兵糧を輸送するのは、木牛と流馬である。一輪車の木牛の運用に成功した諸葛亮は、その改良型といえる流馬を開発した。

 馬というからには、兵糧を運ぶ速度が速くなった輸送兵器なのかもしれない。

 二月に蜀軍は、魏の扶風郡に侵攻した。

 武功水という川が渭水に流れ込んでいるが、この川の西岸に五丈原という名の地がある。

 五丈原に本営を置いた諸葛亮は、あえて東進せず、余裕をもって大軍を駐屯させた。

 「このたびの兵の進め方は、よいな」

 長安を奪って魏王朝を震撼させたい魏延は、腕をさすって呉壱に話しかけた。

 「うむ。丞相の自信はなみなみならぬものがあるぞ。魏軍を迎え撃つ堂々たる陣がまえではないか」

 呉壱も、魏延の意見にうなずいた。

 一方の魏も諸葛亮の侵攻を予想していなかったわけではない。

 軍師の杜襲と督軍の薛悌は、ふたりでおなじ予想を立てて司馬懿に進言している。

 「明年、麦が熟するころに諸葛亮はかならずわが国の領土を侵します。

 ですが、隴西郡にはもはや穀物はありません。冬のうちにあらかじめ兵糧を運び込んでおくべきです」

 諸葛亮をかろうじて退けた司馬懿としても、諸葛亮が魏との戦の手ごたえを感じたと知悉している。

 しかし、杜襲と薛悌の提言には否定的であった。

 「諸葛亮はこれまで、二度祁山に出て、一度は道をかえて陳倉を攻めた。しかし、すべて攻めあぐねて軍を返している。

 さきにわが軍を大破したことに味をしめ、今度出師すれば、城攻めは行なうまい。

 つまり、野外決戦を挑んでくるということだ。

 それを考慮すれば、蜀軍は隴山より東に進出してくるはずで、西は無視してよい。

 諸葛亮は遠征のたびに兵糧不足になやまされているため、三年は兵糧の備蓄にこころがけるであろう」

 当分の間蜀軍との戦いはないとみた政府は、冀州の農民を天水郡の上邽に移住させ、野を開墾させた。

 また、京兆郡、天水郡、南安郡で武器をつくらせ、備蓄した。

 さらに用水路として成国渠を堀り、臨晋陂を築いて、数千頃の田に灌漑をおこなって、国力の充実をはかった。

 戦争となれば急速に食料と武器が消耗される。それらの欠乏を遅らせるための準備をおこなっていたのである。

 (成長した諸葛亮とその軍には、とてもかなわぬ……なんとか長期戦に持ち込み、敵を退却させたい)

 司馬懿の本音は、これである。

 街亭の戦いで幼児であった蜀軍は、いまは成人である。

 (指揮官と軍がここまで強くなる過程を、われはいまだ見たことがない)

 諸葛亮とちがい、司馬懿に兵をみずから訓練し強化成長させるという思想はない。

 (軍は兵を率いる将の良否によって、強くも弱くもなるはずではなかったか)

 いわば、いま司馬懿が敵対している諸葛亮と蜀軍は規格外の強敵である。

 (それに対して呉軍は……)

 諸葛亮の北伐に呼応して呉が出兵するうごきをみせているという情報を、司馬懿はつかんでいる。

 (周瑜と魯粛が生きていたころにくらべれば、弱体化している)

 司馬懿の評価は、あながちまちがっていない。関羽と劉備に勝った呂蒙と陸遜は策によって、相手をだまして勝利しているのであり、将兵の強さはいまの蜀軍のように感じられない。

 (策はじぶんの身を灼く、劇薬よ)

 司馬懿は、そうじぶんにいいきかせている。おそらくいまや好敵手となった諸葛亮もおなじ思想に基づいて軍を成長させたのであろう。

 魏の青龍二年(二三四)の春に、洛陽へ西方からの急使が、

 「諸葛亮が、わが国領内に侵入」

 という報をもってきた。

 「へ、兵力は、十万だと……」

 諸事冷静沈着で軍事にも聡い曹叡さえ、しばし絶句した。

 「扶風郡の五丈原に陣をかまえ、わが軍の到着をまっているようです」

 「……」

 曹叡は沈思黙考していた。諸葛亮が、野外決戦を挑んでいるのは明白である。

 これまでの蜀軍は渭水のほとりに出たときも、西方諸郡を擾乱したときも、曹叡にはその最終的な戦略意図がわからなかった。

 (こ、これまでは、魏の政策に不満をもつ者たちをとりこむつもりだったのだろうが)

 蜀軍が撤退してしまうと西方はもとどおりになり、魏が受けた傷はけっしておおきくはなかった。

 (だ、だが……)

 今回の諸葛亮は、どうか。

 西方の叛乱分子を煽ることもせず、渭水の南岸に営塁を築いて、魏軍の到来をぶきみなしずかさで待っているではないか。

 (し、勝負をかけてきたな、諸葛亮)

 危機感を確信した曹叡がたのみにするのは、いまや司馬懿だけである。

 さっそく司馬懿に、

 「す、すでに仄聞していようが、蜀軍が扶風に侵攻した。こ、こたびの諸葛亮は、難敵である。ど、どのようにしても敵を追い払ってほしい」

 と命じた。

 「私も、大将軍(司馬懿)に加勢いたしましょう」

 寵臣で征蜀護軍に任じられた秦朗が、曹叡に申し出た。

 「あ、阿蘇(秦朗の幼名)が大将軍についてくれるなら、ち、朕も安堵できる。

 に、二万の兵とともに、だ、大将軍の麾下に入ってくれ」

 秦朗は幼少時より後宮で曹叡と兵書を読みふけっており、戦略眼はまずくない。

 なにより状況が不利になると連絡をよこさなくなる癖のある司馬懿にかわって、まめに戦地からありのままの戦況を曹叡に報告できるのは、秦朗だけである。

 (秦朗がそばにいるということは、いつも陛下の目があるということだ)

 司馬懿は、いっそう気をひきしめた。

 しかし、二万も兵が増えると兵糧の減りがはやくなるのも事実である。

 諸葛亮には専守防衛で追い返そうと思っていた司馬懿にとっては、秦朗だけが護軍としてそばにいてくれた方が楽であった。

 西方に向かった司馬懿は、とくに動揺はしていない。

 かつて三年後に諸葛亮がうごくと予測していたし、このまま侵攻をあきらめる諸葛亮でもあるまいと考えていた。

 しかし。

 蜀軍が陳倉より東に出てきたのは、想定外であった。五丈原から郿がちかいのにいっこうにうごかず、攻める気配すらないのは、

 (われと、直接野外で対決をのぞんでいるのであろう)

 ということだ。

 (それだけ、いまの諸葛亮とわれとは、元帥としての差が生じている……)

 悔しさが、司馬懿の胸でうずいた。

 蜀軍が、やがてうごきをみせた。

 「蜀軍の先陣は、すでに郿の付近に到着しています」

 「うむ」

 蜀軍がうごけば、馬謖のような未熟な将が失態をしかねない。隙ができると、司馬懿も蜀軍に攻めかかりやすい。

 (が……それもむかしの話か)

 いまの蜀軍には魏延や呉壱、高翔、王平ら魏軍の将を上回る才能をもった者しかいない。

 軍議が、さわがしくなった。

 「諸君、意見があれば忌憚なくいってくれ」

 司馬懿がうながすと、魏平が、

 「はい。蜀軍は渭水の南岸にいるわけですから、わが軍は北岸に布陣して、渡河してくる蜀軍を迎撃してはいかがでしょう」

 愚策であった。

 (つごうよく蜀軍が渡河して、そのさなかを攻撃させてくれるはずがない)

 司馬懿は、おおきなため息をついた。

 (この程度の策戦しか思いつかないのが、現実か……)

 しかし、将兵に機嫌よくはたらいてもらうのが、元帥たる司馬懿のつとめである。

 「兵糧は渭水の南に貯蔵しているので、戦闘は渭水の南でおこなうときめている」

 司馬懿は、おちついた声で諭すようにいった。

 そうして、魏軍は渭水を渡河した。対岸に着くと、すぐに営塁を築いた。

 蜀軍の将兵は、魏軍にとって禽獣である。

 守りをおろそかにしていては、急襲されて出鼻をくじかれることになる。

 (諸葛亮……いつでも出てこい)

 司馬懿は、内心の不安をかき消すように胸をはった。

 諸葛亮が三年という歳月をかけて、この北伐を準備してきたことは想像にかたくない。

 司馬懿はどうしても毎回侵攻してくる蜀軍を迎撃するわけなので、受け身になる不利を承知している。

 よって諸葛亮のうごきを予知して、魏軍の兵を進退させねばならない。

 営塁が堅固になってきた翌日の日暮れに、司馬懿は諸将をあつめていった。

 「諸葛亮にまことの勇気があれば、武功県まで進み、そこから山づたいに東にむかうはずである」

 諸将は、どよめいた。武功県から東といえば郿があり、長安とは目と鼻の先である。

 「だが、もしも兵を後退させ、西進して五丈原に布陣するようなことがあれば、われらが負けることはない」

 こう断言した司馬懿に、諸将からわずかな笑いがおこった。慎重居士の諸葛亮に、そこまでの勇気はないと嘲ったのである。

 (なんじらは、気楽でよいな)

 司馬懿の心中は、暗澹とした。諸葛亮が五丈原に陣をおくことは、司馬懿には予想がついている。

 諸葛亮が五丈原に陣をおけば、それは兵糧の心配がないということであり、それだけ蜀軍のつよさに自信をもっているということでもあるのだ。

 「蜀軍がうごきました。西進し、五丈原に陣をかまえる模様」

 司馬懿はちいさくうなずくと、

 「周将軍をこれへ」

 といった。周当が本営に到着すると、

 「蜀軍が西進し、五丈原に陣をおいた。

 渭水の南にいるわれらを見て、諸葛亮は渭水をわたって北岸の路を東進するおそれがある。

 であるから、周将軍はこれから渭水の北岸に移り、蜀軍を迎撃してもらいたい。

 むろん、蜀軍の兵力は数万なので、勝つ必要はない。わざと負けて、わが軍の主力が北岸に渡るまでの時間をかせいでもらいたい」

 と命じた。

 「かしこまりました」

 周当は三千の兵をひきいて、出陣した。

 「船を用意しておいてくれ」

 司馬懿は、諸将に命じた。

 (われも、諸葛亮に負けぬくらい用心深くなってしまった……)

 内心、司馬懿は苦笑している。

 蜀軍が渭水を渡り、北岸を東進するということは、万に一つの確率であろう。

 それでもそれに備えておけば、万一蜀軍が東進したときに、退路と補給路を船で断つことができる。

 (いまの蜀軍のつよさならば、洛陽すら陥とすことができるが……)

 司馬懿は、悪い想像ばかりしてしまう。

 蜀軍が全速力で渭水を渡り、北岸の路を長安にむけて進軍すればどうなるか。

 しかもそのねらいは長安ではなく、帝都洛陽であれば近畿は大混乱となり、曹叡は許にむけて脱出するほかない。

 洛陽を陥落させた蜀軍は、呉軍と連携して南下して諸郡を平定してゆくであろう。

 (まさかな……)

 諸葛亮は、司馬懿と相似形である。

 司馬懿ですら二の足を踏む賭けを、するはずがない。

 やがて渭水北岸にはいり、蜀軍が来れば迎撃するはずであった周当から、

 「蜀軍にうごきはありません。渭水南岸が戦場になるはずです」

 と報告の使者が本営に到着した。

 (そうであるはずよな)

 司馬懿は、それでも諸葛亮に圧力をかけるために将軍の胡遵と雍州刺史の郭淮を、渭水北岸にむかわせた。

 とくに郭淮は軍議で、

 「もしも諸葛亮が渭水を渡り、兵を北山につらね、隴への道を遮断し、人民と異民族をそそのかしたら、わが国の利がなくなります」

 と意見した。諸葛亮が西方への道を遮断したのは、最初の北伐で馬謖と考えた策であった。

 「諸葛亮がそこまでするかな。蜀軍は斜谷を出たと同時に、耕作をはじめたというではないか。

 渭水の南岸で秋の収穫をするつもりなら、北岸には出てこぬよ」

 魏の諸将は、そういって郭淮を笑った。

 諸葛亮はたしかに、兵糧不足で勝利を棄てたことを教訓とし、益州の最北端で兵を分けて屯田している。

 蜀軍の本営からかなり遠い土地で屯田をしたのは、魏軍に兵糧の輸送を急襲されないためであり、また木牛と流馬という輸送器機で兵糧の輸送がたやすくなったからである。

 「いや、しかし……諸葛亮はただ用心深いだけの男か」

 司馬懿のたしなめに、諸将は表情をひきしめた。

 「戦場は刻々と変化する。雍州刺史(郭淮)には、渭水の北岸にまわってもらおう」

 諸将はぶぜんとしたが、元帥の司馬懿が発する命令には従わなければならない。

 魏軍の主力は、五丈原に進軍した。

 布陣は蜀軍の北と東において、両面を圧迫する有利さを確保した。

 が、諸葛亮にとっては、これは司馬懿の失策である。

 「魏軍は、渭水をへだてて軍を分けている。二つの軍は、連携がとれないということだ。

 魏の北軍には参軍(王平)、主力には鎮北将軍(魏延)が先鋒としてあたれ」

 「なに、もう蜀軍が攻撃してきたと」

 司馬懿は、諸葛亮の迅速な行動に少なからずおどろいた。

 戦場は、積石という場所である。

 ここでの緒戦は蜀軍にとって重要であり、主力の先陣を任せるのは魏延しかいない、と諸葛亮は思っていた。

 しかし、魏延は諸葛亮の策戦が消極的に見えて不満を抱いている。

 「せっかく郿まで進んだのに、なにゆえさがらねばならぬ」

 諸葛亮の戦いには、決定的な勝利が見えない。いわば負けないために戦っているように魏延には見えてしまう。

 呉壱や呉班、高翔たちがいる場でも、魏延はつねづね諸葛亮の戦法を批判している。

 「魏軍を誘引して、なんになる。戦機はもっと前にあった。

 うしろをむいて戦うなどばからしいではないか」

 諸葛亮は、渭水の南岸で軍を進退させ、魏軍をゆすぶったのである。

 司馬懿はややあわて、魏軍に隙が生じた。

 そこを魏延に叩いてもらうつもりであった。

 しかし。

 諸葛亮からその戦略を聞いていない魏延は、負けたふりをするのにあきれ、猛将らしからぬふがいない戦いを展開した。

 魏延のような直情径行な者には、あえてその戦略をうちあけておくべきであった。そこに諸葛亮の瑕疵があった。

 「先陣が撤退しました」

 「なに……」

 諸葛亮は、わが耳をうたがった。

 みずから鍛錬に鍛錬を重ねた蜀兵を、天下の猛将である魏延が率いるのである。

 (押し負けるはずがない)

 「鎮北将軍(魏延)はわずかに戦っただけで、軍をお返しになりました」

 「……」

 魏軍を大破し、優勢のうちに戦況を展開できると信じていた諸葛亮は、唖然とした。

 (魏延に、この戦いの重要性を説いておくべきであった)

 悔しさの臍をかんだ諸葛亮に、長史の楊儀が、

 「魏延の怠慢を、諸将の前でお糺しになるべきです」

 と怒りをふくんだ声で進言した。

 「……よい。魏延にくわしく策戦を指示しなかったわれが悪い」

 「丞相は軍の元帥なのです。逐一魏延をはばかる必要がどこにありましょう。ごじぶんをお責めになることはありません」

 魏延は年長で能力も抜群であるため、諸将は魏延をはばかっているが、楊儀だけは魏延に容赦なく批判するので、両者はよるとすぐに罵り合う。

 先陣が崩れた蜀軍を、やむなく諸葛亮が本営を西に移動させ、武功水西岸にある五丈原に移動させざるをえなかった。

 やがて渭水北岸の魏軍を攻めた、王平も帰ってきた。

 魏の郭淮はまだ濠と営塁を完成させていなかったが、熾烈な王平の攻撃を耐えきった。

 (魏延が、いつもの戦いをしていれば)

 諸葛亮の目に怒りがともった。

 渭水の北岸を痛撃しておいて、司馬懿の本営を揺さぶれば緒戦の勝利が得られるはずであった。

 「やはり文長(魏延)の怠慢が招いた後退です。かれを厳しく軍法に照らして、処罰なさるべきです」

 楊儀も、声を荒げていった。諸葛亮は目をあげて、

 「よい……わが軍は、敗北したわけではない。文長にはわれが策戦を説明しよう」

 と楊儀をさとした。

 しかし怒りがおさまらない楊儀は、遅れて軍議に参加した魏延にむかって、

 「文長。なんじの日頃吐いている大言壮語はどこへいった。

 なんじのもとには弱兵しかおらぬのか。すすむのがにぶく、退くのだけは早い。輜重の輸送をしているつもりか」

 と諸将の面前でののしった。

 「なんだと、威公(楊儀)。もういちどいってみよ」

 魏延はさけんで剣の柄に手をかけた。楊儀も剣に手をかけたので、諸将はあわてて魏延を呉壱がなだめ、楊儀を馬岱がなだめた。

 「文長、威公よ」

 諸葛亮の静かな声で、殺伐とした軍議の場は静まった。

 「この場で皆に伝えることがある。山陽公……つまり曹丕に漢帝の位を簒奪されたさきの帝が、崩御された。

 これにより漢の皇帝を継承するのは、わが国だけとなったのである。

 真の漢軍はわれらだけであり、われらだけが正義の戦いをおこなっているのだぞ。

 ちいさな戦局の瑕疵で相争っている場合ではないとこころえよ」

 諸葛亮のめずらしく大きな説諭に、魏延と楊儀はともに頭をさげた。

 司馬の費禕は、

 (丞相は山陽公が亡くなられたことで、大義名分を遠慮なく天下にかざすことができるようになったのだな)

 と政治的な分析をしていた。

 諸将はよどんだ空気を払拭し、

 「おう」

 と団結の声をあげた。

 顔からけわしさを消した魏延も、

 「丞相のおっしゃるとおりよ。真の天子の軍であれば、長安と洛陽を陥落させずばなるまい」

 といった。諸葛亮は、

 「わかってくれたか、文長」

 と魏延の肩に手をおいた。魏延も目に涙をためて、なんどもうなずいている。

 楊儀は魏延に対する怒りはおさまらなかったが、諸葛亮が長安、洛陽を攻略すると明言したのを初めて聞いたので、

 「長安と洛陽を陥落させるのが、このたびの出師の目標なのですか」

 とたずねた。

 楊儀は、荊州の襄陽の出身である。

 もともとは劉表に仕えていたが、その後劉琮が曹操に降伏したので、関羽のもとに奔った。

 襄陽太守であった関羽は、楊儀の能力をたかく買い、功曹に任じた。

 関羽の使者として成都の劉備のもとに行ったとき、劉備は楊儀を中央でつかってみたくなった。

 「威公(楊儀)の才は、一郡にとどめておくには惜しい。一国の政治に参与させてみたいがどうか」

 劉備にそう問われた諸葛亮は、

 「性格がやや狷介ですが、才能は抜群です。それがよろしいかと存じます」

 といったので、劉備が漢中王になったときには、尚書に抜擢された。

 みずからの才能を評価してくれた諸葛亮を、楊儀は信奉するようになり、参軍から長史に昇進すると、綏軍将軍の号を加えられた。

 諸葛亮が出師するたび、楊儀は部隊の編成をおこない、兵糧の計算もたしかであった。

 その異能は精密無比であり、軍需物資の調達も楊儀に任せられた。

 楊儀にとっては、諸葛亮はじぶんをもっとも認めてくれた者であり、ともに東奔西走する時間は幸福であった。

 (この軍で長安、洛陽を陥落させるとすれば……)

 楊儀は諸葛亮が魏の帝都と副都を攻略すると明言したからには、胸中で兵站の計算をはじめていた。

 諸葛亮はさびしげな笑みをうかべて、

 「威公よ。われははじめて出師したとき、漢室を復興し、洛陽を奪還すると陛下に上表をした。

 それからずいぶん年を経たが、われの志からは戦果はほど遠い。先帝(劉備)に受けたご恩をお返しするにいたっていない。

 われは、まことの忠臣であろうかな……」

 といった。楊儀はおどろいて、

 「丞相ほどの忠臣は、海内どこにもおられませぬ」

 と声を大きくしていった。

 「楽毅は功績をたて、兵権をもちつづけて王に疑われ、亡命することになった。周公旦や太公望もそうだ。

 忠臣とは、かなしいものだな」

 諸葛亮の自嘲に、楊儀は戦慄した。

 蜀帝の劉禅は二十八歳であり、諸葛亮へ政治の全権を委任している。

 戦争は外交の一部なので、むろん諸葛亮が出師するといえば、劉禅は止めたことはない。

 しかし諸葛亮が司馬懿を撃破し、長安や洛陽を陥落させ長々と戦線にとどまっていればどうか。

 (丞相は陛下から独立して王になる、という者があらわれような……)

 楊儀は、目をふせて諸葛亮のおかれている過酷な状況を想像してみた。

 (そうだ。忠臣とはかなしいものだ)

 楊儀は李平とおなじで、諸葛亮が蜀から離れた土地で王になってもかまわないと思う。

 叛臣とみなされようが、そうなれば楊儀は諸葛亮の王国で丞相になって、諸葛亮をささえるであろう。

 「魏の帝都への過程として、今回の戦いは重要でした。ですが、魏延は口だけ長安をめざすといいながら、それを理解していませんでした。

 丞相は毅然とした態度で、魏延を叱責してもよかったと私は思います」

 「魏延はいまや征西将軍で、自領を漢中の南鄭にもっている……われが諸将の前でかれに恥をかかせると、自兵を率いて南鄭に帰り、兵糧をおさえて挙兵せぬともかぎらぬ。

 そうなればわが軍は前後に敵をつくることになり、進退に窮するであろう。

 魏延のような禽獣は、飼い慣らして敵にぶつける方がよいのだ」

 楊儀は、いつも魏延に対しては辛辣である。

 「魏延は、叛逆の危険を孕む男です。

 なぜなら大勝すれば己の功を誇り、大敗すれば丞相を批判するからです。

 注視して、かれは機を見つつ排除すべきだと考えます」

 「魏延のことは、考えてある。そのときは、なんじにも働いてもらわねばならぬ」

 諸葛亮は、楊儀に声をひそめていった。

 蜀軍は、本営を渭水の南岸、武功水の西に据えて魏軍と対峙した。

 緒戦で魏軍を撃破できなかった諸葛亮は、戦略を変更し、持久戦を選択した。

 (時間をかけて魏軍をゆさぶりつづけると、かならず隙をみせる……そこまで根くらべよ)

 今回の出師においては、諸葛亮の懸念は魏延の反骨心のみであるといっていい。

 先日の軍議で魏延を手なずけた諸葛亮に、もはや死角はない。

 元帥としての能力は、すでに司馬懿を上回っており、長期戦に備えた兵糧の輸送にも、木牛と流馬を完備しているので懸念はない。

 (魏軍も一枚岩ではあるまい。かならず対陣中に破綻をみせる)

 諸葛亮は、すでに仲夏になった季節の風を感じるために外に出た。

 費禕も諸葛亮について外に出たところ、諸葛亮から、

 「呉が動いた、という報せはないかね」

 と声をかけられた。

 「は、いいえ。呉が魏領に侵攻したという情報はありません」

 「いや、よい。もはや呉を頼むまい。蜀の手で魏を屠る」

 費禕は諸葛亮の尋常ではない眼光に、おどろいた。

諸葛亮は夜が明ける前に起床し、深夜まで軍務を取り仕切っている。頬はこけ、目のくまは濃い。

(丞相は、お身体を病んでおられるのか)

費禕は、いっこうに空を見つめつづける諸葛亮を置いて下がった。

(呉を頼めば、失敗する……)

諸葛亮の決意は悲愴なものである。

呉が魏を壊滅させれば、いずれは呉と戦わねばならなくなる。他人を頼った孫権は大器に見えるが、遼東の公孫淵を頼んで大失敗している。

(孫権より劉備の方が、はるかにすぐれていた)

劉備は徒手空拳から、蜀という帝国を築いた。無位無冠の諸葛亮を三度みずから訪ね、帝国の宰相にした。

蜀という国は、まさに無から生じた有であり、過去にこのような幻術を行ないえたのは、漢の高祖である劉邦しかいない。

「われは、いま奇跡のなかにいるのだ」

諸葛亮は宇宙と一体になったようなふしぎさで、つぶやいた。もう、劉備に直接会ったことのある人間も少なくなっている。

さて、そのころ呉はどうしていたのか。

諸葛亮から北伐の報せを受け取った孫権は、穀物の不作のため、軍を動かせなかったのである。

正月に詔を下した孫権は、

「連年戦いはやむことなく、民は兵役に苦しみ、穀物の実りははかばかしくない。

税を払えぬ者たちへの処分はゆるやかにし、ふたたび税を取り立ててはならぬ」

とし、二月の末に蜀からの使者が、

「陛下もわが国とともに、天下に正義をお示しになられますよう」

との催促にも、

「わかった。呉もすぐに出兵しよう」

とは即断できなかった。

遼東で一万もの兵を死なせたのも、孫権のおおいなる瑕疵である。

(これは、朕の罪でしかない……)

孫権は、くりかえし己を責めた。怒りは遼東の公孫淵にあって、魏の曹叡にあるわけではない。

やがて夏になり、魏と蜀の交戦状況を孫権は知った。

(こたびも、長期戦になりそうだな)

諸葛亮と司馬懿は慎重な戦術しか採用しないので、軽はずみなところのある孫権には、ふたりが似たもの同士の凡将に見える。

(しかし……)

軍をうごかすことに俊敏だとじぶんを過大評価している孫権にしては、諸葛亮と司馬懿のような慎重すぎる将の方が、大きな失敗はないのかもしれぬ、と思ったりする。

思考の堂々めぐりをしていた孫権も、仲夏になって蜀と魏の戦線が膠着状態であることを確認したうえで、

「蜀に呼応するかたちで、北伐をおこなう」

と決断した。

孫権の命によって、陸遜と諸葛謹が沔口に営塁を築いて駐屯した。

沔口は漢水が江水に流れ込む地点なので、呉にとっては魏への重要な軍事拠点である。

魏軍は呉を攻めるとき、かならず漢水を船で南下するので、沔口をより堅固にして魏の進軍を防ぐ必要がある。

順調に戦備をすすめた孫権は、孫韶と張承に兵をさずけ、魏の広陵郡を攻撃させた。

この軍は広陵郡の中央をすすみ、郡府のある淮陰をめざした。

つまり呉軍は陸遜と諸葛謹の西軍、孫韶と張承の東軍、孫権じしんが率いる中央軍の三軍で同時に魏に侵攻したのである。

(曹叡は、西方の諸葛亮を懸念して、こちらには援軍を出せはすまい)

「諸葛亮にも、われのような大胆さがあれば、長安を陥とせていたのだ」

孫権は、上機嫌で左右の臣にいった。

かれのひきいる中央軍は江水を渡り、濡須水をさかのぼって北上し、巣湖に入った。

呉の得意である水軍が多数、合肥にちかづいた。陸軍と水軍の両面から侵攻された魏は、対応に苦慮しているだろう、と孫権はほくそ笑んだ。

この年の五月に、太白星(金星)が昼間にあらわれた。巣湖のあたりが暗くなると、星の輝きが増して異様な光景となった。

「魏の不吉を、星があらわしているのであろうよ」

孫権は、北伐の勝利を確信している。

しかし、魏には二十余年にわたって孫権をはねかえしつづけた征東将軍の満寵がいる。

「気味の悪い空であるな」

老将となった満寵だが、孫権の手の内は把握しており、余裕がある。

呉軍十万の主力軍が巣湖に至ったと報告をうけても、

「そうか」

といったきり寿春から合肥にかけつけた。

孫権は、軍事の鬼であった兄の孫策が亡くなるとき、

「兵を動かして、戦に勝つことはなんじに勝る。しかし、賢者を登用して国を保つことは、なんじにおよばない」

と励まされたことがある。

孫氏宗家を継承したとき、孫権は内政の人と孫策にみなされていたということである。

孫権はじっさい奇抜な戦術をつかうことができず、魏軍に勝利した赤壁の戦いでは、周瑜が呉の水軍を指揮している。

合肥に関していえば、孫権は何度もこの城を攻めているにもかかわらず、いちども勝利したことがない。

これが客観的にみた、孫権の軍事的才能であった。

臨機応変の才があり、予見力のある満寵からすれば、孫権の出師はおどろくべきものではない。

(策のおおい孫権にしては、合肥侵攻においては無策なのだな)

と満寵は、孫権の軍事的無能さをあわれむ余裕さえある。

(まてよ。孫権に策がないのであれば、われが策を孫権にしかけてやろうか)

満寵は、合肥に急行する道すがらそんなことを考えていた。揚州と豫州の兵を集めるには、まだ時間がかかる。

そのため満寵の率いている兵は、さほど多くない。そこで、満寵の考えた策とはこうである。

(合肥新城を、孫権にあけわたしてやってはどうか)

孫権は策をこのむわりに慎重なので、巣湖にうかべた船から降りることはしないであろう。

そこで呉軍を得意の水軍から切り離し、魏領内の奥へ奥へと誘引するのである。

ちょうど揚州の州府である寿春までおびきだせば、撤退する魏軍を追撃してきた呉軍と一大決戦をおこなうことができる。

そうなれば呉軍を包囲することもでき、兵站を遮断することもできるので、孫権ともども一網打尽にできるではないか。

「この策戦はいいな……さっそく陛下に上表してみよう」

満寵からの上書を受け取った曹叡は、驚愕した。

「せ、せっかく難攻不落の合肥新城を築いたのに、そ、それを孫権に献上するとは……」

孫権は、狷介な性格である。合肥を得てすぐに寿春をも得ようと兵を進めることはないであろう。

そうすれば、堅固な城である合肥新城を魏が奪還するのに、また数年を要するであろう。

「せ、征東将軍(満寵)は酒に酔っているのではなかろうな」

満寵の酒好きは有名である。曹叡は満寵からの上書を破棄し、あらたな命令を下した。

「かつてふたりの先帝(曹操と曹丕)は、東に合肥を置き、南を襄陽で守り、西を祁山で固めた。

賊軍が来るたびに、この三城で撃破した。合肥はかならず係争の地となる場所である。

たとえ孫権が合肥新城を攻めても、これを抜くことはできない。諸将に堅守するように命じよ。

朕はみずから兵を率いて呉賊を討伐するであろう。しかし、合肥に近づく頃には孫権はかならずや撤退しているにちがいない」

合肥新城で曹叡からの命令書を承けた満寵は、

(聡明な陛下でも、わが計をご理解いただけなかったか……)

と嘆息した。

孫権を輔斬するには、いま満寵の兵が少ないことが餌になるのである。

いわば肉を斬らせて骨を断つ戦法で、兵が少ない満寵が合肥新城を棄てて撤退すれば、孫権はかならず船を降りて魏兵を追跡させるはずなのである。

寿春まではるばる追撃した孫権を、曹叡の兵と揚州、豫州の兵を併せた満寵で挟撃すれば、孫権の逃げ場はなくなる。

孫権が死ねば、合肥新城を占拠している呉兵も去るであろう。

兵略に長けている曹叡から見ても、満寵の策は危険とみなされた。

(まあ、われも老いたのはまちがいない……陛下は呉の大軍を前にして、おじけづいたと感じられたのかもしれぬ)

満寵は苦笑して、

「それもしゃくだな。孫権に一泡吹かせてやろうぞ」

と守将の張頴にいった。

「とは……」

首をかしげた張頴に満寵は、

「呉軍の攻城兵器を焼く」

という。巨大な攻城兵器が見え隠れしているので、それをしまつしておこうというのだ。

「この地形ですと、あのような兵器は近づけないと思われますが」

「なに、念には念を入れるということばもある。われについてくる者は何人いる」

満寵の募集に応じたのは、約三十名である。

「かつて剛候(張遼)はたった八百人を率いて十万の孫権軍に斬り込んだことがある。

安心するがよい。われは剛候のような神通力をもたぬので、直接敵陣に斬り込むわけではない。

ここにある麻の油で、風の強い夜に折った松の枝に火をつけ、敵陣に近づき、兵器に火を放つ。身を守るために、弓矢を各自持参する。いいな」

そうはいったものの、風の弱い日が数日つづいた。その間にも呉軍は着々と攻城兵器が通る道を普請している。

ようやく、風がつよくなった。

「よし。風向きはどうか」

「敵陣にむかって吹いています」

満寵の問いに、工作隊の隊長が答えた。

「今夜、敵の兵器を焼くぞ」

満寵は、夜になって三十数人の工作隊を率いて城を出た。火矢を放つのではないから、相当攻城兵器に接近しなければならない。

巨大な雲梯が目の前にある。それはキリンのようであった。

やがて哨戒の兵が満寵たちを発見したので、

「よし、助走をつけて火を投げつけろ」

と喚声をあげた兵たちは、火をつけた松の枝を雲梯に投げつけた。

やがて雲梯は風に煽られ、煙を吐きだした。

「撤退」

満寵は、もとより深入りするつもりはない。

兵たちにもたせた弓矢で応戦しつつ、城内に撤退を完了させた。一兵も損ねず策戦をなしとげた満寵は、往年の知嚢がおとろえていない。

雲梯は炎につつまれ、竜がのたうちまわるように崩れ落ちた。交戦時に死傷した呉兵も少なくない。

なんとその中の戦死者に、孫権の弟の子である孫泰がいたのである。

「泰が死んだ、とはまことか……」

眠りから起こされた孫権は、雲梯の消失よりも孫泰の死に怒りがおさまらなかった。

孫権は夜明け前に下船し、孫泰の遺骸を迎えると、

「泰の仇を討つ。なんとしても城の壁を破り、城内の兵を皆殺しにしてやる」

と諸将に総攻撃を命じた。

合肥新城の守将である張頴は、張遼のような名将ではないものの、胆力がありそつのない戦い方をする。

呉軍の猛攻にも萎縮せず、的確に城を堅守していた。

「わが軍には、人材が払拭したわけではないな」

一仕事終えた満寵は、安心して好物の酒を呑みながら張頴の指揮を見ていた。

「征東将軍(満寵)の夜討ちに、よほど孫権は頭に血が上っているようです。昨日とは別の軍のように激しい攻撃です」

満寵のもとにきた張頴も、余裕をうしなっていない。

「雲梯を失った呉軍は、城壁を越えられぬし、ちかいうちに陛下の親征がある」

満寵は杯を干して、そういった。

「それは、ほんとうでしょうか。陛下は西方の諸葛亮が戦線にいるかぎり、合肥まではこられないのでは……」

張頴は、首をかしげた。しかし満寵はあらたに酒を杯につぎつつ、

「孫権は、陛下を侮っているのよ。陛下は西方の戦線が膠着しているとご判断されれば、すぐにでも合肥に親征される。

孫権は陛下が合肥に到着すれば、尻尾を巻いて逃げ帰るにちがいない」

といった。

「しかし、このような激しい攻撃をうけつづければ、城もいつまでもつか」

「孫権の怒りの感情は長続きせぬ。一月……一月しのげば、陛下の軍が到着する」

「一月ですか……」

張頴は、満寵のいうことを信じた。満寵はそうやって、巨岩のごとくなんども呉軍をはね返してきたからである。

すでに六月になっていた。

七月には曹叡が来て、籠城はおわる。

しかし六月もなかばになっているのに、曹叡が兵をうごかしたという情報はとどかなかった。

曹叡がすぐに兵をうごかさなかったのは、文官の劉劭が献じた策を採用したからである。

「賊軍は合肥に到着したばかりであり、兵の士気は鋭利です。征東将軍(満寵)は寡兵ですが、大きな損害を出しておりません。

孫権を追い払うには、まず歩兵五千と騎兵三千を先遣隊として送るのです。

この八千の兵は合肥に行く先々で声を揚げ、勢いのよさを誇示します。合肥に到着すれば、たくさんの隊に分けて旗と太鼓の数をふやして城下で威勢を輝かせるのです。

賊軍を引き出しておいて、その帰路と糧道を断つうごきをさせれば、孫権はさらに大軍が到着すると思い込み、退却するでしょう。

これで戦わずして城を守り通すことができます」

劉劭の策は、たった八千の兵で呉軍十万を退ける策であった。

「こ、この策は最善のものだ。さ、さっそく実行することにしよう」

曹叡はおおいに劉劭の策を気に入り、採用した。

「し、しかし……」

曹叡の懸念は、西方戦線の諸葛亮である。

洛陽の防備が手薄となり、西方で蜀軍と対峙している司馬懿が決戦をおこない、敗退してしまっては困る。

そこで衛尉の辛毗に節を与え、大将軍軍師に任命して、

「し、諸葛亮との決戦は避けよ。じ、自重してけっして出撃してはならぬ、と大将軍に伝えよ」

と厳命した。

「うけたまわりました」

辛毗は硬骨漢で、大将軍である司馬懿の決定をくつがえすことができる節をもっている。

司馬懿に追従することはあるまい、と曹叡はようやく安堵した。

懸念を払拭した曹叡は、ついに親征に出た。

先遣隊は、劉劭の策のとおりおこないつつ合肥に到着した。

「魏の援兵が来ただと」

「あのような少数の兵で、なにができる」

呉兵は侮って、魏兵の援軍を追った。魏兵は呉兵のうごきを見て、背後にまわりこむ気配をみせた。

「退路を断つつもりか……」

呉兵は不安を感じ、騎兵を後方に送って退路を確保させた。まもなく呉の輜重隊が、魏の騎兵に襲われて輜重を奪われたとの報が入った。

「背後に大軍が来るのかもしれぬ」

輜重を前線に送った孫権は、不気味な予測をした。もしもほんとうに曹叡が親征してきたならば、戦は長期化し、合肥を奪うどころではなくなってしまう。

孫権は、魏領内に偵探をはなった。

「魏の大軍が接近しつつあり」

孫権は、青ざめた。

このとき、前線の兵が見たのは後発のたった五千しかいない歩兵であった。

それを確認しないまま、魏の大軍と孫権に報告してしまったのである。

「曹叡みずから兵を率いてくるとは……」

孫権も、疑心暗鬼の中にいる。

「全軍撤退させる」

と迷わず決断してしまった。

(雲梯を焼失してから、合肥新城を奪取することは無理だと思っていた)

孫権は帰路、こころに張りを失っているじぶんを俯瞰していた。

(公孫淵に騙されて以来、いいことがない)

合肥でもぶざまな遠征となり、ここ数年の呉軍はまったく精彩を欠いている。

損害が大きくなる前に、こういうときは撤退するにかぎる、と韜晦した孫権はうなだれて船に乗った。

「ま、まさに劉劭のいうとおりとなったぞ」

逆にあかるさで周囲の者に機嫌の良さを見せたのは、曹叡である。

曹叡が寿春に到着したときには、呉軍は影もなかった。たった八千の兵で、しかも戦わずに孫権を追い払ったのである。

寿春城にはいった曹叡は、合肥の守将である張頴と征東将軍の満寵をおおいに称揚した。

しかし満寵は、

(合肥新城を孫権にくれてやっていれば、呉軍を壊滅させることができたのだが……)

とひそかにくやしがった。

だが多くの臣にとっては曹叡を戦場に立たせなかったことは、おおきな収穫である。

「この無傷の兵をひきいて長安に向かえばよいのではないでしょうか」

とさらに皇帝親征をすすめる意見もあがった。しかし曹叡はくびをふり、

「そ、孫権が逃走したと知って、し、諸葛亮はさぞ落胆したであろう。

ゆ、ゆえに大将軍(司馬懿)は勝つ。ち、朕はなにも心配しておらぬ」

といいきった。

曹叡は、南方の領土に来るのがはじめてである。その風景を堪能した曹叡は、寿春で諸将の勲功を調査させた。

八月の上旬まで寿春に滞在し、六軍の兵をねぎらった。

践祚以来緊張を強いられてきた曹叡にとっては、よい休暇にもなったであろう。

曹叡が許昌に帰還したのは、八月の下旬である。

一方の呉軍であるが、孫権があっけなく撤退したことにより、広陵の淮陰まで進軍していた孫韶と張承らも撤退した。

しかし沔口に軍営を築いて魏軍の動向をうかがっていた陸遜と諸葛謹は、

「襄陽を攻めるように」

という命令をうけていたので、軍を北上させており、孫権が撤兵したことを知らなかった。

将帥の陸遜だけが敵国の深部に進出し、諸葛謹から、

「陛下の乗り物である大駕はすでに国に引き返し、賊はわれらが敵地に残されていることを探知している。

しかも漢水は乾きはじめ、船がうごかなくなるおそれもある。すみやかに撤退した方がよい」

という書簡を受け取った。

(そうか。ならばじたばたすれば、よけいに敵を利することになるな)

孤立無援となった陸遜ではあるが、なぜか平然としている。諸将といつもと変わらぬ態で囲碁を楽しんでおり、諸葛謹に返書をだすことすらしなかった。

返事がこなくても、陸遜がひきあげてくれれば問題はない。

(伯言は、なにか考えがあるのだな)

そう考えた諸葛謹は、じぶんで本陣にむかった。陸遜に会うと、

「私の書簡は読んでいただけましたか」

と訊いた。

「はい。読ませていただきました」

陸遜は、すずしい顔である。

「ならば、なぜここにとどまっておられるのか。敵はふえるばかりで、危地に陥ってしまいます」

「それは承知しています。魏賊は陛下が帰途についたことを知り、他に懸念がなくなればわが陣におそいかかってくる。

また賊は要害を固めているので、それを知ったわが軍は動揺してしまいます。

それをふせぐためにも、私がみだりに動いては呉兵を安心させることができない。ここは尋常ではない策をほどこして脱出しなければならず、あわてて脱出すれば敵はわれらの恐怖を察知してかさにかかって攻めてきますから、大敗してしまいます」

陸遜は、死中に活を求めるというのである。

危難に直面したとき、逃げれば被害はおおきくなる。

魏軍は、孫権がすでに撤退したことを知っている。そこをあえて軍を停止しているのが名将の陸遜であることも、魏軍は知っているのである。

(あの陸遜の考えることだ。なにか策があるのではないか……)

魏軍は、陸遜がうごかないことをぶきみに感じ、攻めかかってこない。

「そこで、このような策を考えました」

ようやく陸遜は、諸葛謹に腹案を明かした。

「なるほど。これならば……」

諸葛謹が陸遜を尊敬しているように、諸事そつなくこなす誠実な人として諸葛謹を陸遜は嫌っていない。

まず陸遜は、船の統率を諸葛謹にまかせた。

そして陸遜じしんは兵馬を船から降ろし、陸路を襄陽にむけて進発した。

呉軍が撤退すると思っていた魏軍の兵たちは、

「陸遜は兵を退かず、襄陽を攻めるぞ」

とあわてて城にもどり、守りを固めた。

「いまぞ」

諸葛謹はそのときを待っており、船を出した。陸遜は、

「ここで、おおいに声をだして騒ぐのだ」

と兵に命じ、威勢を張らせた。

そこに諸葛謹からの船が近づいてきたので、

「よし、もういい。乗船するぞ」

と命じて兵たちを船に乗せ、疾風のように撤退していった。

敵を威嚇して去る、という陸遜の名人芸を見せられた思いの魏軍は、歯噛みしてくやしがった。

すでに、初秋の風が漢水には吹いている。

みごとな撤退をおこなった陸遜ではあるが、

「ここまで兵をすすめて、手みやげがないのはむなしいな」

とつぶやいた。諸葛謹は、

「手みやげ、ですか」

と陸遜に訊いた。呉の三軍が同時に北上するという戦略は悪くなかったのだが、肝心の孫権が撤退してしまったので、画餅にすぎなくなった。

「敵にすこしでも成果をみせつけなければ、陛下の威光が翳るでしょう」

といった陸遜は、白河口にさしかかったとき、将兵を船から降ろした。

むろん、この地は魏の領土である。

将軍の周峻と張梁を呼んだ陸遜は、

「なんじらはひそかに江夏郡に侵入して、諸県を攻めよ」

と命じた。二将は新市、安陸、石陽の三県に攻め込んだ。とくに石陽県ではちょうど城外に市がひらかれており、おおくの人々で盛況であったところ、突然呉の周峻の兵が攻めてきたので大混乱となった。

城門が人の群れで閉じられなくなった魏の兵は、呉兵が城内になだれ込むのをおそれて、城門ちかくにひしめく人々を斬殺した。

門外にいて呉兵に襲われた人々はつぎつぎに輔斬され、城門が閉じられたときには、逃げ遅れた人々が数千人もいた。

かれらはすべて捕虜になったのだが、周峻が、

「わが軍にはむかわなかった者たちを虐待してはならぬ」

と命令したので、捕虜の中でも城内に還りたい者を送り返した。

もともと城外の住民を襲撃し殺害した呉軍ではあるが、のちに温情をあたえたので、多くの近隣住民が呉に帰属した。

江夏郡の功曹である趙濯や、弋陽を守備している裴生、異民族の王の梅頥らも与党をたずさえて呉軍に降り、陸遜に仕えた。

「やあ、よくまいられた」

陸遜は財貨を与えて、かれらをねぎらった。

(それにしても、陸遜はむごいことをする……)

諸葛謹は、笑顔の陸遜を冷静な目で見ていた。せっかくみごとな撤退をしたのだから、むごい殺生をしてまで功績をあげることはなかった。まさに蛇足である。

(陸遜には、こういうところがある。無事に最期を迎えられまい)

諸葛謹の意見とおなじ感想をもったのが、「三国志」の註をつけた裴松之である。

「陸遜がみごとな撤退にあきたらず、小県の住民を殺傷したのは、戦とは関係ない悪業である。

渭水のほとりで住民を慰撫して駐屯していた諸葛亮とは雲泥の差がある。

陸遜の家が三代までで滅びてしまったのは、この悪業のせいであろう」

このように陸遜を辛辣に批判した。

裴松之がいうように、諸葛亮はなんども雍州に侵入したが、無辜の民を虐待したことはない。

呉が撤退してしまった報を受け取った諸葛亮は、

「そうか……」

といったのみで、落胆の色は見せなかった。

(正義は、正義の王朝だけが行なえばよい)

諸葛亮には、孤高の哲理がある。

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