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亡蜀記  作者: コルシカ
31/31

李厳


         三十一


 「ほんとうに、兵糧の輸送はできなかったのか」

 漢中に還ってから諸葛亮は、左右の臣に尋問した。

 漢中から戦場への道路は崩落もしておらず、それを修復している兵たちもいなかった。

 ならば、李平はなぜ兵糧を戦場へ送ることができなかったのか。

 李平は諸葛亮に従って戦場に行かず、漢中にとどまって政務を代行し、兵糧武器の輸送を行なう兵站責任者であった。

 諸葛亮と司馬懿の戦いは長くなったが、兵糧は不足せず、夏の終わりに長雨が降りつづく頃になって、李平は狐忠と成藩を諸葛亮のもとに遣わし、

 「兵糧の輸送ができなくなりました。いそぎご帰還を乞う」

 といってきたのである。

 しかし。

 諸葛亮と蜀軍全軍が帰還したことを知った李平はおおいにおどろき、

 「軍の兵糧はおおいに充足していたのに、丞相はなにゆえご帰還なさったのか」

 と周囲の官吏らにいいふらし、劉禅に上表して、

 「丞相が退却したのは偽りであり、賊軍を漢中に引き込んで叩く策なのでしょう」

 と上表した。

 「このように驃騎将軍は上表してきたが、これはまこととはおもえぬな……」

 劉禅は、蔣琬と費禕に相談した。

 「なんらかの、たくらみがあるのではないでしょうか」

 費禕が、劉禅と蔣琬にいった。

 「たくらみ……とは」

 劉禅と蔣琬は、顔を見合わせた。

 「この成都にいますぐ招集できる兵は、いかほどありましょうや」

 費禕は蒼白な顔色のまま、蔣琬に訊く。

 「近衛兵をあわせて三万は用意できよう……真意はなにか」

 「はい。驃騎将軍は丞相を帝位にのぼらせるべく、漢中から兵をすすめるおそれがあります」

 「なんだと……」

 これには、劉禅も絶句した。

 「先帝のご遺言を、実行するということか」

 蔣琬の問いに、費禕はうなずいた。

 「さきの戦役で、あのまま丞相が司馬懿を追っていたら長安まで陥落させることができたでしょうが、驃騎将軍としてはのこりの兵糧を成都攻めにつかいたかったのです。

 魏軍に大勝した丞相なら、先帝のご遺言にしたがって陛下から帝位をとってかわっても、だれも文句のいえない実績をあげたのですから」

 「先帝の遺言」とは劉備が死の床で、諸葛亮に、

 「わが子(劉禅)に才能があれば、補佐してほしい。才能がないのであれば、卿がとってかわれ」

 というものである。遺言の場には諸葛亮のほかに李平がいた。むろん諸葛亮は、涙をながして劉禅を補佐すると誓っている。

 「丞相が、驃騎将軍にそそのかされることなどあるのだろうか」

 劉禅は、そこまで諸葛亮が軽薄な人格だとは思えない。

 「丞相が提案を拒否されれば監禁して、驃騎将軍が兵権をにぎることはありえます」

 費禕は、徹底した現実主義者である。最悪の想定ではあるが、ないことではない。

 「丞相が驃騎将軍のたくらみにのるはずはないが……城内の兵だけではこころもとない。

 奮威将軍(馬忠)と中領軍(向寵)に成都へむかうように使者を走らせます」

 蔣琬は、いそいで宮室を出ていった。

 泰然自若としている劉禅の姿を見た費禕は、

 「陛下は、おちついておられますな」

 といった。劉禅は微笑んで、

 「驃騎将軍のたくらみごときに心うごかされる丞相でもあるまい……また不意に丞相を監禁しても征西将軍(魏延)らは驃騎将軍に従うことはあるまい。

 万が一、驃騎将軍が丞相の軍だけを奪って成都に押し寄せてきたら、奮威将軍と中領軍には勝てぬ。そうは思わないかね」

 といった。費禕は、

 「おそれいりました。おっしゃるとおりでございます」

 と恐れ入った。

 「最悪の事態は、奮威将軍と中領軍が驃騎将軍に敗れることだが……なに、そうなれば南中の孟獲をたよればよい。

 文偉(費禕)や公琰(蔣琬)が案ずることはないぞ」

 (このお方は……)

 費禕は、刮目して劉禅を見る思いであった。

 (やはり、劉禅は劉備の子だ。赤子の頃から長阪の戦場や孫夫人の拉致をかいくぐってこられただけの胆力はある。

 諸葛亮に逆らえば命がないことを骨身にしみて理解しているので、韜晦しているだけなのだ)

 費禕も、李平の叛乱を未然に防ぐべく、漢中に使者を送った。

 漢中に帰還した諸葛亮は、李平の不穏な気配をすぐに察した。

 「驃騎将軍に話がある。丞相府まできてもらえるか」

 呼び出された李平は、悪びれることもなく平然と諸葛亮の前にあらわれた。

 丞相府の執務室に入るなり李平は、

 「お人払いを」

 と諸葛亮に依頼した。

 うなずいた諸葛亮は左右の官吏を下がらせ、執務室には諸葛亮と李平のふたりきりになった。

 「倉庫を点検した結果、充分な兵糧が備蓄されていた。驃騎将軍は、われに嘘をついたのか」

 いきなり諸葛亮は、本題に斬り込んだ。

 「いいえ。嘘ではありません。もう兵糧はありません」

 「……どういうことか」

 「はい。あのとき、このまま丞相が長安に攻め込まれますと、帰還して成都を制圧する兵糧がなくなってしまいます。

 丞相には魏軍に大勝したあのとき、漢中にもどってもらわなければならなかったのです」

 諸葛亮は天を仰いで、大きくため息をついた。

 「なんじはわれに先帝のご遺言を実行せよ、といっているのだな」

 「そのとおりです。このときをおいて、いつ丞相が帝位に即く機会がありましょうや」

 李平は、諸葛亮の目を見てつづけた。

 「魏にはくすぶった火だねが、数多くあります。丞相が司馬懿に勝ったことで、凡庸な劉禅より丞相の方が帝にふさわしいことを、証明なさいました。

 わが漢(蜀)が易姓革命をおこない、盤石な態勢で富国強兵を実行いたしますと、袁煕の子である曹叡に叛旗をひるがえす勢力が魏の各地でかならずあちこちに発生します。

 わが国と呉が連携して、魏の叛乱勢力と結べば、かならず中原をわが国が回復し、正義を満天下に示すことができましょう」

 「……正気か」

 「丞相こそ、いつまでも魏の辺境を攻めて偏安をむさぼっておられる戦略は、正気かと疑いたくなります。

 わが国にも丞相の度重なる北伐を、こころよく思っていない勢力はあります。

 戦いつづけることで保身をはかるには、あなたの才覚は巨大すぎるのです」

 諸葛亮は、怒りをおぼえていた。

 劉備が死んだあのとき、李平はなにも劉備の遺言の真意を理解していなかったからだ。

 「先帝は、われに簒奪をすすめたのではない。われらが漢(蜀)を建国するためになした、さまざまなことをおゆるしになったうえで、皆で賊を討ち滅ぼせと仰せになったのだ。

 なんじは何を聞いていたのか」

 蜀がひとつになるため、戦や謀略で斃れていった仲間たちがいる。

 関羽、張飛、龐統、法正、張松たちだ。

 (かれらの死に見合った素晴らしい国をつくってくれよ)

 これが、劉備の遺言の真意である。

 それを理解した諸葛亮だから、その場で涙がとまらなかったのである。

 「はっ、まだ管仲と楽毅きどりか。

 だから魏延の策を採らずに、いつまでも長安を陥とすこともできぬのだ。

 諸葛亮、なんじには失望した。

 劉備の遺言を利用できぬなんじは、結局は魏に勝てぬ。

 さあ、われを縛め、獄につなぐがよい」

 悪態をついた李平の目にも、涙がながれていた。それは長年諸葛亮を敬愛し、ともに魏という賊を滅ぼさんと誓った涙であった。

 「……われには、情けがないわけではない。

 なんじには兵糧の輸送を怠った罪として、平民におちてもらう」

 「好きにせよ。われはおのれの見込みちがいのために身を滅ぼすのだ。遠慮はいらぬ」

 獄吏に付き添われて、李平は執務室から連れ出され、獄につながれた。

 諸葛亮は上表をおこなって、劉禅に李平の罪を知らしめた。

 しかしながらその上表文には、李平の罪は記されていない。

 李平は保身につとめ、名誉を求めはするが、憂国のこころをもっていない、とだけ記されている。

 諸葛亮は、李平を平民に落した。

 「驃騎将軍を……」

 「兵糧の輸送を怠っただけで、厳しすぎはしないか」

 事情をしらない官民は、諸葛亮の李平に対する厳罰におどろいた。

 「このような者の対処を先延ばししておりますと、禍難をまねくことになります」

 諸葛亮は、平然としていた。

 諸葛亮は成都の宮室で、劉禅にすべてを打ち明けた。

 「そうであったか……丞相の忠誠心をうれしく思うぞ」

 劉禅は、親しく諸葛亮の手をとって礼をいった。

 「とんでもございません。私が漢中で幕府を開き、賊退治に専念しておりますことから、陛下と私の仲を裂くよこしまな心をもつものがあらわれることは、予想しておりました。

 私の不徳を、ひたすらお詫びするしかございません」

 そういって、諸葛亮は平伏した。

 「顔をあげてくれ、丞相。成都の守りは、万全であった。

 公琰(蔣琬)と文偉(費禕)が、奮威将軍(馬忠)と中領軍(向寵)を呼び寄せてくれた。ふたりは、成都にむかう途上で事情を説明し、任地に帰還してもらった」

 諸葛亮は、表情をやわらげた。

 「公琰と文偉が……」

 李平の不穏なうごきを、蔣琬と費禕は察知し、俊敏な手をうっていたということに諸葛亮は満足した。

 (われの後継者は、公琰と文偉でよい)

 このとき、諸葛亮はみずからの後継をきめた、といって過言ではなかった。

 「正方(李平)どのに、お目にかかりたい」

 李平と驃騎将軍在職中親しかった費禕は、獄中を訪ねた。

 「おお、文偉か。われを責めようとここに来たのか」

 李平はのちに平民に落されることになるが、いまは裁きを待つ身である。

 「いえ……なぜこのような企図を実行しようとされたのか、伺っておきたく」

 費禕の思い詰めたような表情に、李平は笑った。

 「冗談よ。われは丞相を王にしたかった。

 陛下のお子は王だが、勲功のある臣が王になってもかまわぬ。そうは、思わないか」

 「……はい」

 「献帝のとき曹操は魏王となり、曹丕のとき孫権は王になった……このたびの魏に大勝した丞相の働きは、王にふさわしい」

 「……それで、以前丞相に王になるよう、すすめられたのですか」

 李平は、ため息をついた。

 「うむ。しかし丞相は、賊を討伐して久しいのに知遇に答えられていない。もしも魏を滅ぼして曹叡を斬ることができれば、王にでもなんにでもなろう、とおっしゃった」

 (きっと、丞相ならばそういったのであろう)

 費禕は、目を落した。春秋戦国時代の斉や晋に等しい扱いをうけている諸葛亮ならば、王位を望むまい。

 諸葛亮の考えでは、海内に皇帝の劉禅ひとりがいればいい、ということなのであろう。

 「そこで、われは丞相を帝位につけようと考えた。なんじと公琰(蔣琬)は、われが丞相を監禁してでも成都に攻めのぼると思ったようだが……丞相にその気がなければ成功しない計略よ。

 陛下は、そうおっしゃっていたそうな。さすがはあの劉備の子だ。われは見損なっていた」

 そういって、李平はさびしげに笑った。

 李平には、李豊という後嗣がいた。

 かれは優秀な人物であったので、諸葛亮は李豊に書簡を書き、

 「正方(李平)の前過を正し、なんじが公琰(蔣琬)と忠実に職務を果たしてくれるならば、運はかならずめぐってこよう」

 とはげました。

 李豊は、のちに朱提太守にまでのぼった。

 三年後、諸葛亮の死を知った李平は、

 「われを知ってくれるのは丞相のみであった……その丞相が亡くなったとあっては、免罪もなくなったということよ」

 とつぶやき、ほどなく病気になって死去した。李平は帝位に即いた諸葛亮のもとで、丞相となって辣腕をふるいたかったのかもしれなかった。

 蜀軍が魏軍をおおいにやぶったものの、兵糧が尽きて撤退した、という報せは呉の孫権も知っている。

 「諸葛亮は、けなげにも魏を討伐しつづけている。それに対して朕らはどうか。

 どうにかして蜀のように、魏のちからを削れないものか」

 熅然とする孫権に、近臣はうつむくばかりである。

 (兵が少なすぎる、ということか)

 先述したとおり、呉から魏への人口流出はとまっておらず、徴兵に苦労している。

 (蜀が魏を討っているあいだ、呉はまったく勢力を拡大できていない)

 熟考した孫権は、ある日将軍の衛温と諸葛直を召して、

 「なんじらは、夷州と亶州を知っているか」

 と訊いた。ふたりは首をかしげて、

 「くわしくは……」

 「かつて秦の始皇帝が、徐福に不老不死の薬を探させた地であるときいたことがあります。

 徐福は結局帰還しなかった、とのことですが」

 と答えた。

 夷州と亶州は、諸説あるものの台湾、あるいは倭国(日本)という説もある。

 「そうだ。始皇帝は方士の徐福を遣わせて、海中の神山とそこに住む仙人を探させた」

 側近の一人は、

 「徐福が帰ってこなかったのは死んだのではなく、神山を見つけてそこに住んだためという話もあります。

 いまではその子孫は増えて、数千戸の家を建てているとも聞きます」

 場がどよめいた。

 「夷州の方が、わが国からは近いようです。

 会稽に夷州からの商人がやってきて、布を商ったりしているそうです。

 また会稽の漁師が海で遭難し、亶州に流れ着くということもあるそうで……」

 孫権は玉座から前のめりになって、

 「そうか。むこうから会稽に来ることができるということは、こちらから夷州と亶州に行けるということだな」

 衛温と諸葛直は、顔を見合わせた。

 「夷州と亶州は、伝説ではないということだ。かならず捜しあてよ」

 「はい。そうしましたら、その目的は」

 孫権は、

 「神山があるという夷州と亶州ならば、そこに住む民族はさぞかし勇敢で、なんとすれば呪術をつかえるやもしれぬ。

 わが軍に二州の兵が加わると、さらに強兵になるとは思わぬか」

 とこともなげにいった。

 (ようするに、人狩りか……)

 心中暗澹とした衛温と諸葛直は、一万の兵を与えられ、会稽から多数の船で航海に出た。

 『三国志』によると、どうやらふたりは、会稽から近い夷州にはたどり着くことができたようである。陸地からはなれず、口伝や憶測をはたらかせながらの航海であった。

 「ところで、亶州はどこにあるか知る者はいないか」

 夷州の原住民たちに中国のことばがつうじるはずがない。亶州は、日本の九州南部の島々であったのだろうか。

 衛温と諸葛直はもはや亶州に行くどころではない。長い遠征で兵糧が減ってきていたし、兵たちも故郷の呉に帰ることができるか不安が蔓延していた。

 結局ふたりは夷州の住民数千人を船に乗せて、帰途についた。

 黄龍二年(二三〇)に出発して、帰還したのは黄龍三年(二三一)の春だったので、一年の航海であった。

 「このような成果だと、陛下に顔向けできぬな」

 「うむ……気が重いことよ」

 衛温と諸葛直は、このように会話しながら帰途についていた。

 なにしろことばも通じぬ夷州の住民は強兵にはなりようがなさそうだし、亶州の場所もわからなかった。

 不老不死の仙薬などむろん持ち帰ることはできなかった。

 「なんじらは、一年間もいったいなにをしてきたのか」

 案の定、孫権は激怒した。あわれな衛温と諸葛直は獄に下され、誅殺されたというから、孫権も酷なことをしたものだ。

 孫権はこの頃、遼東の公孫淵に使者を出してそれを魏軍に発見され、田豫に撃滅されたり精彩に欠いた年月を送った。

 かつて田豫は劉備に仕え、別れるときに、

 「君とともに大事をなせぬことが、残念である」

 とまで高く評価されていた人物である。

 しかし田豫は、劉備を高く評価しなかった。

 (劉備は、時代を変えるほどの改革者ではない。浮草が流れて大樹になった稀有な例にすぎないであろう)

 と、遠くから劉備を見ていた。

 田豫は、公孫瓉の客将だったときの劉備に身を寄せていたことがある。

 劉備が豫州刺史になった頃、老齢の母を案じることを理由に、劉備に従わなかったのである。

 いま劉備から離れたことに、田豫は後悔していない。

 劉備は皇帝にまで昇ったとはいえ、支配しているのは益州一州にすぎず、曹操に従って累進した時間の方がはるかに充実していた。

 ちなみに公孫淵は、魏の国力を恐れるようになり、呉の使者を斬ってその首を洛陽に送ることになる。

 このような卑怯な両面外交を賢明な曹叡は赦すはずがなく、後年公孫淵の遼東王国は司馬懿率いる討滅軍に滅ぼされることになるのである。

 さて、諸葛亮の北伐は総決算の時期にあるといっていい。

 三年前、李平のせいで撤退せざるをえなかったとはいえ諸葛亮は、

 (魏の将兵は、決して恐るるに足らず)

 とおおいに自信をもった。

 (司馬懿は手ごわいが、奇策を弄せず、手がたい戦い方しかしない。

 魏兵の強度は、漢(蜀)兵におよばない。

 つぎの出師では、大勝してみせる)

 諸葛亮の懸念といえば、やはり兵糧である。

 そこで帰還した兵たちを帰農させ、漢中郡の沔陽の東にある黄沙にとどまらせて農耕を奨励した。

 さらに輜重の運搬を円滑におこなうことができるよう、木牛のほかに流馬という車を製作して量産化に成功した。

 (兵に関しては、じぶんで鍛えて戦う)

 諸葛亮は、漢中郡でみずから兵を訓練し、兵に武術を習得させた。

 もはや大軍であっても、諸葛亮は兵を手足のごとくうごかすことができる。

 諸葛亮は講談の『三国演義』で奇術をつかう天才軍師ではなく、元帥としておもに司馬懿との攻防をつうじて成長したのであり、最初から名将であったわけではない。

 (兵糧をおおいに増産し、戦場で一気に魏とのけりをつける)

 諸葛亮は、正攻法の人である。

 ゆえに魏との有利な戦いを撤退した建興九年(二三一)と翌建興十年(二三二)は、軍事をおこなわず、穀物の備蓄に専念した。

 (これでも、まだ念をいれておきたい)

 建興十一年(二三三)も、農産物の取り入れを待ち、忍耐に徹した。

 農繁期を終えたと見た諸葛亮は、

 「米を運んで、斜谷口に集めるのだ」

 と諸軍に命令を下した。

 (つぎの北伐は、われの乾坤一擲の勝負になるであろう)

 勝算は充分あり、鍛えに鍛えた蜀軍の兵は、魏軍と互角以上の戦いができることは証明済みである。

 大量の兵糧が、食料庫の邸閣に運び込まれた。

 「これで、いつでも戦えるな」

 諸葛亮は、かたわらの姜維にいった。

 (伯約には、わが軍事を伝授しておきたい)

 諸葛亮は、そう思っている。

 姜維は蜀軍でも戦略眼では抜群であり、魏延や呉壱らよりも若い。

 そういうときに、南方の異民族である劉冑が叛乱を起こした。

 「このようなときに……」

 姜維が悔しがっていると、諸葛亮は笑ってなだめた。

 「奮威将軍(馬忠)を、遣らせる。かれならば、鎧袖一触で劉冑を討ち取るであろう」

 馬忠は益州の巴西郡閬中の出身で、あざなを徳信という。

 郡吏となりやがて漢昌県の県長となり、その治安は評判となった。

 馬忠が県長在任中に、劉備が大軍で呉を攻めたが、陸遜に敗れ撤退した。それを聞いた巴西太守の閻芝は、

 「非常の事態となった。諸県から兵をあつめ、陛下をお助けしてくれ」

 と馬忠に命じた。

 「うけたまわりました」

 と五千の兵をすぐにあつめた馬忠は、巴西郡から巴東郡に急行し、呉軍を蹴散らし、劉備の命を救った。

 馬忠を引見した劉備は、その賢さにうたれ、

 「この度の戦で公衡(黄権)を失ってしまったが、かわりになんじを得た。

 蜀にはまだ賢者がおおい、ということだ」

 とほっとしたようにいった。

 劉備が崩御して劉禅が即位すると、丞相の諸葛亮は馬忠を門下督とし、二年後の南中征伐では牂柯郡の太守となった。

 牂柯郡は朱褒が叛乱を起こした後なので、鎮定された後もまだ動揺はおさまっていなかった。

 「牂柯郡は、人にたとえるとまだ病人のようなものだ。看護し、健康にもどしてやらねばならぬ」

 馬忠の撫育は、牂柯郡のすみずみまでいきわたり、平穏を取り戻した。

 やがて中央にもどされた馬忠は、その文武両道の才を買われ、長史の蔣琬の次官となった。諸葛亮が外征で不在のときは、丞相府の事務を一手に任された。

 益州の汶山郡で羌族が叛乱を起こしたとき、馬忠は部下の張嶷とともに制圧し、その地を鎮静化したことを諸葛亮はおぼえている。

 張嶷も、軍事においては鬼才である。馬忠の右腕として属将になっている。

 「丞相が魏を討つために漢中に行かれると、よく辺境で叛乱がおきることよ」

 馬忠は、張嶷に皮肉な笑みをみせた。

 「丞相には、一刻もはやく安心して魏賊をたたいてもらわねばなりませんね」

 張嶷は、あくまで自然体である。

 馬忠は張嶷をつれて劉冑の鎮定に向かったが、戦場でのはたらきは張嶷が群を抜いてすさまじかった。

 はたして劉冑を斬ったのも張嶷で、馬忠は諸葛亮と同じく有能な部下をもつありがたさを知った。

 さらに益州東南部にある牂柯郡興古県の䝤族が叛乱を起こしたときは、

 「われがわざわざ出向くまでもなかろう。なんじが行ってくれ」

 と張嶷に討伐を命じた。

 ここでの張嶷の軍事は神がかっており、諸軍を率いて牂柯郡に入ると、あっという間に叛乱を鎮定した。

 張嶷を慕って降伏した二千人の䝤族は、諸葛亮のいる漢中に送ることにした。

 「馬忠と張嶷がいれば、後顧の憂いはないな」

 姜維に笑顔をみせた諸葛亮であるが、秋から体調に不安をおぼえていた。

 身体のだるさ倦怠感と、たまに夜になって発する微熱である。

 (もしや、これがわれの最期の戦いになるやもしれぬ)

 諸葛亮の白い横顔を見つめた姜維は、

 「どうか、ご無理だけはなさいませぬよう……」

 という他なかった。諸葛亮は軍中のわずかな吏務から政務にいたるまで、夜明けから深夜まで処理しつづけている。

 (馬忠に劉冑の叛乱を任せたのも、丞相ご自身の体力がなかったからか)

 姜維は、気づいてはならぬことに気づいたように思った。諸葛亮は諸事人任せにすることはない。それだけ、諸葛亮の体調が逼迫しているということなのだ。

 漢中郡において年を越した諸葛亮は、呉の孫権に、

 「春に、出師します。陛下(孫権)におかれましても同時に兵を出していただきたい」

 と書簡を送った。

 ときは建興十二年(二三四)、魏では青龍二年、呉の嘉禾三年になっていた。


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