赤壁
三
徐庶は、曹操軍の奮武将軍である程昱に面会していた。
「孫権は降伏せず、劉備と同盟をむすんだと。そういうことだな」
そういった程昱は、天を仰いだ。
「劉備など、孫権を倒せばなんなくしまつできるでしょう。なにをそのようにお嘆きになるのです」
徐庶は母を保護してくれていた程昱のために、曹操軍と劉備軍の二重間諜をしているのである。
(諸葛亮は、復讐の鬼だ。かれに天下の政柄を握らせると、春秋時代の伍子胥になりかねない)
徐庶には、そのような畏れがある。
それはそれとして、程昱は失望から椅子に座ってこういった。
「孫権は孫策の後を継いで、まだ海内においてはばかられるところまではいかぬ。
丞相(曹操)は天下に敵するものはなく、孫権に周瑜がいようとも、独りで丞相には当たることができるとおもうか。
劉備には英名があり、関羽と張飛は兵一万人に匹敵する。劉備は丞相と孫権の戦いが一段落すれば、孫権から分離して独自の基盤を築くだろう。そうすれば、だれも劉備を殺せない……」
のちの歴史をみれば、程昱の預言力はすさまじい。
まだ赤壁の戦いの勝敗も決していない時点で、劉備の成功を預言したのは程昱以外にだれもいない。
劉備の配下である関羽と張飛、さらには先の展望を描いている諸葛亮でさえ、このような楽観的な未来を劉備には告げていないのである。
後世の歴史家たちは、諸葛亮あるいは関羽と張飛らの活躍で劉備は帝位に就いたと言及することが多いが、同世代人の程昱からすれば、劉備は劉備のちからで成長を続けると預言しているのが興味深い。
さて、曹操軍は孫権からの返書がないので、江陵から大船団を発進させた。
ところが、こんどははやくも諸葛亮と周瑜の預言が的中することになる。
船団内における疫病の流行である。
やはり急な遠距離の移動、さらには孫権との決戦という激務に、兵たちは疲労し、身体の免疫力が落ちたところに、江南の風土に合わない不幸も重なったのであろう。
曹操は洞庭湖にのぞむ巴丘で病人を下船させ、疫病のひろがりをふせぐために多くの船を焼いた。
病人のそばにいた兵も、疫病に罹患している恐れがあるため下船させたので、船と兵の数が激減した。
防疫処置をとった曹操であったが、それでも疫病のひろがりをふせぐことができなかった。
曹操軍の軍師は華歆であるが、華歆は武略に長じているわけではなく、もともと孫策に仕えていたので、呉の地理や事情に詳しかったから選ばれたとみるべきであろう。
本来の軍師の地位にいた天才の郭嘉は、さきの袁紹一族討伐において病没している。
曹操は孫子の研究家で、もちろん呉軍との水戦を想定してはいるものの、かつてその経験がないために、万全の自信はない。
「惜しいかな、奉孝(郭嘉)。かれがいれば、このようなことにはならなかったであろうに」
曹操はこう嘆じた、という。
このような大船団である。奇策はたてることができない曹操は、結局数に恃んで孫権の水軍を殲滅するという方針となった。
江夏郡に入ったところで、両軍は遭遇した。
「曹操軍の艦影を、多数確認」
「よし、船団を密集させよ」
物見の報告を受けた周瑜は、曹操が鶴翼の陣を展開して包囲殲滅するのを予想していたので、あえて船団を密集させ、敵の弱みをさぐった。
玄武池で水軍の演習を繰り返してきた曹操だが、船団の陣形をたやすく変化させることはできない。
曹操軍は江水の上流に位置するので、下流の周瑜軍にくらべ、優位であることはまちがいない。
戦艦から矢が放たれ、戦闘が開始された。
曹操軍は疫病で船を多く焼いているので数は激減しているものの、それでも周瑜の船団よりはかなり多い。
周瑜軍を包囲しようとした曹操軍の右軍が、周瑜の前で船の横腹をみせた。
「それ、敵半分が横腹をみせたぞ。船団を半分にわけて、横腹を突いてやれ」
曹操の戦術を見通している周瑜に、攻撃形態の迷いはない。
密集形態をたもったまま、周瑜はすばやく船団の半分を、曹操軍の横腹をみせた右翼に突進させた。
潮流を利用した攻撃は、周瑜軍が下流に位置するにもかかわらず、機動性を維持している。
密集していた周瑜の船団は、ここで大小の船をひろく展開し、曹操軍右翼を襲った。
「見よ。曹操は船団の陣形変化ができないぞ。このまま敵の片方の船団を食い破れ」
周瑜は曹操軍左翼を分割した船団で防いだまま包囲させず、主力を自由自在に操って曹操軍右翼を撃破してゆく。
「この一戦で、曹操を捕らえるぞ」
周瑜は小型の快速船である軽舸を展開させ、曹操の旗艦に突進させた。
軽舸は小型で速度があるがゆえに、大型船に軽々と近づき、縄をかけて曹操旗艦に乗り込むことができる。
曹操の後方に位置していた曹純が危機を察知して、かれの乗船である蒙衝艦を救援にむかわなければ、旗艦は軽舸との白兵戦に見舞われていたかもしれない。
他の蒙衝艦も、多数曹操の旗艦への救援に密集してきた。
「老賊を取り逃がしたか」
周瑜は太鼓を叩いて軽舸を撤収させた。
しかしいつのまにか、曹操軍は下流に流され、呉軍の船団が上流に位置している。
これを見逃さなかった副将の程普は、
「さすがは周郎(周瑜のあだ名。男前の周瑜という意味)。年寄りもいいところを見せねばな」
といってみずからの艦隊を曹操軍に向かわせた。
熾烈な戦いである。
船の連動には呉軍にかなわない曹操軍も、訓練の成果があって、艦隊戦ではなかなか周瑜と程普の兵に劣らぬ抵抗をみせた。
「曹賊、やるな……」
艦隊連動での差をみせつけたものの、敵を四分五裂できない現状に、周瑜は曹操軍あなどりがたし、と理解した。
そして日没をむかえ、両軍は撤退していった。
呉の船団が停泊しているのは赤壁という土地である。
歴史上この一連の戦いのことを「赤壁の戦い」と呼ぶが、曹操軍が停泊している土地は赤壁の西北に位置し、烏林という土地である。
ゆえに魏では後年、この戦いのことを「烏林の戦い」と呼んでいた。
(こちらの戦い方を、相手に知られたな)
この前哨戦では、孫権軍の方が手の内をみせてしまった、という悔いが周瑜には残った。
曹操軍は艦隊連動にまどわされず、孫権軍の船団が攻撃するのを迎撃する陣を敷くであろう。
曹操軍は呉軍の対岸で平然と停泊している。
それはみずからがうごかず、周瑜に攻撃をしかけさせるのを待つ落ち着きでもあった。
「軽々しく攻めると、手の内を知られているこちらが負ける……策を考えねばな」
周瑜は、はじめて焦りをかんじた。
曹操は長い対陣によって、敵のほころびを待ち、勝利をつかんだこともある。
兵糧が潤沢に輸送される曹操軍に、長期戦の不安はない。
数日にらみあいをつづけた周瑜は、
「劉備に、曹操の陸上の営塁を襲わせるか」
と、いった。さきほどの劉備との会談で、
「見ているだけでいい」
と放言したことを周瑜は悔いたが、だめでもともとと劉備に使者を送った。
「陸上にある曹操の陣を襲えと……そういうことでよろしいのかな」
さすがの劉備も、周瑜の虫のよさに内心むっとした。
使者の本当の意を察したのは、諸葛亮だけである。
(周瑜は、苦しいのだな)
諸葛亮は、答えをしぶる劉備を見ずに、
「わかりました。さっそく曹操のいる烏林にむかいましょう」
と答えた。周瑜の使者が帰ったあと、怒ったのは関羽と張飛である。
「軍師、なんじはいつから周瑜の狗になった」
「あれほど主をこけにしておいて、命令にしたがうとはどういうことか」
諸葛亮は関羽と張飛を一瞥して、
「周瑜にしたがうのではなく、つけこむのです」
と冷えた声でいった。
「つけこむ、とはどういうことかな」
劉備は諸葛亮の返答に興味をもった。
「私は烏林にむかう、とはいいましたが、曹操軍と戦うとはいっていません。
そもそもここにいる二千の陸兵で、十倍以上の曹操軍を破ることは不可能です。
おそらく周瑜は、ほんとうの同盟軍か否か、主を試しているのでしょう。それに乗ってやりましょう。
ただし曹操軍の退路を断つふりをするだけで、戦う必要はありません。
いわばわれらは戦わずして周瑜のわれらへの油断を引き出すことができ、戦後の占領地獲得の布石をうつことができるわけです」
関羽と張飛は、顔を見合わせた。
「いわば周瑜は、主が呉のために働く気があるのかをためしているということか」
関羽は春秋左氏伝を暗唱するほどの武将なので、他国との機微を理解するのははやい。
「はい。それに乗ってやらねば、周瑜の信用を得ることができず、戦後の果実は得られない……そういうことです」
諸葛亮も関羽と張飛の扱い方は、お手の物である。
「曹操の陣を襲うふりをすれば、曹操軍も退路を断たれるとあわて、周瑜と決戦する期日をはやめるかもしれませんな」
趙雲は諸葛亮のそばにいることがおおいので、その策戦に乗り気になっている。
「よくわかった、孔明」
劉備は、もともと戦術が下手ではない。
夏侯惇や于禁の軍を一蹴できるほどの勝ちを経験しているし、冷静に敵の兵力を分析し、勝つべき戦いに勝ち、負けるべき戦いに負けているだけのことである。
長阪での戦いで敗北したのは、曹操みずから兵を率いて攻めてきたからであって、かつて曹操に大きな恩義を受けた劉備は、曹操が来れば逃げるようにして、直接対決したことはない。
それを知っているのは、諸葛亮だけであり、あえて劉備の仁義を貫かせてやっている。
「そうと決まれば、さっそく出陣しようではないか」
張飛は素直なところがあるので、筋を通した説明が腑に落ちると、だれよりもすさまじいはたらきをする。
「益徳どの。ゆっくりでよいのですよ」
諸葛亮が先鋒の張飛をなだめつつ、劉備軍は樊口を出発し、曹操軍のいる夏口にむけて進軍を開始した。
一方の周瑜の陣営で、新たな策を献じた武将がいる。
黄蓋、字は公覆である。
孫権の父である孫堅の挙兵に参加して、董卓と戦ったころからの宿老である。
むろん水軍での戦いの経験も豊富な黄蓋は、曹操軍の大船団を毎日眺めるうちに、とある発想を得た。
周瑜に会いに行った黄蓋は、
「曹操軍の艦船をよく見てみますと、大軍ゆえに船首と船尾が接するほど近いのです。
焼き討ちを敢行すれば、一網打尽にできるのではありますまいか。
このまま持久戦を続けるよりは、よい案だとおもうのですが……」
と献策した。
「火攻め、なあ」
周瑜もそれについて考えなかったといえば、嘘になる。
「たしかにそれは良案に違いないですが、火を積んだ船を曹操軍に突入させねばなりません。それができるかどうか……」
周瑜の本音である。また、冬は西北の風しか吹いていないので、燃えさかった火が後続の孫権軍に飛んできて自滅するおそれもある。
「東南の風さえふいてくれれば、可能かもしれないが」
「その心配はご無用です」
「なんですと」
「私が蒙衝艦を率いて曹操軍の艦船の間に入り込み、火を放てば風は関係ない」
「……」
周瑜は、絶句した。
(佯降の策を実行するつもりか)
黄蓋が曹操軍の攻撃を受けずに大船団に突入するには、偽って投稿する策しかありえない。
「提督のお考えのとおり。私が曹操に投降すれば、火攻めは成功する」
「しかし、公覆どのは孫氏三代に仕える宿将……曹操が信じるかな」
「大きな嘘こそ、相手は信じやすいもの。曹操が袁紹との戦いに勝ったときを、思い返してごらんなさい。彼はいつも敵の裏切りを歓迎することで勝利を得てきた体験がある」
「ふうむ……」
たしかに曹操は官渡の戦いなどで、敵将の内通や裏切りを受け入れ、その度量の大きさを示すことによって勝利を得てきた履歴がある。
力押しよりも、敵の内部を崩す方法でいまの地位を築き上げたといっても過言ではない。
(その逆を突けるならば)
あるいは曹操は宿将の黄蓋までもが、天子の軍に抗えぬと佯降を歓迎するかもしれない。
「公覆(黄蓋)どの、やってくださるか」
そうなれば、いちかばちかの賭けである。黄蓋の策を曹操に看破されれば、黄蓋は曹操に処刑される。
「むろん。さっそく曹操に書簡を送りましょう」
黄蓋は、この一大会戦に老いた身が役立つと感じ、勇躍している。
「私こと黄蓋は、孫氏三代の厚遇を受け、つねに兵を率いる身として戦ってきました。
しかし、今回はどうでしょう。
中華百万の軍勢を、呉越の少勢で戦うのは衆寡敵せず、天下の大勢に逆らうことができないのは顕かです。
わが軍の将兵は、だれも丞相(曹操)の兵と戦うことをはばかっているにもかかわらず、周瑜と魯粛だけが、浅慮をもって戦意を高揚させているにすぎません。
丞相に投降するからには、有効な策を私はもっており、それを実行すれば周瑜の艦隊をたやすく撃破できます。
会戦当日、私は先鋒をかってでます。丞相のためにお役に立てる日がくることが待ち遠しくてなりません」
黄蓋の使者を、曹操は直接引見した。
「黄公覆の王朝への忠義は、殊勝である。
われが懸念するのは、なんじの忠義が偽りであることであるが、その信義をたしかめることができれば、かつてない褒賞を授けるであろう」
曹操は周瑜との我慢比べに勝った、と感じた。いわば、過去の成功体験に埋没した瞬間ともいえた。
使者がもどってくるやいなや、黄蓋は周瑜の本営に面会に行った。
「まことですか……」
周瑜は黄蓋の策が当たったことに、驚いた。
「よろこぶのはまだ早い。今から軽装の小舟数艘をご用意ください。
ここに枯れた柴を積み、魚油を出発寸前に染みこませます。その上に見破られないように幕をかぶせておけば完成です。
これらの船を私が率いて、曹操の大船団に突入して火を放てば炎上は必至……だれも私の投降を妨げないものはいないでしょう」
「しかし、公覆どのを死なせてしまう」
周瑜の美しい顔が、ゆがんだ。
「天が意気を感じれば、また生きてお会いできないともかぎりません。
ただし、問題は風ですな……」
冬の長江は西北の風しか吹かないことは、先に述べた。黄蓋の苦肉の策が成功したとしても、風が西北向きであれば、結局曹操軍の先陣だけを焼き、火は孫権軍に向かってしまう。
「三日だけ待つ。曹操の疑いが濃くなれば、せっかくの策が無駄になる」
周瑜は、黄蓋の乾坤一擲の大芝居を貫徹させてやりたいと思っている。そしてそれが大勝利に結びつくことを天に祈っていた。
後世の講談では、諸葛亮の大活躍を描きたいがために、諸葛亮が壇を築かせて東南の風を祈った場面を登場させているが、むろん架空の話である。
諸葛亮と周瑜は面会したことすらなく、むろん魯粛と曹操軍の矢を借りたこともない。
劉備と諸葛亮は、曹操軍の背面にまわりこんだものの、息をひそめて戦場を見守っていただけである。
相変わらず、赤壁には西北の風しか吹かない。講談の道士よろしく東南の風が吹くことを知って壇上で祈った諸葛亮よりも、周瑜と黄蓋の祈りは真剣そのものであった。
三日目の夜、出撃準備を先行して終え、眠っていなかった周瑜は、風向きの変化に気づいた。
「周提督、東南の風ですぞ。今日出陣します」
おなじく眠っていなかった黄蓋が、周瑜の本営に飛び込んできた。
「これぞ天佑……なんじとわれの祈りが天に通じたのであろう」
周瑜は胸にこみ上げるものを感じつつ、旗艦にむかった。
風向きがかわれば、蒙衝艦ら大型艦船にも薪を積み込み、曹操軍に突入することができる。
数千の兵を使って、大小の艦船に火攻めのための草木を積み込んだ。
(曹操に露見しないであろうな……)
夜中の作業なので、対岸の松明は曹操軍が察知しているはずである。
(黄蓋の投降作業だと思ってくれれば)
周瑜は、一大決戦の前夜を不眠で過ごした。
朝になって、東南の風はますます勢いを増して吹いてきた。
「ようし、風よ吹け」
勇気百倍の黄蓋は、江南特有の厚く雲におおわれた空を見上げて叫んだ。
蒙衝艦に乗り込み、軽舸を幾艘も綱でつないだ船団は、曹操軍に向かって出陣した。
曹操は船に乗らず、陸上の営塁で夜間の松明のうごきという報告を聞いていた。
今日周瑜が攻撃をしかけてくるのは察知したが、懸念しているのは黄蓋の裏切りが看破されたか、ということであった。
やがて対岸から、数十艘の船が曹操軍の船団にむけて近づいてきた。
「黄蓋の降伏だ」
曹操軍の兵士たちが、大声でさけんだ。
将兵も乗り出すようにして、急接近してくる黄蓋の船団を迎えようとしていた。しかし。
「この生臭いにおいは何ぞ」
東南の風が、風下の曹操軍に魚油のにおいを運んできた。
黄蓋の船団をよく観察してみると、船にほとんど兵士が乗っておらず、軽舸の船上は幕に覆われているではないか。
「この投降は罠だ。黄蓋の船を止めよ」
曹操軍先鋒の隊長が、絶叫した。
しかしその絶叫は、大勢の兵士たちの投降を歓迎する声に消されてしまう。
曹操も火攻めの危険に気づき、軍吏を各艦隊に走らせた。
時すでに遅し。黄蓋の船団が魚油を染みこませた草木に点火し、火を吹いた。
「総員、退却」
曹操軍の大船団から多数の兵士が軽舸に逃れて撤退をはじめた。
そのとき火炎の塊となった数十艘の黄蓋の艦隊が曹操軍船団に激突し、爆発のように火炎が上がった。
東南の風に煽られた火炎は、またたく間に密接した曹操軍の艦船に延焼し、灼熱地獄と化した。
逃げ遅れた兵が焼死しただけでなく、冬の長江に落ちた数千の兵が溺死した。
曹操は歯がみして自軍の惨状を振り返ったが、陸上の営塁にまで火が延焼してきたので、あわてて撤退した。
黄蓋はどうなったか。
軽舸に乗って船上を離脱しようとしたが、敵の船からの矢を肩に受け、たまらず船上から落ちた。
後続の将である韓当の船団が、半死半生の黄蓋を発見して引き上げ、誰かわからず、船の厠に寝かせておいた。
矢傷の痛みと寒さに我慢できなくなった黄蓋は、声をふりしぼって、
「義公、義公はおらぬか」
と叫んだ。義公とは中郎将の韓当の字である。
「義公とは、中郎将のことか」
黄蓋の叫びを聞いた兵が、韓当のもとに溺れていた傷兵を厠に寝かせていることを伝えると、黄蓋を探していた韓当は、
「なぜ、それをはやくいわぬ」
と兵をなじり、厠に駆け込んだ。
「おお、公覆。よくぞ生きておった」
韓当が黄蓋の濡れた衣服を着せ替え、矢傷を手当てしたおかげで、黄蓋は九死に一生を得た。
なお黄蓋はこのときの功績を認められ、戦後、武鋒中郎将に任じられた。
周瑜はついに船から降りて、陸上にあがった。曹操を追跡して荊州を得るためである。